【完結】勝るともなお及ばず ――有馬法印則頼伝

糸冬

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(三十九)淡河の守り

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 五月三日、家康は諸将に対して会津出征の準備を命じた。

 西笑承兌への兼続の返書を読んで家康が激怒し、上杉を討つことを決めたという風聞は、もはや葛屋の連雀を頼らずとも則頼の耳に達した。

 これは恐らくは意図的に流されたものだろう。

 先行きの不安を感じさせる世情の中、六月に有馬家においては慶事があった。

 かねてより婚約を済ませていた連姫を豊氏の正室として迎えたのだ。

 一度は三成の横やりで沙汰やみとなっていたが、家康はためらうことなく話を復活させていた。

 その一方で、家康は六月六日には諸将を大坂西ノ丸に参集させると、上杉征伐を正式に宣言し、五つの攻め口の割り当てを発表していた。



 諸将が戦支度に大わらわとなる中、則頼も家康の許しを得て久々に淡河城に戻った。

 しかし懐かしい景色を眺めるゆとりもなく、ただちに評定を開くため、主だった家臣を本丸大広間へと招集する。

「此度は徳川内府の命に従い、会津征伐に兵を出す」
 則頼は上座に着座するや、前置きもそこそこに切り出した。

 その言葉を受けて、家臣の間からざわめきが広がる。

「さりながら、内府の軍が東に向かったところを見計らい、決起を企む者がおるらしい。それゆえ、この城の守りをおろそかにできぬ」

 家臣の動揺を無視して、則頼は言葉を継いだ。

 則頼の、聞きようによっては荒唐無稽とも言える見立てに異を唱える家臣はいない。

 主人が築いた人脈と独自の諜報網を用いて、いちはやく正確に時勢を読んでいる点について、彼らは疑いを抱いていない。

「よって、兵の過半は残し、自分は吉田大膳と、百名ほどの供回りのみを連れて向かうことと致す」
 則頼は重ねてそう告げた。

「そのような小勢では、危のうございませぬか」
 次席家老の座から。有馬重頼が秀麗な顔に懸念の色を浮かべて問う。

 その心配顔に向けて、則頼はあえて余裕の笑みを浮かべて応じる。

「小勢といえば、当家が出せるのはどう頑張っても五百程度。天下の軍勢の前には、どのみち小勢ではないか。内府が率いる軍の中にいることより、安全な場所などあろうか。それに、せがれの玄蕃に多めに兵を出させるゆえ、懸念はいらぬ」

 今度は大広間にため息が充満する。
 その響きからは安堵感だけでなく、無念さもうかがわれた。

 上杉を相手の大戦さが迫っているのに、そこに参加できないのは武士としては名折れだと感じる者は少なくない。

 別所家が滅び、秀吉に従ってきた有馬家はこの二十年間、確かに多くの戦場に参陣してきた。

 しかし則氏が討たれた小牧長久手の戦い以来、激戦と呼べる戦さは経験しておらず、そのほとんどが本陣近くて守りを固めて過ごしてばかりだった。

 戦場の手柄がなければ、加増などもそう得られるものではない。

 この時期の則頼の身代は依然として一万五千石とされており、この二十年間でほとんど変化していない。

 もちろんこの二十年のあいだに、秀吉の不興を買って追放されたり、戦場で命を落とした結果、取り潰しになった武家は五や十では利かない。

 家名を保っているだけでも人知れぬ苦労があることは、家臣も理屈の上では理解している。

 それでも、機会をみすみす見逃すとの則頼の判断には素直に従えないものがあるのだ。

 しかし、則頼の気持ちは揺るがない。戦さで将士を損なわねば加増にありつけぬというのなら、一万五千石から上を目指す必要も感じない。

「なお、当城の城番は淡河新三郎に命ずる。三津田城は蔵人が差配せよ」

 重頼は異論なく「承知仕った」と頭を下げたが、もう一方の淡河長範は面食らった様子であった。

「それがしでございますか」
 長範は非礼を忘れ、半ば腰を浮かせるような恰好で訊ね返す。

「その方の兄のこと、儂は忘れてはおらぬ。淡河弾正の実弟が淡河城を守るとなれば、これほど心強いことはない。不届き者も、その名を聞けばこの城を攻めようなどとは思うまいて」

「では、近在の農民共から牝馬を借り受ける算段でも致しましょうかな」

 生真面目な長範らしからぬ返答に則頼が「よくぞ申した!」と膝を叩くと、大広間は大いに沸いた。



 評定を終えた後、則頼は長範ひとりを茶室に誘った。

 誰もがこれを、城代に抜擢した長範を激励するために茶を振る舞うのだろうと考えた。

 それは事実でもあったが、則頼にはもう一つ大きな理由があった。

 にじり口から茶室に入った長範は、既に客がもう一人いることに気づいて戸惑いの表情を見せる。

「これなるは、当家出入りの商人である葛屋の福助じゃ。よう見知りおくが良い」
 亭主の席に座る則頼は、長範に向けて微笑む。

 福助もまた、長範に向かって頭を下げる。

「葛屋の福助にございまする。淡河様の御顔は、かねてより拝見いたしておりますが、こうしてお話するのは初めてでございますな」

「淡河新三郎長範と申す。よろしく頼む。して、殿。商いについて、福助殿と諮れとの思し召しにございましょうか。何しろ、これからあれこれと要り様となりますからな」

 首を傾げた長範が、探るような口ぶりで則頼に問うた。

「それもある。あるがしかし、それだけではない。その方ならば薄々勘付いておるやも知れぬが、儂が他の者よりもいち早く時勢を知ることが出来るのは、ひとえに葛屋の働きによるものじゃ」

 則頼の言葉に、長範はわずかに目を見開いた。

「つまり、商人の葛屋とは表向きのことで、その裏は当家お抱えの忍び衆ということでござりますか」

「忍び衆などという大それたものではない。それに表も裏もなく、どちらも真の姿よ。当家はその両面で世話になっておるということじゃ」

「承知いたしました」

 長範は口を引き結んで小さくうなずく。

 とはいえ、突然の話だ。どこまで得心しているかは、則頼も長範の表情からは読み取れない。

 だが、話を続けるにはともかく納得してもらうほかはない。

「さりながら、さしもの葛屋も会津までは連れていけぬ。無理やり引っ張っていったところで、なんの伝手もなく、力を発揮できぬであろう」

「仰せのとおりにござります。連雀を幾人か送り込むことは出来ましょうが、さすがに商家の主人は御供する訳にも参りませぬからな」

 福助が傍らから相槌を打った。

「そこでじゃ。今後は福助には小三郎についてもらう。当家の城を脅かす者が現れたなれば、いち早く小三郎に報せてもらいたいのじゃ」

「改めて、こちらからもよろしく頼む。城の守りのためには、敵の動きを知ることは何よりも大事である」

 なんとか事情を呑み込んだらしい長範も、福助に向かって頭を下げた。

 福助もまた、厳しい表情で会釈し返す。

「かしこまってござります。ただ、有馬様とのつなぎを果たす者もこちらに残したく存じます。ついては、有馬様におかれては、我が息の幸助をお連れいただければ有り難く存じまする」

「その方にも息子がおったのか」

 かつて葛屋の豊助から福助に代替わりした際にも、似たような驚き方をしたことを則頼は思い出す。

 気づけば、それももう二十年も前の話だ。

「一通りのことは仕込んでおりますが、当人は商いよりも、連雀として調者働きをするほうが得手のようにござります。何かのお役にたつと思し召しくださりませ」

「調者働きとは、どのようなものでござろうか」

 興味を惹かれたのか、長範が福助に問う。

 福助もまた、包み隠すことなく葛屋の生業について説明を始める。

 則頼はその様子を見ながら、長範を抜擢した自分の見立てに間違いはなかったと感じた。

 同時に、会津征伐から戻ってもそのまま長範に福助とのやりとりを任せても構わないと考え始めた。

 どの道、別家を立てた豊氏には葛屋と関わらせるつもりはなかった。

 豊氏は豊氏で、気の利いた者によるなんらかの諜報の伝手を有している筈だからだ。




 淡河城の仕置を終えた則頼は早速大坂に戻り、大坂城西の丸の家康の元に伺候した。

「当家の身代では、城の守りに兵を置くのが精いっぱいゆえ、身一つで参加すること、お許しくだされ。兵数は、わが子・玄蕃が二千は集めます故、どうかご容赦を」
 則頼は深々と頭を下げた。

 身一つとは言葉の綾であるが、戦力として役に立たないのは事実である。

「淡河城の守りは万全かの」
 機嫌を悪くした様子もなく、家康は尋ねた。

 徳川内府には淡河城の正確な位置も、城構えもろくに知ってはおるまい。

 そんな思いが則頼の頭をかすめた。

 つい、言わずもがなのことを口走る。

「それがしが知る限り、もっとも戦さ上手の男、その弟に預けておりまする」

 淡河定範の名こそ口にしないが、則頼はいま、確かにその名を思い起こしていたのだ。

「ほう、そのような者がおるのなら、それこそ此度の出兵に参じてもらいたいものじゃが」
 家康は、さも邪気のないといった口ぶりで問うた。その顔には笑みが張り付いている。

「あいや、これは口が滑り申した。その男、城の守りこそいくさ上手なれど、城の外で戦ったおりには敗れて腹を切ったゆえ、こちらから攻めていくことは不得手にござった」
 則頼はおどけるようにポンと額を叩き、渋面を作ってみせる。

「ううむ、それでは困るのう」
 なおも片頬に笑みを刻んでみせる家康に、則頼は愛想笑いをするしかない。

(あれからもう二十年。なぜ儂は、このような時まであ奴のことを気にかけておる)

 己の心の動きの不可思議さが、則頼にとっては妙におかしかった。



 家康率いる会津征伐の軍勢は近江までは急行したが、関東に入ってからは故意に行程を緩め、江戸では二十日間も滞在した。

 その後、七月二十一日になってようやく江戸を発った軍勢は、七月二十四日には小山と呼ばれる地まで進出し、いよいよ会津が眼前に迫ったところで動きを止めた。

 家康の本陣には慌ただしく使番が行きかい、緊迫した空気が流れている。

 上杉を相手の大戦さの前であるから当然といえば当然なのだが、何か様子がおかしい。上杉勢を探った物見ではなく、しきりに徳川の将の間を使番が走り回っている。

「これはもしかすると、上方でなにか出来したのやも知れませぬな」
 則頼の傍らで、吉田大膳が声を潜める。

 大膳が珍しく的を得た推察をしたことに、則頼は満足気に頷いた。

「うむ。あり得ることじゃな。まあ、そのうち内府様が皆に教えてくれるであろうよ」

 淡河に残した福助からの報せは則頼の元には届かない。

 しかし、則頼は懸念していなかった。

 なにしろ淡河の地からでは、京や大坂での異変を察知したとしても正確な状況を把握するのは時間が必要だ。

 自由に動かせる連雀の数も限られている以上、不正確な速報をいちいち出していたのでは肝心な時に身動きが取れなくなる。

 ましてや、則頼の手勢に紛れ込んで行動を共にしている幸助を、今の段階で味方の動静を探るために使うつもりもない。

 やがて、諸将を集めて評定が行われることになった。

 後年、小山評定と呼ばれることになる。

 則頼はさも家康の近臣であるかのように、何食わぬ顔をして上座の後ろに陣取った。

 本多正純あたりは渋い顔をしていたが、家康のほうから則頼の屋敷に足を運んで友諠を深めていたことは知られており、無碍には出来ない様子だった。

 もちろん、則頼はそんな逡巡は知ったことではない。

 広間に居並ぶ諸将と対座する位置を占めるのは悪くない気分であった。

 評定の進行は、概ね家康の筋書き通りと思われた。

 去る七月十七日、前田玄以、増田長盛、長束正家の三奉行が「内府ちがひの条々」を諸大名に送付している。

 これは、秀吉の死後、家康による違背について非を鳴らすものであり、家康を豊臣家に仇なす逆臣であるとしたものだ。

 あわせて、伏見城が石田方に包囲されたことも伝わっていた。

 家康が出座する前から三成挙兵の報を改めて聞かされた諸将は当初、咄嗟には態度を決めかねるそぶりを見せた。

 しかし、亡き秀吉の股肱であり、強力な発言権を持つ福島正則が真っ先に家康について三成を討つことを声高に宣言したことで、場の空気は一気に家康につく方向に向かった。

 掛川城主・山内一豊が軍兵を返すにあたって城と兵糧を提供すると申し出ると、他の東海道筋の大名も我先にと一豊の提案に倣った。

 無論、遠州横須賀城を預かる有馬豊氏もまた、その一人である。

 かつて、家康が関東に移封された際、空いた東海道筋に豊臣秀次付の家老が並べて配置された。

 これは万が一、家康が豊臣家に対して挙兵した場合に備え、西上する際の楯になることを想定して秀吉が配したとのもっぱらの評判であったが、いまとなっては完全に思惑違いとなっていた。

 個々の大名は家康に対して身代が小さく、単独では時間稼ぎにしかならない。

 連携が不可欠であるが、そもそも誰が主導権を握って連合するかも決まっていないのだ。

 各個に撃破される恐怖しかないとなれば、楯になどなりようもなかった。

(泉下の太閤殿下も、よもやこのような仕儀になるとは思わなんだであろうな)

 意気上がる諸将を前に、ひとり亡き秀吉に思いを馳せ、目を伏せて口中で念仏を唱える則頼だった。
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