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湖で拾った王子様は、カレーが食べたい。
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――これは、一組の夫婦がカレーを食べるまでと、それからの話。
***
王族の証たる菫色の瞳を呪い続けてきた青年は、今日ほど自分の血統を思い知らされたことはなかった。
元々猫のような目尻を吊り上げ、真っすぐに相手を睨みつける目には怒りがあらわだ。
「食事で俺を懐柔できると思うなよ。……俺は、絶対に、お前と結婚などしないからな」
しかし睨みつけられた、花嫁であり彼の命を握った戦勝国――空の国の第一王女・ルドヴィカは、銀の睫毛の下の、彼と同色の瞳で不敵に微笑む。
涼しい目鼻立ちにほどいた腰まで届く銀髪。涼やかな美貌は、素知らぬ顔で銀色のスプーンを彼の口元に差し出した。
夫となる敗戦国の王子――数日前まで存在していた隣国の王子・クリストフの視線を正面から受け止め、
「はい、あーん」
可憐な唇に似合わない、落ち着いた声と、もっと似合わない口調。
何度も飽きもせず甘い粥を掬って差し出せば、ますます鋭くなるクリストフの眼光に、笑みを深める。
「何がおかしい」
ルドヴィカから見れば、彼が鋭く放ったつもりのテノールは、声量は小さく、なまくらな刃のようだ。
手入れを放置されて痛んでくすんだ金の髪は伸び切って目を半ば以上隠していたし、顎と首筋は細い。白いチュニックの上からでも筋肉が落ちた体は、20を超えたばかりなのに、もしや彼女とさほど変わらないのではないか、というほど。
「……いや、結婚はもう決まったことだ。というよりついさっき済んだばかりだ」
「何だと」
「敗戦国の賠償として、王がお前を真っ先に差し出した。それに、指輪入りのグラスを飲み干しただろう」
彼らの国との戦争の結末と同じように、仕掛けられた戦いを軽くいなせば、クリストフの瞳が、二人を隔てるテーブルの白いクロスの上を彷徨う。
並べられた料理。
部屋に二人きりゆえに下げられずに残っているワイングラスの底の指輪を見て、目を驚きに見開いた。
「誓いの杯……!」
続けて抗議したそうな彼の目の前に、ルドヴィカは軽く手を挙げる。
「式は飾りだからなくとも良いが、神への誓いは必要だからな」
「気付けに飲むか、配下の死か。どちらを望むか――と言ったのはお前じゃないか。あれは嘘をつく声ではなかった」
「そうだよ。結婚か死かと言い換えても同じことだ。
まあ、どちらを選んでも、殺すとは言ってないが」
彼女の言葉で、クリストフの視線にこもる明確な敵意とにじむ後悔を、やはり笑顔で受ける。
「……ただまあ、それは騙した私のせいだ。夫君に非はないから気にするな。
それより早く食べないと、せっかくの料理が冷めてしまうぞ」
ルドヴィカが言葉の物騒さとは裏腹に、にこやかに、そして手で「さあ」と示したように。
もともとぬるく作られていた料理は冷めかけていた。
新婚初日にしてはささやか過ぎる、柔らかいパン、牛乳で煮た甘い麦粥と野菜を煮込んだスープ、果物という簡素な食事だ。
だがそこに気遣いを感じるより先に、クリストフは鼻を小さく鳴らし、目に見えて動揺した。
「まさかお前も俺と同じ扱いを受けているのか。それで嫌々将軍に据えられ、前線に立たされているのでは?」
はっとしたように見返す彼の顔には邪気がなく、ルドヴィカは彼の人の好さについ苦笑が漏れる。
「胃に負担にならない食事を選んだだけだ。
……しかし夫君は、魚のように声が跳ねるな、さすが網に引っかかっただけのことはある」
――湖の国。
そう呼ばれるにふさわしい、数多の湖を抱えた風光明媚な麗しい隣国は、かつてここ空の国と、元の大国から同じ血を分けた兄弟王子が建てた国だった。
しかし入れ替わりのない水場が腐っていくように、やがて王族は腐敗し、高地にある空の国の宝石鉱山などの資源を狙って戦いを仕掛けた。
地形と高低差を無視した、無謀な侵攻の結果が、これだ。
国は滅び、王族の助命の嘆願は退けられ、湖の国は空の国の一地方に成り下がった。
国王の助命と引き換えに、と湖上に作られた離れの建物ごと差し出された――幽閉された――妾腹の王子クリストフは、最後のあがきとして湖に身を投げた。
そこを、将軍として訪れたルドヴィカが魚捕りの網で引き上げさせたのだ。
びしょ濡れの王子は医師の手当で三日三晩寝込んだ。初秋とはいえ水温は低いが、以前から続く栄養失調が原因だろうと報告が上がっている。
以降も亡国の王との話し合いが付く間、寝室と続きの間という一部屋に閉じ込められていたが全く苦にした様子もなかった。
ルドヴィカだけでなく、空の城に勤める者たちが、故国での彼の境遇を推測するのは簡単だった。
そしてこの国での彼の扱いが第一王女の夫、将来の王配と結論付け、今日の、この初対面ぶりの再会を果たすまでの一週間。
彼はほとんど食事をとっていない。
「だがそれも、陸に上がった魚なら、最後の悪あがきにしか見えないな。このまま食事を拒んでいては早晩くたばるしかないぞ。
……ところで粥の一匙は、もう少し多い方がいいだろうか」
彼女が何度も粥を掬い直しているのは量の調節だったと知り、クリストフはばつの悪そうな顔をする。
それをルドヴィカは素直なことだなとひそかに感心しながら、
「残念ながら私は戦場育ちでがさつだし、夫君は顎が小さいからな。少ない方がいいか? それともパンの方が……」
「命を救ってくれたなどと、礼など言わないぞ。俺から何か引き出せると期待しないことだ。……だから食事など出さずに放っておいてくれ」
「夫君が構わなくとも、こちらが構う」
「はあ? 俺は王家の厄介者で、機密などもともと持っていない――」
「よそはよそ、うちはうちだ。
夫君を死なせては妻の沽券に関わる、家長の命には従ってもらうぞ――はい、あーん」
スプーンからもう一度粥を掬って、ルドヴィカは口に近づけた。
「こ、子供ではない!」
思わず開けた口にルドヴィカはすかさずスプーンを突っ込んだ。反射的に口を閉じる直前、タイミングよく引き抜く。
クリストフが飲み下すのを見届け、満足げに笑った。
「やればできるじゃないか」
「卑怯だぞ!」
口を開ければもう一度、ルドヴィカがスプーンを突っ込もうとするのを手で防ごうとして、失敗した。
姫将軍と呼ばれるルドヴィカの得意武器は刺突用の剣で、狙いを定めることには慣れている。
「卑怯? 誰が見ても、夫の世話をする献身的な妻だと思うぞ」
「食事くらい……自分でできる」
「なら食べるがいい。食べられたら、明日はお前と一緒に揚がった魚料理にしようと、コックが言っていた。塩に漬けたから故郷の味ではないかもしれないが」
ルドヴィカはスプーンを骨の浮き出た手に握らせようとするが、クリストフは手をテーブルの上で握り締め、口を引き結んで俯いてしまう。
徹底抗戦のつもりだろうか。
「尋問を期待しているかもしれないが、そのつもりはない。私が世話を焼く理由の一つは夫君だからで、捕虜だからではない。
それにさっきも言ったが、このままだと本当に飢えて死ぬぞ。悲しむ配下がいるのだろう」
彼女はそっと息を吐くと、ゆっくり立ち上がる。
ぽつりと暗い声が追ってきた。
「配下、か。あれは配下じゃなくもともとは俺の監視役だが」
「殿下は無事かと命を賭して聞くのが友情や忠義からでなくて何だというんだ」
「だったら、彼らを人質にして、俺に『仕事』をさせる気はないのか?」
「嘘のことばを見抜くという、湖の国に伝わる不思議な力のことか」
ルドヴィカはは、と笑い飛ばしたが、一瞬、瞳に憎しみのようなものが混じる。
「私にはそんなものは不要だ。お前の国が負けたのも、愚昧な王が自分で考えもせずに力に頼り切ったのが敗因だったろう?
でなければ、あんなめちゃくちゃな、部下を捨て駒にする戦術はとらない」
「確かに、父に王としての資質はなかった。何より臣下を疑って、追放し、責任を取らせ過ぎた」
「意図的な嘘を見抜けても、信じ込んでいることや、嘘でないことは解らないのだろうな? さっきの誓いの杯のように」
「……試したな」
「夫君が私でも、そうするはずだ。王族ならば、疑うか信じるかは慎重にせねば」
沈黙が続き、ルドヴィカはしばらく彼を眺めていたがやがて席を立った。
「邪魔をしたな、また明日来る。ところで、何か好きな食べ物はあるか」
「……香りがしない料理の方がいい」
「了解した。コックにそう伝えておこう」
数メートル進んで、廊下に続く分厚い扉に辿り着くと、ルドヴィカは振り返った。
背後の窓から差す薄曇りの陽光が、項垂れたクリストフに優しく降り注いでいる。
「ああそうだ、ひとつ言っておくが――」
「安心しろ、人質を取られて脱走する気はない」
「――食事を作ったコックは娘が結婚したばかりで傷心していてな。残されでもしたら、泣いて仕事にならなくなる」
***
「ひどい詐欺師だな、お前は」
翌朝、やはり食卓を挟んで睨みつけられたルドヴィカは、向かいに座って目で笑う。
魚入りの粥と野菜スープ、小ぶりな赤い実がひとつ手を付けられずに乗ったままだ。
「ああ、夫君、昨夜はパンをひとつ食べたそうじゃないか。……で、何がだ」
「聞けばコックの娘が結婚したのは三月も前だった」
「うむ、侵攻の前だったな。しかし親にしてみれはそんなものはつい昨日――『結婚したばかり』と変わらないだろう。嘘ではない。
……ああ、後は私に任せてくれ」
彼女が手を振ると、壁際で控えていた、夫の世話係の男たちが部屋を出ていった。
ルドヴィカの日焼けし、年頃の女性にしては武骨な手がテーブルに置かれたままの果物ナイフを取った。赤い実の皮をしゅるしゅるとむくと、8つに割って皿に乗せる。
「それでどうだ、これは産地の村のトーマスがもいだものでな、まだ5歳と小さいのに親孝行の息子だと近所で評判で……」
「……」
「小さい頃は自分の名前を上手く言えなくてな、トマ、トマと舌っ足らずの声で話しながらよちよち歩いていた」
「……」
「……昨日もあかぎれの手で実をもいで、お父さんの作った果物は絶対美味しいからと――」
それからフォークを取ってリンゴに突き刺し、口の前に運ぶ。
眉を寄せたクリストフは一度鼻を鳴らす。それから顔をしかめ、口元を震わせると、ぱくりと一口、かじり取った。
勢いに任せたはいいが調子は出ないのか、ゆっくり噛んでしばらくして、ようやく飲み下す。
「どうだ、美味いだろう」
「……不本意ではあるが、美味い」
「それは良かった。トーマスも喜ぶし、美味い、と感じられるなら生きている甲斐がある」
また騙されたというように、しかめっ面をするクリストフは痩せて筋力が乏しいから、迫力がひとつもない。
ルドヴィカはそれを切れ長の目で、労わるような視線を送った。
「そうだ、眩しくはないか? この部屋は日当たりがいいから。
以前と環境が変わらぬ、静かな場所がいいと思って端の塔に部屋を用意したが、高地故に日光は湖の国よりきついだろう」
「……大丈夫だ」
窓の外に目を向ければ、段々になる山肌と斜面、そして遠くの山々と薄青い空がどこまでも広がっていた。
「気が向いたら庭でも散歩しに行くといい。私か世話係の誰かに付き添ってもらえ」
「嘘を見抜く必要はないのか。俺が故国でしていたように」
「夫君の家族――湖の国の王族は、謁見の時だけ夫君を物陰に隠して、嘘をついたやつを教えるようにと言っていたのだろう? それ以外の時は邪魔だからと遠くにやられて」
「そうだ」
「ああ、家族の食事の時は王に呼ばれて同席させられることもあったとか」
「……っ」
こぶしを握り締め、また俯くクリストフの肩をルドヴィカはぽんと軽く叩いた。
「気にするな。密告させて、罪悪感を持たせる古典的な支配のやり口だ。何があっても、夫君のせいではない」
ルドヴィカは、クリストフの鼻を鳴らす仕草に口角を上げた。
「それからつい言い忘れていたが、夫君の部下たちは息災だ。案じていたぞ」
「……案じる?」
「嘘を見抜く用があるときだけ呼び出されて、城の隅に追いやられて。
敗けると思えば離れに閉じ込めて敵に差し出されたんだ、彼らも同情もするだろう」
「俺みたいなのを、たった数人程度で、かたちばかり守らされる貧乏くじを引いたんだ。道連れにされたと恨んでいなかっただろうか」
「私が家を囲む直前、いち早く夫君が身投げしたからな。主を失って抵抗する意味はなかった――夫君は多くの命を救ったんだ」
また、すするようにクリストフが鼻を鳴らす。
「あの時既に、湖の城は詰んでいた。
抗戦しようにも私の部隊相手では、多勢に無勢もいいところだ。……数の多さというのは、戦意を喪失させるのに有効だな。
――ところでこっちのスープもどうだ。野菜はこの50年畑仕事をしていた、土づくりの名人がやっていてな。最近は腰が痛いと言いながら頑張っている」
「また子供か孫が手伝っているのか」
「いや。カールとヘンリーという若者が農業を始めたいんだそうでな。他にも、近ごろ元気のいい若者が増えている」
はっと顔をあげるクリストフの表情は、明らかに知人を案じているものだった。
「皆は、無事なのか」
「大勢の捕虜に無駄飯を喰わせるほど、うちの国は暇をしていない。もう同じ国民だし、反乱でも企まなければ好きなことをして過ごせばいい」
「そうか……礼を言う」
鼻を鳴らしてからほっと息を吐くクリストフは、軽く頭を下げる。
ルドヴィカはフォークを下げ、
「これは借りを返しただけだ。気にするな」
「借り……?」
「まだ私がトーマスの年齢だった頃だ。父上に着いて、湖の国の王へ挨拶に伺ったことがあってな。
きょろきょろしていたので、幕の後ろで、兵士に監視されながらこちらを凝視する視線に気付いてな――それが夫君だ」
「ふん」
世辞を言うなという風に、鼻を鳴らしたクリストフに、ルドヴィカは苦笑すると、テーブルに置いてあったポットから、カップに手ずからぬるい湯を注いで飲み干した。
「そもそも二つの国ができた原因を知っているか」
「ああ、兄弟があまりに喧嘩をするからだ。嘘つきの兄が弟をだまくらかした」
「配下を、民を多く巻き込んだと伝えられている。
だから神は、弟に嘘を見抜く力を、兄には嘘を付けないという罰を与えた。子孫にもたまにその能力が発言するという伝説――伝説でないことを私は知っていた。
兄がそうだからな」
「……つまり?」
「嘘をつけない呪いを受けた兄は、国王に向いていないから、私に順番が回ってきた。次の女王は私、夫君が王配だ」
ルドヴィカはスプーンでスープをすくい、口元に差し出す。
それから口ではなく香りを嗅ぐその鼻を見つめ、
「……嘘つきは匂うのか」
「……」
「あの時はもっと露骨に鼻を鳴らしていたな。
湖の国の王はな、私をひっかけてぺらぺら喋らせようと、ついでにおびき寄せて人質にしようとしていたらしい。
夫君は誰の匂いにも敏感だったようだ。それに気付いた私と我が国は命拾いした」
「……俺が回り回って、故国を滅ぼしたと言いたいのか、手助けをしたと!」
テーブルに拳を打ち付けるその姿をルドヴィカは冷静に見て、
「はい、あーん」
「……っ」
口にスプーンを突っ込み、引き抜く。
「最初に言っただろう、そんな不確かなものに頼った王が悪い。
いいか、夫君のその力に価値はない。私は平気で噓をつかずに騙すし、見抜くのは無駄だと思い知らせてやる」
「何だと――むぐっ」
「……美味いだろう。……それでいつかきっと、食べたいものを食べさせてやるからな」
口を閉じて、前髪の奥で睨みつけてくる目を、やはりルドヴィカは微笑で返した。
***
「今日は、川魚の香草焼きか」
秋が深まり、散歩から部屋に戻ったクリストフは、待っていたルドヴィカの前で夕食を取る。
いつからか自分でスプーンを握るようになったのは、食材のすべてを彼女が解説したからだ。
産地の気候も自然も。育て、住む人々についても。運ぶ人についても。
「……夕食はシチューがいいな」
冬の雪が空の国の山々を薄く覆った時には、クリストフは窓の外の景色に目を瞠った。
その頃には、テーブルに二食分が並べられるようになっていた。
やがて春が巡ってきたとき、ルドヴィカはテーブルの下で足を遊ばせながら問いかけた。
髪を切り、体に筋肉が戻り、すっかり健康的になった夫の姿に目を細めながら。
「突然だが、三日後にちょっとした戦に出ることになった」
「……反乱軍の残党が、抵抗を続けていると、カールとヘンリーが言っていた」
クリストフは肉を切る手を止め、真っすぐに見返した。
ルドヴィカの目は笑っている。
「そうだ」
「……コックのブレットが、今年は元の湖の国の地域と、そこを通った隣国からの食べ物が値上がりしていると」
「そうだな」
「お前の兄は……」
「後方でも仕事がある。嘘が付けないやつが、戦いに勝つために、鼓舞して死地に突っ込めと本心から言えると思うか?」
「……大きな戦に、なるのではないか」
「可能性はあるな」
曖昧な推測に鼻を鳴らす。
「……以前食べたい料理は何だと、俺に聞いたことがあるな」
「そうだな」
「南方に、カレーとかいう煮込み料理があると聞く。……カレーが食べたい」
戦の出立前夜、二人はいつものように静かな食卓を囲んだ。
茶色くとろみのある、香り高いスパイスの匂いが部屋に充満していた。
先に口を開いたのは、クリストフの方だった。
「これで臭いは分からない。……安心して話せばいい」
「何だ、やっと夫君に信用してもらえたと思ったのに。
……まあいいか、ともかく私に何かあっても、夫君の身柄の行き先は選べるから安心して欲しい。最低限の監視が付くのは仕方ないと思ってくれ」
「どこだ?」
「夫君が決めるんだよ。農業でも漁業でも、技師でもいいだろう。
だがまあ、文官なんか向いてるんじゃないか。血統で上に立つことができるというのは、悪いことばかりじゃない。彼らを思いっきり助けてやれるということだ」
クリストフはいつしか、食卓では鼻を鳴らさなくなっていた。今はどちらにせよ、カレーの匂いしかしなかっただろうが。
「だからな……いつ帰れるか分からないから、待っていて、くれなくてもいい。その代わり、弱い者を守ってやってくれ」
「待っていて欲しいのだろう」
「そういうことにしておいてもいい。……そうそう、贈り物がある。食後の楽しみにしておくがいい」
スプーンでカレールーを掬って、食卓に上るには珍しい米に舌鼓を打つ。
二人は皿を平らげると、互いに口元に残る茶色を指摘して、苦笑しあった。
***
――戦いは隣国を巻き込み、一年続いた。
その間クリストフは国の雑事に駆り出されたが、鼻を鳴らすことはなかった。
ルドヴィカは彼の秘密を守り続けたし、贈り物の香水をまとっていたから。
その代わりにできることは何でもした。自分で聞いたことを自分で考え、国民の暮らしを守るために。
彼女たちの出産が多く、畑の手伝いや、仔羊や仔牛を取り上げる手伝いをしたこともあった。
季節が再び巡り、春になって帰還の報が届いたとき、彼はコックと共に調理場に立った。
戦勝の祝いとは別に料理を作るためだ。
食事を用意して塔の部屋に戻る。
大分色彩の増えた室内には春の花の香りが漂っているが、ほどなく運んできた鍋から立つ匂いに塗り替えられるだろう。
そうして静かに席に着く。
やがて想像した通り匂いが充満した後、扉が急に開けば、待ち続けた人がそこに立っている。
左手で扉を支えた彼女は、筋肉こそ付いた片鱗のある、けれど細くなった右手に包帯を巻きつけていた。
「……今、戻った。……済まない、私は、待っていて、くれたのに」
ルドヴィカの焦点の合わない目が彷徨い、クリストフと手に持つレードルに注がれた。
席について水だけ飲み干せば、腹の中の息を吐き出す。
「……私だけ、食べる気には……」
「どちらも生きているからまだ夫君だ、ルドヴィカ。何を見て来たのか、何も言わなくていい」
国境の小競り合いは大した被害を国内にもたらさなかった。
物価も国民の生活も落ち着いていた。
そのかわりに、兵たちには忍耐と努力と、それなりの犠牲が――彼女が名も生い立ちも知る人々の犠牲があった、という。中にはヘンリーの名もあった。
クリストフはどろりとしたカレールーを米にかけて、ふた皿並べる。
それからスプーンを握って一匙すくい、息を吹きかけて冷ます。
「食べないと、倒れるぞ」
「だが、だが、私は――っ!?」
すかさずクリストフにカレーを口に突っ込まれて、ルドヴィカはむせかけた。目を白黒させながら飲み込むと、抗議するように口を開きかけて、引き結び、俯く。
「……美味しい」
「だろう。スパイスの調達が以前より厳しくなったから、あの時と同じ味を出すのには少々苦労したが、コックもお墨付きの自信作だ。
材料はな、あの老人が育てた土で、俺も畑を耕すのを手伝って――」
「カレーは、」
ルドヴィカは菫色の瞳で一度スプーンを牽制すると、同じ色の夫の瞳を見つめた。記憶にあるよりも穏やかで真剣だった。
「強い匂いがするから。誰かにつかれる嘘を心配しないで、食べてみたかったのだろう? 味はどうだった? 期待通りだったか」
「……」
「それを聞くのを忘れてしまったと、戦場で。思い出して。私は、助けると決めたひとりだけでも、助けられたのかと。
……王族など、本当に不便なものだな。
幼い頃、あの時から夫君に、故国を裏切らせたのだと本当はずっと――」
ルドヴィカの声が湿るので、クリストフは呆れたように首をすくめた。
「よそはよそ、うちはうちだ。それにもし好きじゃなかったら、ニンニク料理でも作ってる」
「……なら、明日も、カレーがいい」
「そうだな、一日寝かせたカレーの方がうまいぞ。食べたことがないだろう」
「……明後日もカレーでも?」
クリストフの手がスプーンを置く。
「望み通り、嘘はだいぶ気にならなくなった。もうカレーも香水も、必要ない。……お前との思い出という意味以外では」
ぎこちなく手が伸びて、痛んだ、かつては輝くようだった銀髪に触れた。
「だがお前が気になるなら、嘘を心置きなくつけるようになるまで。
カレーに飽きるまで付き合ってやる。……必要なくなるまで」
何が、とは彼は言わない。
だが、夫との間に嘘が必要なくなっても、彼も、思い出も、手放せないだろうとルドヴィカは思った。
――その後空の国は、周辺国の警戒と欲を招き、いくつかの小さな戦いと講和を繰り返したのち、若き女王を戴いて平和の意思を内外に示すことになった。
そして彼女の傍らには、いつも王配がいて。
食卓には彼らの民がいて、そしてときどき、カレーがあった。
***
王族の証たる菫色の瞳を呪い続けてきた青年は、今日ほど自分の血統を思い知らされたことはなかった。
元々猫のような目尻を吊り上げ、真っすぐに相手を睨みつける目には怒りがあらわだ。
「食事で俺を懐柔できると思うなよ。……俺は、絶対に、お前と結婚などしないからな」
しかし睨みつけられた、花嫁であり彼の命を握った戦勝国――空の国の第一王女・ルドヴィカは、銀の睫毛の下の、彼と同色の瞳で不敵に微笑む。
涼しい目鼻立ちにほどいた腰まで届く銀髪。涼やかな美貌は、素知らぬ顔で銀色のスプーンを彼の口元に差し出した。
夫となる敗戦国の王子――数日前まで存在していた隣国の王子・クリストフの視線を正面から受け止め、
「はい、あーん」
可憐な唇に似合わない、落ち着いた声と、もっと似合わない口調。
何度も飽きもせず甘い粥を掬って差し出せば、ますます鋭くなるクリストフの眼光に、笑みを深める。
「何がおかしい」
ルドヴィカから見れば、彼が鋭く放ったつもりのテノールは、声量は小さく、なまくらな刃のようだ。
手入れを放置されて痛んでくすんだ金の髪は伸び切って目を半ば以上隠していたし、顎と首筋は細い。白いチュニックの上からでも筋肉が落ちた体は、20を超えたばかりなのに、もしや彼女とさほど変わらないのではないか、というほど。
「……いや、結婚はもう決まったことだ。というよりついさっき済んだばかりだ」
「何だと」
「敗戦国の賠償として、王がお前を真っ先に差し出した。それに、指輪入りのグラスを飲み干しただろう」
彼らの国との戦争の結末と同じように、仕掛けられた戦いを軽くいなせば、クリストフの瞳が、二人を隔てるテーブルの白いクロスの上を彷徨う。
並べられた料理。
部屋に二人きりゆえに下げられずに残っているワイングラスの底の指輪を見て、目を驚きに見開いた。
「誓いの杯……!」
続けて抗議したそうな彼の目の前に、ルドヴィカは軽く手を挙げる。
「式は飾りだからなくとも良いが、神への誓いは必要だからな」
「気付けに飲むか、配下の死か。どちらを望むか――と言ったのはお前じゃないか。あれは嘘をつく声ではなかった」
「そうだよ。結婚か死かと言い換えても同じことだ。
まあ、どちらを選んでも、殺すとは言ってないが」
彼女の言葉で、クリストフの視線にこもる明確な敵意とにじむ後悔を、やはり笑顔で受ける。
「……ただまあ、それは騙した私のせいだ。夫君に非はないから気にするな。
それより早く食べないと、せっかくの料理が冷めてしまうぞ」
ルドヴィカが言葉の物騒さとは裏腹に、にこやかに、そして手で「さあ」と示したように。
もともとぬるく作られていた料理は冷めかけていた。
新婚初日にしてはささやか過ぎる、柔らかいパン、牛乳で煮た甘い麦粥と野菜を煮込んだスープ、果物という簡素な食事だ。
だがそこに気遣いを感じるより先に、クリストフは鼻を小さく鳴らし、目に見えて動揺した。
「まさかお前も俺と同じ扱いを受けているのか。それで嫌々将軍に据えられ、前線に立たされているのでは?」
はっとしたように見返す彼の顔には邪気がなく、ルドヴィカは彼の人の好さについ苦笑が漏れる。
「胃に負担にならない食事を選んだだけだ。
……しかし夫君は、魚のように声が跳ねるな、さすが網に引っかかっただけのことはある」
――湖の国。
そう呼ばれるにふさわしい、数多の湖を抱えた風光明媚な麗しい隣国は、かつてここ空の国と、元の大国から同じ血を分けた兄弟王子が建てた国だった。
しかし入れ替わりのない水場が腐っていくように、やがて王族は腐敗し、高地にある空の国の宝石鉱山などの資源を狙って戦いを仕掛けた。
地形と高低差を無視した、無謀な侵攻の結果が、これだ。
国は滅び、王族の助命の嘆願は退けられ、湖の国は空の国の一地方に成り下がった。
国王の助命と引き換えに、と湖上に作られた離れの建物ごと差し出された――幽閉された――妾腹の王子クリストフは、最後のあがきとして湖に身を投げた。
そこを、将軍として訪れたルドヴィカが魚捕りの網で引き上げさせたのだ。
びしょ濡れの王子は医師の手当で三日三晩寝込んだ。初秋とはいえ水温は低いが、以前から続く栄養失調が原因だろうと報告が上がっている。
以降も亡国の王との話し合いが付く間、寝室と続きの間という一部屋に閉じ込められていたが全く苦にした様子もなかった。
ルドヴィカだけでなく、空の城に勤める者たちが、故国での彼の境遇を推測するのは簡単だった。
そしてこの国での彼の扱いが第一王女の夫、将来の王配と結論付け、今日の、この初対面ぶりの再会を果たすまでの一週間。
彼はほとんど食事をとっていない。
「だがそれも、陸に上がった魚なら、最後の悪あがきにしか見えないな。このまま食事を拒んでいては早晩くたばるしかないぞ。
……ところで粥の一匙は、もう少し多い方がいいだろうか」
彼女が何度も粥を掬い直しているのは量の調節だったと知り、クリストフはばつの悪そうな顔をする。
それをルドヴィカは素直なことだなとひそかに感心しながら、
「残念ながら私は戦場育ちでがさつだし、夫君は顎が小さいからな。少ない方がいいか? それともパンの方が……」
「命を救ってくれたなどと、礼など言わないぞ。俺から何か引き出せると期待しないことだ。……だから食事など出さずに放っておいてくれ」
「夫君が構わなくとも、こちらが構う」
「はあ? 俺は王家の厄介者で、機密などもともと持っていない――」
「よそはよそ、うちはうちだ。
夫君を死なせては妻の沽券に関わる、家長の命には従ってもらうぞ――はい、あーん」
スプーンからもう一度粥を掬って、ルドヴィカは口に近づけた。
「こ、子供ではない!」
思わず開けた口にルドヴィカはすかさずスプーンを突っ込んだ。反射的に口を閉じる直前、タイミングよく引き抜く。
クリストフが飲み下すのを見届け、満足げに笑った。
「やればできるじゃないか」
「卑怯だぞ!」
口を開ければもう一度、ルドヴィカがスプーンを突っ込もうとするのを手で防ごうとして、失敗した。
姫将軍と呼ばれるルドヴィカの得意武器は刺突用の剣で、狙いを定めることには慣れている。
「卑怯? 誰が見ても、夫の世話をする献身的な妻だと思うぞ」
「食事くらい……自分でできる」
「なら食べるがいい。食べられたら、明日はお前と一緒に揚がった魚料理にしようと、コックが言っていた。塩に漬けたから故郷の味ではないかもしれないが」
ルドヴィカはスプーンを骨の浮き出た手に握らせようとするが、クリストフは手をテーブルの上で握り締め、口を引き結んで俯いてしまう。
徹底抗戦のつもりだろうか。
「尋問を期待しているかもしれないが、そのつもりはない。私が世話を焼く理由の一つは夫君だからで、捕虜だからではない。
それにさっきも言ったが、このままだと本当に飢えて死ぬぞ。悲しむ配下がいるのだろう」
彼女はそっと息を吐くと、ゆっくり立ち上がる。
ぽつりと暗い声が追ってきた。
「配下、か。あれは配下じゃなくもともとは俺の監視役だが」
「殿下は無事かと命を賭して聞くのが友情や忠義からでなくて何だというんだ」
「だったら、彼らを人質にして、俺に『仕事』をさせる気はないのか?」
「嘘のことばを見抜くという、湖の国に伝わる不思議な力のことか」
ルドヴィカはは、と笑い飛ばしたが、一瞬、瞳に憎しみのようなものが混じる。
「私にはそんなものは不要だ。お前の国が負けたのも、愚昧な王が自分で考えもせずに力に頼り切ったのが敗因だったろう?
でなければ、あんなめちゃくちゃな、部下を捨て駒にする戦術はとらない」
「確かに、父に王としての資質はなかった。何より臣下を疑って、追放し、責任を取らせ過ぎた」
「意図的な嘘を見抜けても、信じ込んでいることや、嘘でないことは解らないのだろうな? さっきの誓いの杯のように」
「……試したな」
「夫君が私でも、そうするはずだ。王族ならば、疑うか信じるかは慎重にせねば」
沈黙が続き、ルドヴィカはしばらく彼を眺めていたがやがて席を立った。
「邪魔をしたな、また明日来る。ところで、何か好きな食べ物はあるか」
「……香りがしない料理の方がいい」
「了解した。コックにそう伝えておこう」
数メートル進んで、廊下に続く分厚い扉に辿り着くと、ルドヴィカは振り返った。
背後の窓から差す薄曇りの陽光が、項垂れたクリストフに優しく降り注いでいる。
「ああそうだ、ひとつ言っておくが――」
「安心しろ、人質を取られて脱走する気はない」
「――食事を作ったコックは娘が結婚したばかりで傷心していてな。残されでもしたら、泣いて仕事にならなくなる」
***
「ひどい詐欺師だな、お前は」
翌朝、やはり食卓を挟んで睨みつけられたルドヴィカは、向かいに座って目で笑う。
魚入りの粥と野菜スープ、小ぶりな赤い実がひとつ手を付けられずに乗ったままだ。
「ああ、夫君、昨夜はパンをひとつ食べたそうじゃないか。……で、何がだ」
「聞けばコックの娘が結婚したのは三月も前だった」
「うむ、侵攻の前だったな。しかし親にしてみれはそんなものはつい昨日――『結婚したばかり』と変わらないだろう。嘘ではない。
……ああ、後は私に任せてくれ」
彼女が手を振ると、壁際で控えていた、夫の世話係の男たちが部屋を出ていった。
ルドヴィカの日焼けし、年頃の女性にしては武骨な手がテーブルに置かれたままの果物ナイフを取った。赤い実の皮をしゅるしゅるとむくと、8つに割って皿に乗せる。
「それでどうだ、これは産地の村のトーマスがもいだものでな、まだ5歳と小さいのに親孝行の息子だと近所で評判で……」
「……」
「小さい頃は自分の名前を上手く言えなくてな、トマ、トマと舌っ足らずの声で話しながらよちよち歩いていた」
「……」
「……昨日もあかぎれの手で実をもいで、お父さんの作った果物は絶対美味しいからと――」
それからフォークを取ってリンゴに突き刺し、口の前に運ぶ。
眉を寄せたクリストフは一度鼻を鳴らす。それから顔をしかめ、口元を震わせると、ぱくりと一口、かじり取った。
勢いに任せたはいいが調子は出ないのか、ゆっくり噛んでしばらくして、ようやく飲み下す。
「どうだ、美味いだろう」
「……不本意ではあるが、美味い」
「それは良かった。トーマスも喜ぶし、美味い、と感じられるなら生きている甲斐がある」
また騙されたというように、しかめっ面をするクリストフは痩せて筋力が乏しいから、迫力がひとつもない。
ルドヴィカはそれを切れ長の目で、労わるような視線を送った。
「そうだ、眩しくはないか? この部屋は日当たりがいいから。
以前と環境が変わらぬ、静かな場所がいいと思って端の塔に部屋を用意したが、高地故に日光は湖の国よりきついだろう」
「……大丈夫だ」
窓の外に目を向ければ、段々になる山肌と斜面、そして遠くの山々と薄青い空がどこまでも広がっていた。
「気が向いたら庭でも散歩しに行くといい。私か世話係の誰かに付き添ってもらえ」
「嘘を見抜く必要はないのか。俺が故国でしていたように」
「夫君の家族――湖の国の王族は、謁見の時だけ夫君を物陰に隠して、嘘をついたやつを教えるようにと言っていたのだろう? それ以外の時は邪魔だからと遠くにやられて」
「そうだ」
「ああ、家族の食事の時は王に呼ばれて同席させられることもあったとか」
「……っ」
こぶしを握り締め、また俯くクリストフの肩をルドヴィカはぽんと軽く叩いた。
「気にするな。密告させて、罪悪感を持たせる古典的な支配のやり口だ。何があっても、夫君のせいではない」
ルドヴィカは、クリストフの鼻を鳴らす仕草に口角を上げた。
「それからつい言い忘れていたが、夫君の部下たちは息災だ。案じていたぞ」
「……案じる?」
「嘘を見抜く用があるときだけ呼び出されて、城の隅に追いやられて。
敗けると思えば離れに閉じ込めて敵に差し出されたんだ、彼らも同情もするだろう」
「俺みたいなのを、たった数人程度で、かたちばかり守らされる貧乏くじを引いたんだ。道連れにされたと恨んでいなかっただろうか」
「私が家を囲む直前、いち早く夫君が身投げしたからな。主を失って抵抗する意味はなかった――夫君は多くの命を救ったんだ」
また、すするようにクリストフが鼻を鳴らす。
「あの時既に、湖の城は詰んでいた。
抗戦しようにも私の部隊相手では、多勢に無勢もいいところだ。……数の多さというのは、戦意を喪失させるのに有効だな。
――ところでこっちのスープもどうだ。野菜はこの50年畑仕事をしていた、土づくりの名人がやっていてな。最近は腰が痛いと言いながら頑張っている」
「また子供か孫が手伝っているのか」
「いや。カールとヘンリーという若者が農業を始めたいんだそうでな。他にも、近ごろ元気のいい若者が増えている」
はっと顔をあげるクリストフの表情は、明らかに知人を案じているものだった。
「皆は、無事なのか」
「大勢の捕虜に無駄飯を喰わせるほど、うちの国は暇をしていない。もう同じ国民だし、反乱でも企まなければ好きなことをして過ごせばいい」
「そうか……礼を言う」
鼻を鳴らしてからほっと息を吐くクリストフは、軽く頭を下げる。
ルドヴィカはフォークを下げ、
「これは借りを返しただけだ。気にするな」
「借り……?」
「まだ私がトーマスの年齢だった頃だ。父上に着いて、湖の国の王へ挨拶に伺ったことがあってな。
きょろきょろしていたので、幕の後ろで、兵士に監視されながらこちらを凝視する視線に気付いてな――それが夫君だ」
「ふん」
世辞を言うなという風に、鼻を鳴らしたクリストフに、ルドヴィカは苦笑すると、テーブルに置いてあったポットから、カップに手ずからぬるい湯を注いで飲み干した。
「そもそも二つの国ができた原因を知っているか」
「ああ、兄弟があまりに喧嘩をするからだ。嘘つきの兄が弟をだまくらかした」
「配下を、民を多く巻き込んだと伝えられている。
だから神は、弟に嘘を見抜く力を、兄には嘘を付けないという罰を与えた。子孫にもたまにその能力が発言するという伝説――伝説でないことを私は知っていた。
兄がそうだからな」
「……つまり?」
「嘘をつけない呪いを受けた兄は、国王に向いていないから、私に順番が回ってきた。次の女王は私、夫君が王配だ」
ルドヴィカはスプーンでスープをすくい、口元に差し出す。
それから口ではなく香りを嗅ぐその鼻を見つめ、
「……嘘つきは匂うのか」
「……」
「あの時はもっと露骨に鼻を鳴らしていたな。
湖の国の王はな、私をひっかけてぺらぺら喋らせようと、ついでにおびき寄せて人質にしようとしていたらしい。
夫君は誰の匂いにも敏感だったようだ。それに気付いた私と我が国は命拾いした」
「……俺が回り回って、故国を滅ぼしたと言いたいのか、手助けをしたと!」
テーブルに拳を打ち付けるその姿をルドヴィカは冷静に見て、
「はい、あーん」
「……っ」
口にスプーンを突っ込み、引き抜く。
「最初に言っただろう、そんな不確かなものに頼った王が悪い。
いいか、夫君のその力に価値はない。私は平気で噓をつかずに騙すし、見抜くのは無駄だと思い知らせてやる」
「何だと――むぐっ」
「……美味いだろう。……それでいつかきっと、食べたいものを食べさせてやるからな」
口を閉じて、前髪の奥で睨みつけてくる目を、やはりルドヴィカは微笑で返した。
***
「今日は、川魚の香草焼きか」
秋が深まり、散歩から部屋に戻ったクリストフは、待っていたルドヴィカの前で夕食を取る。
いつからか自分でスプーンを握るようになったのは、食材のすべてを彼女が解説したからだ。
産地の気候も自然も。育て、住む人々についても。運ぶ人についても。
「……夕食はシチューがいいな」
冬の雪が空の国の山々を薄く覆った時には、クリストフは窓の外の景色に目を瞠った。
その頃には、テーブルに二食分が並べられるようになっていた。
やがて春が巡ってきたとき、ルドヴィカはテーブルの下で足を遊ばせながら問いかけた。
髪を切り、体に筋肉が戻り、すっかり健康的になった夫の姿に目を細めながら。
「突然だが、三日後にちょっとした戦に出ることになった」
「……反乱軍の残党が、抵抗を続けていると、カールとヘンリーが言っていた」
クリストフは肉を切る手を止め、真っすぐに見返した。
ルドヴィカの目は笑っている。
「そうだ」
「……コックのブレットが、今年は元の湖の国の地域と、そこを通った隣国からの食べ物が値上がりしていると」
「そうだな」
「お前の兄は……」
「後方でも仕事がある。嘘が付けないやつが、戦いに勝つために、鼓舞して死地に突っ込めと本心から言えると思うか?」
「……大きな戦に、なるのではないか」
「可能性はあるな」
曖昧な推測に鼻を鳴らす。
「……以前食べたい料理は何だと、俺に聞いたことがあるな」
「そうだな」
「南方に、カレーとかいう煮込み料理があると聞く。……カレーが食べたい」
戦の出立前夜、二人はいつものように静かな食卓を囲んだ。
茶色くとろみのある、香り高いスパイスの匂いが部屋に充満していた。
先に口を開いたのは、クリストフの方だった。
「これで臭いは分からない。……安心して話せばいい」
「何だ、やっと夫君に信用してもらえたと思ったのに。
……まあいいか、ともかく私に何かあっても、夫君の身柄の行き先は選べるから安心して欲しい。最低限の監視が付くのは仕方ないと思ってくれ」
「どこだ?」
「夫君が決めるんだよ。農業でも漁業でも、技師でもいいだろう。
だがまあ、文官なんか向いてるんじゃないか。血統で上に立つことができるというのは、悪いことばかりじゃない。彼らを思いっきり助けてやれるということだ」
クリストフはいつしか、食卓では鼻を鳴らさなくなっていた。今はどちらにせよ、カレーの匂いしかしなかっただろうが。
「だからな……いつ帰れるか分からないから、待っていて、くれなくてもいい。その代わり、弱い者を守ってやってくれ」
「待っていて欲しいのだろう」
「そういうことにしておいてもいい。……そうそう、贈り物がある。食後の楽しみにしておくがいい」
スプーンでカレールーを掬って、食卓に上るには珍しい米に舌鼓を打つ。
二人は皿を平らげると、互いに口元に残る茶色を指摘して、苦笑しあった。
***
――戦いは隣国を巻き込み、一年続いた。
その間クリストフは国の雑事に駆り出されたが、鼻を鳴らすことはなかった。
ルドヴィカは彼の秘密を守り続けたし、贈り物の香水をまとっていたから。
その代わりにできることは何でもした。自分で聞いたことを自分で考え、国民の暮らしを守るために。
彼女たちの出産が多く、畑の手伝いや、仔羊や仔牛を取り上げる手伝いをしたこともあった。
季節が再び巡り、春になって帰還の報が届いたとき、彼はコックと共に調理場に立った。
戦勝の祝いとは別に料理を作るためだ。
食事を用意して塔の部屋に戻る。
大分色彩の増えた室内には春の花の香りが漂っているが、ほどなく運んできた鍋から立つ匂いに塗り替えられるだろう。
そうして静かに席に着く。
やがて想像した通り匂いが充満した後、扉が急に開けば、待ち続けた人がそこに立っている。
左手で扉を支えた彼女は、筋肉こそ付いた片鱗のある、けれど細くなった右手に包帯を巻きつけていた。
「……今、戻った。……済まない、私は、待っていて、くれたのに」
ルドヴィカの焦点の合わない目が彷徨い、クリストフと手に持つレードルに注がれた。
席について水だけ飲み干せば、腹の中の息を吐き出す。
「……私だけ、食べる気には……」
「どちらも生きているからまだ夫君だ、ルドヴィカ。何を見て来たのか、何も言わなくていい」
国境の小競り合いは大した被害を国内にもたらさなかった。
物価も国民の生活も落ち着いていた。
そのかわりに、兵たちには忍耐と努力と、それなりの犠牲が――彼女が名も生い立ちも知る人々の犠牲があった、という。中にはヘンリーの名もあった。
クリストフはどろりとしたカレールーを米にかけて、ふた皿並べる。
それからスプーンを握って一匙すくい、息を吹きかけて冷ます。
「食べないと、倒れるぞ」
「だが、だが、私は――っ!?」
すかさずクリストフにカレーを口に突っ込まれて、ルドヴィカはむせかけた。目を白黒させながら飲み込むと、抗議するように口を開きかけて、引き結び、俯く。
「……美味しい」
「だろう。スパイスの調達が以前より厳しくなったから、あの時と同じ味を出すのには少々苦労したが、コックもお墨付きの自信作だ。
材料はな、あの老人が育てた土で、俺も畑を耕すのを手伝って――」
「カレーは、」
ルドヴィカは菫色の瞳で一度スプーンを牽制すると、同じ色の夫の瞳を見つめた。記憶にあるよりも穏やかで真剣だった。
「強い匂いがするから。誰かにつかれる嘘を心配しないで、食べてみたかったのだろう? 味はどうだった? 期待通りだったか」
「……」
「それを聞くのを忘れてしまったと、戦場で。思い出して。私は、助けると決めたひとりだけでも、助けられたのかと。
……王族など、本当に不便なものだな。
幼い頃、あの時から夫君に、故国を裏切らせたのだと本当はずっと――」
ルドヴィカの声が湿るので、クリストフは呆れたように首をすくめた。
「よそはよそ、うちはうちだ。それにもし好きじゃなかったら、ニンニク料理でも作ってる」
「……なら、明日も、カレーがいい」
「そうだな、一日寝かせたカレーの方がうまいぞ。食べたことがないだろう」
「……明後日もカレーでも?」
クリストフの手がスプーンを置く。
「望み通り、嘘はだいぶ気にならなくなった。もうカレーも香水も、必要ない。……お前との思い出という意味以外では」
ぎこちなく手が伸びて、痛んだ、かつては輝くようだった銀髪に触れた。
「だがお前が気になるなら、嘘を心置きなくつけるようになるまで。
カレーに飽きるまで付き合ってやる。……必要なくなるまで」
何が、とは彼は言わない。
だが、夫との間に嘘が必要なくなっても、彼も、思い出も、手放せないだろうとルドヴィカは思った。
――その後空の国は、周辺国の警戒と欲を招き、いくつかの小さな戦いと講和を繰り返したのち、若き女王を戴いて平和の意思を内外に示すことになった。
そして彼女の傍らには、いつも王配がいて。
食卓には彼らの民がいて、そしてときどき、カレーがあった。
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