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 失われた記憶 ~いつつめ~

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「さってと。急がないとね」

 ただいま午後三時半。何事もなく授業も終わり、百香は急いで昇降口へ向かう。
 今日からバイトのシフトが入っているのだ。
 五時から八時まではハンバーガーショップ。八時半から十一時まではファミレス。
 それぞれ週に五日、土日は両方で、比較的余裕のある収入になる。

 .....何より、どっちも賄いがつくのよね。夕食が浮くし上手くすれば翌日の朝食にも回せるし♪

 思わず顔を綻ばせる百香に、柏木が声をかけてきた。

「鎮海さん、良かったら皆と御茶をいたしませんこと? 美味しいカフェを見つけたのですって。これから皆と参りますの。御一緒しませんか?」

 おっとりと首を傾げて、彼女は友人らしい女生徒らと立っている。
 柔らかく微笑む可愛らしい女生徒達。
 誘いは非常に嬉しいのだが、百香の生活がソレを許さない。

「ごめんなさい、これからバイトに行かなきゃならないの。誘ってもらえて凄く嬉しいんだけど。ほんと、ごめんなさい」

 おろがむように両手を合わせる百香。
 それに眼を見張り、女生徒らは顔を見合わせる。

「そうでしたの。宜しくてよ。事情があるのですものね」

 にっこりと快く頷いてくれるクラスメイト達に、申し訳ない気持ちを抱きながら、百香は慌てつつも廊下を早足で歩いていった。

「バイトって、アルバイトですわよね?」

「苦学生でいらっしゃるのよ、お気の毒に」

「キチンと御自分で賄っておられるのね。立派だわ」

 ほんのりと同情を浮かべて見送る女生徒達の中で、何故か柏木だけが蛇蝎だかつを見るが如く辛辣に眼をすがめていた。



「ヤバいヤバいっ、思わぬ時間を食っちゃったっ」

 アルバイト先は学園から徒歩で四十分ほど。
 授業の終わりと照らしても余裕のある出勤時間を想定していたのだが、教室から昇降口までの時間を計算していなかった。さらには昇降口から門までの時間も。
 無駄にデカイ建物と校庭は、門にたどり着くまでに二十分も食わせ、途中で柏木達と話し込んだロスタイムも加わり、走っても時間内につけるか際どい有り様だった。

 .....初日から遅刻とか、ないないないっ!

 疾走する不動学園の制服に、通りすがった人々が立ち止まっては振り返る。
 まるで珍獣を見るが如き眼差しに、百香は苦虫を噛み潰した。

 .....えー、えー、そりゃあ珍しいでしょうよっ! あの金持ち学園の生徒が髪を振り乱して全力疾走とかっ!

 無心で走り続ける百香の横で、甲高いブレーキ音が聞こえる。

「おいっ! どうした?」

 そこに居るのは草部。彼は部活用のジャージ姿で自転車に跨がっていた。

「.....はっ、ごめん、急いでるのっ!」

 振り返っただけで速度を落とさず、百香は手短に答える。
 その彼女を自転車で追いかけ、草部は百香の前に回り込み、彼女を止めた。

「急いでるんなら乗れよ。送るからさ」

 一瞬、迷った百香だが、背に腹はかえられない。警察に見つかりませんようにと祈るのみ。

「お願いしますっ!」

 草部は百香を後ろの荷台に座らせ、駅前のハンバーガーショップへ行きたいのだという彼女に頷き、力一杯ペダルを漕いだ。



「十分前ーっ! セーフだっ!」

 けつまろびつ自転車から飛び降りた百香は、草部に深々と頭を下げる。

「ありがとうっ、助かりましたっ!」

「いや。俺も部の買い出しに出たついでだから。バイトだろ? 頑張れよな」

「うんっ! 私がシフトの時に来てくれたら、ポテトのサービスするねっ」

 屈託なく笑い、百香は店の裏口へ駆け込んでいく。
 それを見送り、草部は眼に弧を描いた。百香の頭で揺れる尻尾が可愛らしい。
 何となく好い気分で、彼は学園へ自転車を走らせる。買い出し云々は出任せだ。彼女の心に負担をかけないための。
 たまたま通りすがっただけだが、幸運だった。彼女の窮地を救えたのだから。

 .....帰りにでも店に寄ってみようかな。いや、それだとポテト目当てに来たみたいで、何か嫌だ。また折を見て覗きに行こう。

 知らず上がる口角を自覚しないまま、草部は鼻歌混じりに駅前をあとにした。



「いらっしゃいませーっ」

 遅刻を回避した百香は、上機嫌で接客中。

 .....ほんとに助かったわ。初出勤で遅刻なんてしたら、心象最悪だっただろうし、草部君に感謝しないと。

 商品をお客様に渡しながら、百香は心の底から安堵に胸を撫で下ろした。
 そして来客のベルが鳴り、慌ててカウンターへと足を向ける。

「いらっしゃいませ、御注文は御決まりですか?」

 にっこり微笑む彼女の前で、サングラスをかけた人物が、ぽかんっと口をあけた。
 ジャケットのフードを目深にかぶり、口元しか見えないお客様。
 無言で見つめてくる男性に、百香は首を傾げる。

「お客様?」

「あ...... いや」

 つと口元を押さえ、しばし固まった男性は、物憂げにサングラスをずらした。
 そこには感情の欠片も見えない薄茶色の瞳。

「秋津君?」

「ああ。ここはよく使う。.....バイトか? 何時から?」

「今日からなの。御贔屓にしてね」

 にぱーっと快活な微笑みを浮かべる百香。彼女の営業用ではないスマイルに、周囲の男性らからも視線が集まる。
 その男どもに冷たい一瞥いちべつをくれ、響は自分に向けられた親しげな百香の笑顔に胸を高鳴らせた。

 .....変わらないな。うん。 .....他の野郎共に見せるのは業腹だけど。

 昔の面影を残した屈託のない笑み。

 響の耳に潮騒が押し寄せ、懐かしい足音が聞こえた。砂を咬む独特な足音が。

 脳裏にそぞろ浮かぶ数々の記憶思い出。追憶の彼方に消えたはずなソレをサルベージし、響の時間が過去に巻き戻った。

 何物にも代えがたい、煌めく記憶のときへと。
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