【完結】勝るともなお及ばず ――有馬法印則頼伝

糸冬

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(十九)淡河弾正の奇策

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 六月二十七日。
 朝日が昇るのを待ちかねるように、秀長の本陣から攻め太鼓が打ち鳴らされ始めた。

 喚声をあげた羽柴方の雑兵が竹束や持楯を掲げつつ、身を隠しながらひたひたと淡河城北西の大手門と南西側の搦め手門に向けて押し寄せる。

 先陣として大手門に向かうのは、大手口に近い谷ヶ谷の付城から出陣した有馬則氏勢と、北の石切山の出城から進出した杉原家次勢である。

 対して、搦め手門に近い南側の浅野長吉勢と東側の付城に陣を敷く有馬則頼勢は、目立った動きはしていない。

 淡河城は、側面を流れる浦川を天然の水濠と見做した縄張りとなっており、地形上、北と東の守りは固い。

 そのため現時点では、両勢は牽制としていくらか兵を出しているだけである。

 織田勢は無理に攻め筋が確保しづらい場所から仕寄るよりも、城の西側に広がる開けた台地から攻め込める大手門側からの攻略を計っていた。

 大手門前には、かつては武家屋敷や民家が建ち並んでいたが、織田方が付城を築き始めた頃と相前後して軒並み取り壊されている。

 どのみち、城攻めの際には焼き払われるのが目に見えている。どうせ失われるものであれば自分達の手で撤去する判断は不思議ではない。

 資材は城内に運び込まれて根小屋を建てるために使われたり、柵を築くためにに用いられたりしていると思われた。

 すっかり見晴らしの良くなった跡地には早くも夏草が生い茂り、屋敷跡の痕跡は覆い隠されている。

 城から織田の動きは丸見えとなっているが、障害物がないため織田兵の仕寄りは早い。

 だが、織田の陣列が持楯を押し立てて城の外濠に近づいた途端に異変が起こる。

 地面に撒かれた古釘や、車菱と呼ばれる鉄製の仕掛けを踏み抜いて転倒する者や、落とし穴に落ちて負傷する者が続出しはじめたのだ。

 子供だましのような手であるが、生い茂った夏草に足元を隠されて見えづらく、効果は思いのほか高かった。

「な、なんじゃこれは」

「罠じゃ、罠が仕掛けてあるぞ! 足元に気をつけよ!」

「これ、押すなと申すに!」

 先頭の兵から次々に悲鳴があがり、その行き足が鈍る。

 しかし、一気に城に乗り込もうと気を逸らせる後続の行き脚は止まらない。

 兵の足並みが乱れ、陣列が崩れる。

 大声を張り上げ、配下の足軽の陣列の立て直しを命じて走り回る騎馬武者を余所に、城内からは傲然と弓鉄砲が浴びせられる。

 動きが鈍り、転倒して楯を放り出している兵は格好の的である。

 面白いように矢玉が命中して犠牲者を増やしていく。

「ここが先途と心得よ。矢玉も鉄砲玉も今日限りで使い尽くし、全て敵方に馳走するのじゃ!」
 大手門近くの櫓で采配を振るう定範の大音声が城外まで響き、城兵がそれに呼応して気勢を上げ、吼える。

 対する織田勢は足を傷めて動けなくなる兵の多さに、早くも士気が挫けかける。

 もっとも、前進する各陣の乱れには差が生じていた。

 一見すると城の周囲に隈なく張り巡らせてあるようにみえた仕掛けだが、実は大手門に続く道とその周囲には存在しないらしいことが雑兵の間に知れ渡った。

 結果、織田勢は自然と難を避けて大手門の正面に集まりはじめる。

 しかしながら、城の縄張りとは元々、大手門前に射撃を集中させやすい形に作られているものである。

 呼びこまれるような形で大手門前に密集してしまい、身動きがとれなくなった羽柴の雑兵は、城内から射かけられる矢に面白いように次々と射貫かれる。

「頃や、よし! 開門!」

 物見櫓から素早く地上に降り立った定範の命令一下、大手門が八の字に開かれた。

 城内から、満を持した淡河勢の徒武者や士卒が一気に押し出す。

 その間合いは絶妙だった。

 不必要に集まってしまった羽柴方が混乱を収拾する間も、鉄砲を携えた兵を最前列に押し出す暇も与えない。

 厄介なことに、織田勢の陣立は崩れており、但馬勢を中心に他国者ばかりの杉原勢と、定範の武勇をよく知る三津田城の有馬則氏勢が大手門の前で入り乱れる形になっていた。

 そのため、杉原勢が混乱しながらも受けて立とうとする横で、有馬則勢が早くも逃げ腰になり、息を揃えて迎え撃つこともままならない。

 敵の混乱に乗じて容易く間合いに踏み込んだ淡河勢は、当たるを幸いとばかりに鑓を突き出し、刀で斬る。

 徒立ちで先頭に立つ定範も、自ら手鑓を振るう。

 有馬勢を相手に小競り合いを続けていた頃、則頼を幾度も敗走させた早業の突きは健在であった。

 立ちはだかる羽柴方の兵の目を、喉を、手鑓の穂先がことごとく一撃で貫いていく。

 杉原勢がたまらず崩れ立ち、後退するのを見計らって定範は深入りを戒める号令を放った。

 素早く手勢をまとめ、自らがしんがりを引き受けて大手門へと引き返す。

 いいように定範に引っ掻き回されて、馬上で恥辱に顔をゆがめるのは有馬則氏である。

「ようも好き勝手してくれたものよ。このまま逃れられるなどと思うな!」
 則氏は怒声を放つや、若さに任せるように後方で待機していた馬廻りの騎馬武者の一団を率いて前に出る。

 その勢いに怯えるように、前方にたむろする徒立ちの兵が左右に押し分けられるように道を作る。

 則氏は、あわよくば大手門への付け入りを狙って突進する。

 その勢いに勇を得て、遅れをとってはならぬとばかりに、杉原勢の騎馬武者も駆け寄せてくる。

「このまま城内へ押し入れぃ!」
 高揚する心のままに喚いた則氏の目に、開け放たれたままの大手門の中から現れた影が映った。

 それは新手の敵兵などではない。

 定範がこの時のためにと、一頭あたり銭三百文で領民から集めた六十頭ほどの牝馬の群れであった。

 その背後では、子女や老人が唐傘を開閉させたり、着物やらふんどしやらを翻すなどして牝馬をあおり立てている。

 牝馬の群れが眼前に現れた途端に、秀吉方の騎馬が統制を失いはじめる。

「わわっ」

「ええい、鎮まれぃ!」

 竿立ちになって騎馬武者を振り落とす馬もあれば、手綱さばきを無視して暴走する馬もあり、戦場の混乱は手の付けられないものになっていく。

 則氏も、地面にたたきつけられこそしなかったものの、馬の鞍から飛び降りざるを得なかった。

「なんたることじゃ」
 則氏は、定範が何を企んだのかに気づき、絶句する。

 軍馬はもっぱら牡馬を用いるものであるが、去勢などは行っていない。

 秀吉方にとっては厄介なことに、馬は春先から秋口にかけて発情期を迎える。

 そのため、牝馬を前にして軍馬が人の指示を受け付けなくなったのだ。

 もちろん偶然などではない。

 発情期と合戦の時期が重なることを計算に入れたうえで、定範が繰り出した奇策である。

 自ら仕掛けて作り出した混乱状態を見逃すほど、定範は甘くない。

 みずから再び徒立ちで先陣を切って大手口から飛び出してくる。

 そして、手鑓を振るって羽柴勢の兵の目あるいは喉を突き倒していく。

「人一人を殺すことなど、あのように簡単に出来るものなのか」
 放心状態で呟く則氏を、馬廻りが抱きかかえるようにしてその場から逃れさせる。

 江見又四郎、宇野兵庫貞国、椙原大膳頼長、高田範季といった定範配下の将も、ここを先途と暴れ回っている。

 さらには城の守りのため本丸に待機していた定範実弟・淡河長範までもが、野瀬城から率いてきたなけなしの兵と共に討って出る。

「播州武者の意地を見たか!」
 追い立てられて逃げ惑う羽柴方の兵の耳に、定範の胴間声が否応なく飛び込んでくる。

 かくして、羽柴方の淡河城攻めは、初日は大きく躓くこととなった。




 その夜。

 秀長が本陣を張る八幡神社の境内には篝火がずらりと並べられ、煌々と本陣の周囲を照らしている。

 陣所の床几に座る秀長の対面には、浅野長吉、杉原家次、そして有馬則頼と則氏父子が顔を揃えていた。

 則頼の認識としては、味方は確かに手こずりはした。大手門に取り付くことすら出来なかったのだから、それは認めざるを得ない。

 ではあるが、今日の一戦を「負け」と受け止める必要はない、と感じていた。

 力攻めで城が一日で落ちるとは限らないものだ。

 二日三日と攻め続けるか、包囲にとどめつつ調略で内側から崩していくか、攻める側が選択する余地があるのであれば、普通それは負けとは言わない。

 討死した兵の数は少なくないとはいえ許容範囲であるし、各付城に配された将は揃って健在である。

 少なくとも名のある武者は誰も討たれていない。

 とはいえ、後味の悪さが残ったのも事実である。

 今日の仕寄りにおける手負い討死の数の把握と、明日に向けての善後策を協議するために集まったのだが、沈痛な空気は隠しようもない。

「姑息な策にござる」
 杉原家次が膝を叩き、悔しがってみせる。

 損害が目立つのは、もっぱら杉原勢と有馬則氏勢である。

 討死が極端に多いわけではなく、どちらの手勢も車菱や古釘を踏み抜いて足を痛めた者が目立つ。

 本陣の羽柴秀長勢は、淡河城から放たれた牝馬によって惑わされた騎馬武者に被害が比較的多く出ている。

 一方、浦川を挟んで対峙した則頼の手勢は、わずかに付城から押し出しての弓鉄砲の応酬に終始したため、ほとんど手負い討死を出していない。

 総予備としてほぼ待機したまま終わった浅野長吉勢も同様である。

「なんとも、手こずらせてくれたものよ。されど、おおかたの手は打ち尽くしたものと見たが、如何なものであろうか」
 秀長の言葉に、他の三名の将は一様にうなずいた。

「陣替えは不要ですかな」
 浅野長吉が気遣わしげに訊ねる。

 自陣ではほとんど兵を損なっていないだけに、明日は己の手勢が先陣を切るとの臍を固めている様子にみえた。

「いえ、その必要はござりませぬ。兵どもの士気も衰えてはおりませぬゆえ、明日こそ大手門を打ち破らんとと存じまする」
 父親の顔を横目で伺いながら、則氏がまなじりを決して言い募る。

 則頼も我が意を得たりとばかりにうなずき、言葉を添える。

「淡河弾正め、あれこれと奇策を弄したようにござりますが、今日の一戦で、手妻の種も仕掛けも使い尽くしたことでしょう。明日はただ堂々と攻め寄せればよろしいかと」

「うむ」
 追従めいた則頼の言葉に、秀長は言葉少なに頷いただけだった。

 しかし、則頼は己の言い分が間違っていないと確信していた。

 なんといっても、牝馬を放つような奇策は苦し紛れのものに違いないのだ。

 既に放たれた牝馬はそのまま戦場から逃げ散っており、再び同じ手を用いることは出来ない。

 第一、確かに戦場を混乱させはしたが、味方も騎馬を使えなくなる策である。

 事実、追い打ちを掛けて戦果を拡大する絶好の機会であったにも関わらず、徒武者ばかりで押し出してきた淡河勢はひとしきり城の前で暴れただけで引き上げている。

(とは申せ、己の鑓裁きが天下の織田の兵に通用し、児戯めいた奇策も図に当たるとは。まったく、ようやったものじゃ。淡河弾正、今頃はさぞ得意満面であろうかの)
 則頼は厳つい定範の面立ちを脳裏に描いてみる。もっとも、定範が得意げにしている様子は上手く想像できなかった。

「……父上、何か良き策でも思いつかれたか」
 いつしか、知らぬ間に相好を崩していたものらしい。

 則氏が怪訝そうに横顔を覗き込んでいた。

 則頼は「なんでもない」と咳払いして慌てて表情を引き締めた。




 その後、ひとしきり戦況に関する情報交換も済ませ、軍議も終わりに近づいた頃、本陣の兵がざわめき始めた。

「何事じゃ」
 秀長ら諸将は一斉に淡河城の方角に目をやった。

 すると、夜空を背景に黒く浮かび上がる淡河城の輪郭の中に、ぽつり、ぽつりと光が幾つも出現するのが見えた。

 篝火にしてはやけに多い炎が、夜空の星を覆い隠さんばかりの勢いで煙が立ち上っている。

「なんじゃ、あれは? こちらの夜討ちを警戒しておるのか?」
 そんな呟きが秀長の口から漏れる。

 寄せ手が夜襲による城攻めを仕掛ける手がないわけでもないが、同士討ちの危険も大きく、それはよほどの奇策といって良い。

「この期に及んで、あらぬ夜討をおそれて闇を払おうなどと画策するとは、笑止千万ですな」
 忌々しげに杉原家次が吐き捨てる。

「何か動きを見せておるような。なれば、この機に乗じて攻め寄せては如何か」
 気負って立ち上がった則氏が秀長に向き直って詰め寄る。

「それも一考の内なれど、むしろ敵が夜討ちをかけてくる魂胆やもしれず。ここは、軽々に動くは却って下策と思案いたす。各々方は急ぎ陣所に戻り、守りを固められよ」
 秀長はこくこくと頷きつつもその策には乗らなかった。

「四郎次郎よ、ここは腰を据えてかかるべき時ぞ」
 則頼も秀長の考えに賛同した。則氏は不満気な表情を見せつつも、それ以上夜討には固執しなかった。

(焦ることはない。敵は逃げも隠れも出来ぬのじゃ)

 この内心の呟きを、則頼は後に「うっかり言葉にしなくてよかった」と述懐することになる。
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