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(二十九)九州征伐

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 戸次川の合戦における敗報を受け、大坂城の秀吉は当然ながら大いに憤った。

「なんたることじゃ。十河存保に加え、長宗我部元親の嫡男まで討死させたうえ、権兵衛はどこまで逃げ戻ったというのじゃ。存外な臆病者め」
 広間の上座にて、秀吉が息巻く。

 その場で軍監の仙石秀久に追放処分を下すなど、荒れる秀吉を前にして近習もかける言葉が見つからない様子だった。

 御伽衆である則頼は、特段の用事がなくとも秀吉の傍近くに侍ることを許されているため、時折このような難しい場面に出くわす羽目になる。

(ここは、儂がなだめるしかないのか)
 損な役回りだと思いつつ、則頼は意を決して口を開く。

「やはり、九州を併呑しようかという島津は難敵。ここは、殿自らお出ましになり、征伐していただく他はございませぬな」

 あまりにも堂々と悠揚迫らぬ態度で発せられた則頼の追従に、場の空気が緩んだ。

「……坊主殿よ。そりゃ、あんまりにもあからさまじゃなかろうかよ。坊主殿に正面切ってそう言われると、腹を立てる気も失せるわ」

 ややあって、脇息にもたれた秀吉が発した言葉からは、先ほどまでの怒気はかなり消えていた。

「いやはやお恥ずかしい。それがし、何事も腹蔵なく口にすることを心がけておりますゆえ、つい本音が漏れ申した」

 丸めた頭を撫で、臆面もなく言い募る則頼に、秀吉の口角があがる。

「まあ、言われるまでもない。準備を急がせておるが、一万や二万の兵では済まぬゆえ、兵糧を揃えるのも直ぐにはいかぬ。明年の春になろう。その時は有馬の坊主殿にも同陣してもらうゆえ、楽しみに待っておれ」

「ははっ、その折はこの法印、身命を賭して働きましょう」
 則頼は声に力を込めて平伏する。

 ただ、本人としては至って真剣なのだが、なぜか近習の間からは忍び笑いが漏れる気配がした。

 どうやら、すっかり茶坊主扱いであるらしい。




 自ら大軍を発して九州に乗り込むことを決めた秀吉は、十二月一日には小西隆佐をはじめよする奉行四名に対して、三十万人分の兵糧を初めとする軍需物資の調達を命じた。

 開けて天正十五年(一五八七年)の元旦。
 秀吉は年賀祝儀の席で、九州への討ち入れを宣言すると共に、それぞれ部署を諸大名に伝えた。

 辣腕の奉行の手により、一月あまりを擁して兵糧の集積も完了していた。

 一月二十五日は宇喜多秀家が先陣を切ると、二月十日には別動隊となる秀長が大坂を発った。

 そして、京を前田利家と羽柴秀次を留守居として守らせた秀吉は、三月一日を期して期して大坂城を発した。

 軍勢の総数は二十万とも二十五万とも噂された。

 その軍勢の中に、領内から手勢三百名ほどを率いて参陣している有馬則頼の姿もある。

 行軍中、備前赤坂にて足利義昭の出迎えを受けたり、厳島神社に参拝したりするなど、秀吉は軍勢を急がせなかった。

 秀吉勢が長門赤間関から豊前国小倉へと渡り、九州の地に足を踏み入れたのは三月二十八日のことである。

 秀吉は軍勢を分け、宇喜多秀家らの別動隊を秀長に託し、豊後から日向へと向かわせた。

 則頼は、秀吉の本軍に配された。

 秀吉の本軍の行く手に立ちはだかる最初の要衝は、秋月種実が本拠とする筑前古処山城、および豊前岩石城である。

 豊前の馬が岳にて軍評定が開かれ、諸将が秀吉の元に集う。

 則頼も末席に座を占める。

「見たところ、岩石城は要害堅固。こちらは兵の一部を押さえとして残すにとどめ、古処山城攻めに絞ってはいかがかと」
 当初、集まった武将たちの間からはそんな声があがる。

 岩石城はその名のとおり岩の塊で出来た山の頂部に築かれた山城で、いかにも難攻不落の風情があった。

 この城には秋月種実の家臣である熊井久重が三千の兵を率いて立て籠もり、守りを固めている。

 床几に腰かける秀吉は浮かぬ顔をするが、迂回策もやむを得ないと言いたげな風情である。

 それに真っ向から反対したのが蒲生氏郷である。

 氏郷はかつて信長にその将器を愛され、信長の娘を妻に迎えているほどの男だ。

 かつては柴田勝家として働いた時期もあったが、本能寺の変以後は秀吉に従っている。

 元の諱は「賦秀」であったが、秀吉の関白就任を機に秀の字を遠慮して改名するなど、世知にも長けている。

 とはいえ、基本は退くことを良しとせぬ武人であり、秀吉に対しても遠慮ばかりはしていない。

「大事な緒戦から敵を選ぶものではございませぬぞ。是非ともそれがしに先鋒を御命じくだされ」

 獅子吼する氏郷に引きずられるように前田利長も城攻めを主張する。諸将の士気は一挙に高まった。

「逸りおるわ。そうまで申すなら、見事やってみせい」
 苦笑を浮かべつつも、秀吉は嬉しげに方針を転換した。

 そんなやりとりを、諸将の後ろの方で則頼はどこか物憂げな表情で眺めている。

 実は関門海峡を越えて九州の地に足を踏み入れて以来、則頼は体調を崩していた。

 最初は単なる船酔いかと思っていたのだが、数日を経てもなお調子が戻らない。

(やってやれぬことはないが、万が一にも戦場で判断を誤るようなことがあっては命取りよ)
 そう判断した則頼は、敢えてここで手をあげて城攻めに加わろうとはしなかった。

 もっとも、秀吉も最初から則頼の手勢をあてになどしてはいなかっただろうが。



 四月一日の早朝。

 信長四男で秀吉の養子である豊臣秀勝を大将に、先陣を蒲生氏郷、二陣を前田利長として岩石城攻めが始まる。

 蒲生勢が大手口から、前田利長勢が搦手口から激しく力攻めを仕掛ける。

 損害を省みぬ蒲生勢の猛攻が功を奏し、難攻不落と思われていた城はわずか一日で落ちた。

 秋月方は四百名あまりが討死し、城を捨てて脱出した。

 秋月種実は岩石城のあっけない陥落に驚き、支城の益富城を放棄して古処山城に兵を集めて守りを固めた。

 しかし、秀吉勢の大軍と対峙する将兵の士気の低下は手の付けられない有様だった。

 結局、五万の軍勢に包囲されると、秋月種実は勝ち目なしとみて三日後には降伏を申し出る。

 秋月勢を下した秀吉の本軍は十日には筑後、十六日には肥後隈本、十九日には肥後八代と、大きな抵抗を受けることもなく南下を続けた。

 この破竹の進撃を目の当たりにして、肥前の龍造寺氏は重臣・鍋島直茂がいち早く秀吉と通じていたため戦わずして帰参した。

 同様に、島原の有馬晴信も成す術もなく秀吉に下った。

 なお、有馬晴信は則頼と同じ有馬を名乗ってはいるが、本姓は藤原氏とも平氏とも言われており、村上源氏の流れをくむ摂津赤松の有馬とはまったくの無関係である。

 味方大名が次々と秀吉方に身を投じる状況では戦えないとみて、高田に布陣していた島津忠辰は薩摩国の出水まで兵を退いた。

 秀吉の本軍は大きな野戦も経験しないまま、島津の本国である薩摩国まで迫ったことになる。



 一方、秀長率いる別軍は先着していた毛利輝元や宇喜多秀家、宮部継潤ら山陽山陰の軍勢と合流すると、豊後より日向へと南下していた。

 三月二十九日には日向松尾城を攻め落としたのを皮切りに、さらに四月六日には耳川を超えて高城を包囲した。

 さらに島津勢が都於郡城方面からの後詰により解囲を図ると踏んだ秀長は、その南側に空堀や板塀を備える大規模な陣城を急ぎ築かせた。

 その予測どおり、十七日には島津勢約二万が来襲した。

 島津四兄弟のうち、当主の義久を含め、義弘および家久が率いる島津の主力である。

 陣城にこもる宮部継潤らおよそ一万が島津勢に包囲され、危うい戦況となった。

 軍監の尾藤知定は、慎重を期して援軍の派遣を否定したが、この措置を不服とした藤堂高虎、黒田孝高、小早川隆景らは独断で出陣、陣城を後詰した。

 後世「根白坂の戦い」と称される激戦の結果、島津方は陣城を攻め落とせず、一門の島津忠隣が討死するなど手痛い損害を被って後退した。

 義久は都於郡城、義弘は飯野城、家久は佐土原城へとそれぞれ兵を引いた。

 先の戸次川の合戦における顛末とあわせて、島津勢の剽悍さは良くも悪くも喧伝されていた。

 秀長勢の将士の中にも、内心で恐れを抱いている者はすくなくなかった。

 しかし、勝利により恐怖心は払拭された。

「島津勢も、鬼ではない」
 陣中では意を強くした将士の間で、そんな言葉が盛んに交わされた。

 逆に主力をつぎ込んでさえ秀吉の別動隊にすら勝てなかった島津方は、大きく士気を阻喪した。

 もはや秀吉の本軍を迎え撃つだけの余力はない。

 二十一日になって、島津義久は秀長に対して和睦を申し入れた。

 秀長勢の包囲を受け続けていた高城では、当初は城主の山田有信が容易には降伏を認めなかったものの、結局二十九日には城を明け渡している。 

 その間も、島津の主力が日向方面に向けられた間隙を衝くように秀吉勢は肥後国を南下しており、二十七日には薩摩の国境にまで達した。

 島津方にとっては、予想を上回る速さであった。

 秀吉勢の大軍が薩摩国を脅かすようになると、出水城の島津忠辰、宮之城の島津忠長といった島津の一族も、もはや抵抗は無益とみて早々に降伏した。

 五月八日。
 泰平寺に本陣を置いた秀吉の元に、伊集院の雪窓院にて剃髪して出家し、龍伯と名を改めた島津義久が足を運び、正式に降伏した。

 秀吉は武門の家に生まれ、仏門に入った坊主を好む。
 その例に違わず、義久あらため龍伯の態度を殊勝として赦免し、薩摩一国を安堵した。

 島津配下の支城の中にはなおも抵抗の構えを見せているところもあったが、秀吉は残敵掃討を見届けることなく、当日のうちに泰平寺をはなれて筑前に向かった。

 六月七日に筑前国の筥崎八幡宮に到着した秀吉は、九州国分令を発して九州征伐の終了を宣言した。

 秀吉勢に加わって薩摩まで同行した則頼は、大きな合戦に身を置く機会もないまま、和議の成立を見届けた。

「ようやっと終わったか」
 則頼は三か月あまりの軍旅を思い返し、げっそりとした表情をみせる。

 この九州征伐において、則頼率いる有馬勢には、華々しい活躍はまったくなかった。

 基本的には秀吉の本陣近くに配されていたうえ、本軍が通過した筑前から肥後に至る地域では大規模な合戦がなく、そもそも出番自体がなかったためだ。

 とはいえ、本軍も岩石城攻め以降も幾度かの城攻めを行っており、則頼も一度ぐらいなら先陣を願い出る機会はあった。

 しかし、九州に足を踏み入れて以来続く体調不良はいまだ回復せず、微熱とだるさが治まる様子がない。

 九州の水が合わなかったのか、遠征の疲れが出たのかは判らない。

 いざ合戦となれば病も吹っ飛ぶ、といった性分ではないことは、則頼も自覚している。

 体調の不良から判断を誤り、不覚を取るような真似はできない。

 そう考えて大事を取り、自ら志願することはなかった。

 それでもどうにか、島津との和議が成立するまでは気を張って持ちこたえた。

 しかし帰路の途中、関門海峡を渡り、周防国関戸を過ぎたあたりで症状が重くなり、とうとう行軍に耐えられなくなった。

 遠征に向かう往路であれば大将が戦列を離れるなどもっての他だが、既に国許への帰還の途中である。

 則頼は無理をしないことにした。

 有馬重頼を陣代に立て手勢を任せし、自らは街道沿いの海に近い場所に建つ名も無き小さな寺に宿を求めて逗留することにしたのだ。

 寺の住職も、僧体の則頼に同情を寄せてか、表向きは嫌がることもなく宿坊の一つを貸してくれた。

 もっとも、秀吉の側で御伽衆なる役目を勤めている、などと言われて、無下にできる者もそうはいないだろうが。

 則頼は現状を秀吉に伝えるべきか迷ったが、特に知らせないことにする。

 二十万とも号される大軍勢の中にあって、吹けば飛ぶような小勢を率いる則頼の病などに手を煩わせるのもためらわれたのだ。

 寺に残ったのは、吉田大膳と身の回りの世話をする近習、警護の徒士らのみである。

「このような知り人もおらぬ僻地では、信頼できる医師の当てもございませんぞ」

 戦場では臆することのない大膳も、さすがに病が相手では成す術がなく、困り果てている。

 寺の住職も、あまり薬学の知識はなく、医師も心当たりはないと言い、頼りとはならなかった。

「なに、しばし寝ておれば治る」
 宿坊の板間に敷かれた薄い布団の上に仰臥するだけに則頼の強がりの声も、却って弱々しく響く。

 則頼は蒲柳の質ではないものの、元々頑健な身体ではない。

 加えて、古びた宿坊には塩気を含んだ隙間風が遠慮なしに吹き込んでくる。
 冬場の冷気が忍び寄らないだけマシとはいえ、お世辞にも身体に良い環境とは言えない。

 仰臥する則頼が天井を見ながら脳裏に描くのは、嫡男・則氏を代理で送り出した折の光景だ。

 秀吉と出会ってから、はや十年。まだ十年というべきか。

 見える世界が随分変わったものだ、と則頼は思う。

 京や堺を知っているだけで、播磨しか知らない別所の家中を見下していた自分にしても、九州にまで足を延ばし、周防国で倒れる日が来るなどとは想像もつかないことだった。

 あの淡河弾正定範に、今の世をみせてやりたかった。

 播磨のわずかな所領を守るために命を落とす必要などなかった、そう言わせたかった。

(いかんな。心まで弱らせてはならぬ)
 不意に淡河弾正の名を思い起こした自分に気づき、頬をゆがめる則頼であった。
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