【完結】勝るともなお及ばず ――有馬法印則頼伝

糸冬

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(三十一)本意に背く事

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 四国、九州を制し、中部以西の国土をほぼ平定した秀吉は、天正十五年(一五八七年)の暮れに、奥羽および関東に向けて武将同士の私闘を禁ずる惣無事令を発し、上洛を命じていた。

 大小多くの大名が秀吉の膝下に膝まづく中、小田原城を本拠とする北条氏は言を左右にして上洛を先延ばしにしていた。

 そんな中、天正十七年十月(一五八九年)に至り、上野国にて北条方の沼田城の城代・猪俣邦憲が、真田昌幸が領する名胡桃城を攻め落とす事件が起こる。



「有馬の坊主殿よ、先年までは西であったからな。次は東じゃぞ」

 御伽衆として聚楽第の広間に出仕した則頼に対して、秀吉は機嫌よく、近所に物見遊山にでも出かけるかのような口ぶりで小田原征伐を宣言した旨を告げた。

「それがし、富士の霊峰はまだ見たことがございませぬ故、御供する日が楽しみにござりますな」

 則頼も、秀吉が自分とは小難しい軍略論を交わすつもりなどないと見切って、あえて軽い口調で応じる。

 御伽衆は政事にも軍事にも、秀吉の相談に預かることはない。

 聞かされるのは、ただ決断の結果だけだ。

 もっとも、秀吉が重大事を諮る家臣となると、黒田孝高の他、ごくわずかな者に限られている。

 蜂須賀正勝や浅野長吉といった古参の重臣であっても、一方的に命じられるのがほとんどであろう。

「相変わらず、有馬法印は太平楽で良いわ。此度は寝込むようなことがあってはならぬぞ。よくよく養生いたせ」

「いやはや、それはもう」
 恐縮する則頼を前に、秀吉は大口を開けて笑う。

 そのやりとりを、秀吉の近習達が不思議そうな顔で眺めていた。

 彼らは、秀吉がなぜ則頼にこれほど親しく話しかけるのか、理解できない様子であった。

 無理もない、と則頼も思う。

(なにしろ、この儂自身が、これほどの厚遇の理由が未だに判らぬのじゃからな)




 翌天正十八年(一五九〇年)三月一日を期して、秀吉は大軍を率いて京から進発した。

 前年から大々的に動員が進められていた軍勢は、総数二十万を越えると号された。

 その中に、九州征伐の折と同様、三百名ほどの兵を率いて参陣する則頼の姿もある。

 則頼にとっては、清須での会合に馳せ参じて以来、京より東に足を踏み入れるのは八年ぶりとなる。

 東海道を進む軍勢は三月十九日には駿府城に達し、秀吉は駿河国を所領に持つ徳川家康の出迎えを受けた。

 その後、ゆるゆると行軍を続け、三月二十七日には北条との最前線となる三枚橋城まで兵を進めた。

 家康は己の所領に秀吉の軍勢が通過する間、領内を行軍する秀吉勢に同行して、連日連夜、山海の珍味を集めて秀吉を歓待していた。

 家康の献身的な馳走ぶりに近習らは感心する一方、物見遊山めいた緩んだ空気が陣中に広がっていることを危惧し、これは殿下を油断させる謀ごとではないか、と疑う者もでてきた。

 近習らが勝手な憶測を言い合う様を、則頼は止めるでもなく眺めている。

(まあ、心にさざ波が立つのは儂も同じか)

 則頼が家康の姿を見るのが今回が初めてではない。

 天正十四年十月に、家康は大坂城に登り、秀吉に拝謁して臣従を許された。
 その儀式は諸大名が見守る中で行われ、則頼も末席に参列している。

 小牧長久手において、嫡男・有馬則氏が討死したのは、元をただせば家康が挙兵したからだとも言える。

 勿論、勝敗は兵家の常である。仇や恨みに思うたところで詮無い話だと、則頼も頭では理解している。

 だが、我が子を失った悲しみを、そう簡単に割り切れるものではない。

 その時は、敗軍の将が秀吉に許しを乞うていると思えばこそ、憎しみの気持ちも持たずにいられた。

 だが今になって、秀吉の有力な同盟者然とした顔で、家康が如才なく立ち振る舞う様子をみせられるのは、あまり心地よいものではなかった。

(まったく、修行の足りぬことじゃ)

 いま、自分はどんな顔をして家康を見ているのだろうか。則頼は自嘲し、薄く笑った。



 その日の晩。

 三枚橋城での夕餉を終えて宛がわれた宿舎の寝所に下がった秀吉から、則頼は呼び出しを受けた。

「有馬の坊主殿は、どうみる」

 則頼が寝所に顔を見せるなり、にやりと笑いながら寝間着姿の秀吉が問う。

「やはり、富士の名峰は己の目で一度は見ておくべきですな。我が父祖の地である有馬にも有馬富士と呼ばれる山がござりますが、やはり本物にはかないませぬ」

 秀吉の言いたいことはなんとなく判っているが、真正面からそれを受けては面白みがない。則頼はあえて空とぼけてみせる。

「そのようなことを聞いておるのではないわ」

 案の定、秀吉は笑みを深くしつつ則頼の額をはたく。

「殿下がお尋ねになりたいのは、徳川様の心根にございましょうか」

「判っておるではないか。気にしておる者もおるでな、存念のまま申してみよ」

「もし仮に、徳川様の家臣に、殿下の周囲が手薄である今が好機だと言い出すものがおれば、徳川様はきっと、こう諭されるでしょうな」

 則頼はそう前置きして言葉を継ぐ。

 すなわち、「殿下がこうやって心をお許しになって軍勢を進めているのは、私を頼ってのこと。この一月に亡くなった私の室は殿下の妹、すなわち私は殿下の義弟である。北条左京大夫が私の妹婿であるのに、殿下は私に心を許されている。そうであれば、飼鳥の首を絞めるようなむごい真似を武士はしないもの。武辺はその身の生まれつきだが、天下を知る事は果報次第である。とにかく武士は意地を第一にするもので、はするべきではない」と。

 則頼の口真似に、秀吉はしばし複雑な感情にとらわれたのか、険しい表情を浮かべた。

 言外に則頼が匂わせたのは、もし家康が則頼が言葉にしたとおりの律義者でなければ、本当は命が危ないところだ、という話だからだ。

「……まあ、そのようなところであろう」

 ややあってそう呟いた秀吉だが、不意に則頼に向けて露悪的な笑みを浮かべた。

「それはそれとして、有馬の坊主は、物真似は不得手じゃなあ」

「これは、かないませぬな。それにしても、殿下。それがしには一つ、不思議でならぬことがございます」

 苦笑を浮かべながら、則頼は長年胸にわだかまっていた疑問をぶつける覚悟を決めた。

「なんじゃ、改まって」

「殿下はなにゆえ、それがしのような、さしたる武辺もなければ謀才も持たぬ坊主をこれほどまでに買うてくださるのですか」

「今更なにを申して居るのか」

 秀吉は則頼の頭を軽くはたく。
 乾いた音が響く。

 だが秀吉の笑みは消え、しみじみとした表情に変わっている。

「儂は、恩義を忘れぬ男じゃ」

「はい。それはもう」

「別所が背き、進退窮まったかと思うておった折、書写山の陣に播州者の坊主殿が微行で真っ先に馳せ参じてくれたこと、どれだけ嬉しかったか。こればかりは誰にも判らぬようじゃ」

 懐かしそうに目を細めた秀吉が、ふと真顔に戻る。

「このこと、誰にも申してはならぬぞ」

「無論のこと。我が秘事として、墓まで持って参りますぞ」

 則頼は胸中に広がる喜びを抑えかね、震える声でそう応じるのが精いっぱいだった。



 もっとも感動も束の間、この数日後から陣中にて奇妙な噂が流れはじめた。

 曰く、則頼が家康に対して、秀吉を討ち取る好機であると進言したのだという。

 三枚橋城で秀吉と二人きりで話した内容が漏れたとしか考えられないが、漏らしたのは則頼自身でない以上、秀吉でしかありえなかった。

 流言という形を取り、「妙な気を起こすなよ」と家康に伝わるように仕組んだ牽制であると思われたが、名前を使われる則頼としては良い面の皮である。

 無論、下手に信憑性がありすぎても困る訳で、則頼であれば名を出されても短慮を起こすこともないだろう、と秀吉が踏んだ結果であろう。

 なまじ秀吉の魂胆が判るだけに、則頼も腹立ちの持って行き場がない。

(過日、あのような話を聞かされた後ではのう。これも信頼の証となれば、怒るに怒れぬわ)



「どうもよろしくありませぬな。恐らく、徳川様の御耳にも噂は届いているものかと」
 事情を知らぬ吉田大膳が、いつにも増して渋い顔で則頼に報告する。

「さもありなん。そうなるように、噂を流しておる者がおるという証左よ」

「念のためお尋ねいたしまするが、真に、殿はそのような振る舞いをしておらぬのですな」
 なおも大膳は、真剣な表情を崩さない。

 則頼は半ば呆れつつも、この不器用な男の忠心が好ましい。

「阿呆なことを申すな。なぜ儂が、わざわざ徳川公にそのような進言をせねばならぬのじゃ」
 大膳に対してはそう笑い飛ばす則頼であるが、しばらくの間、なんとなく肩身の狭い思いをする羽目になった。
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