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(三十八)最後の使番
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家康が利家の勧めに従う形で伏見を出て向島に居を移してから、十日と経たぬ閏三月三日、前田利家が死去した。
利家の死は、さらに大きな事件を引き起こすきっかけを生む。
朝鮮帰りの武功派とよばれる武将たちと、文治派とよばれる吏僚との間には、朝鮮の陣における論功行賞などをめぐり、かねてから対立が生じていた。
どちらの派閥にも与していない則頼にとってはほとんど預り知らぬ話であるが、武断派の矛先は、中でも出頭人である三成に向けられていた。
ただし、前田利家の存在が武功派の諸大名の憤りを抑える形になっていた。
その利家が没したことで、武功派の諸将が暴発的に三成を狙って行動を起こしたのだ。
首謀者が加藤清正、福島正則、浅野幸長、蜂須賀家政、藤堂高虎、黒田長政、細川忠興の有力七将であったことから、後世ではこの事件を七将襲撃と称している。
大坂で軍勢を動かし始めた七将の動きは、早々に三成の知るところとなった。
三成は、かねてから親交が深かった佐竹義宣の屋敷に身を潜めると、七将の動きを見極めたうえで密かに元に大坂をのがれて敢えて伏見に走った。
そして、首尾よく伏見城の治部少丸と呼ばれる曲輪にある石田屋敷に潜り込むことに成功した。
なお、伏見城は秀頼が秀吉の遺命に従って一月十日に大坂城に移った後は、城主不在のまま五奉行が交替で在番していた。
出し抜かれたと知った七将は、怒りながら遅ればせながら三成を追って軍勢を引き連れ伏見城外まで迫った。
まさに一触触発の状態となったのであるが、大老である家康は仲裁に入り、七将に対して三成の襲撃を認めなかった。
「豊臣家の奉行を討つとなれば、それは天下への反逆である」
そう宣言して血気に逸る七将に矛を収めさせたのである。
「意外な成り行きとなりましたな」
伏見の有馬屋敷で、事の次第を聞き集めてきた吉田大膳は、首をすくめて則頼に報告する。
仮に三成の処遇を巡って合戦などが勃発すれば、伏見の有馬屋敷もいつ巻き込まれるか判らない。
早い話が、則頼主従は逃げ支度を整えたうえで息をひそめて事の経緯を見守っていたのだ。
「意外とな」
則頼が意外そうな声音で応じる。
この男にも、世情を読むだけの知恵が回ったのかと言わんばかりである。
無論、そのような嫌味めいたやりとりなど始終している主従だけに、大膳も動じる様子は見せない。
「なにぶん、七将の背後には他ならぬ内府様が黒幕として控えている、ともっぱらの噂でございますからな」
「石田治部が討たれたところで、それで徳川家の天下となるわけでもあるまい。まあ、戦さにならずに済んでなによりじゃ」
実際、三成は命こそ取られなかったが、家康は騒動の責任を負わせた。
結果、奉行職を辞して所領である佐和山城への蟄居を余儀なくされたのだ。
逆恨みで襲われたあげく、七将をなだめるために退任せよとは、当人にとっては納得しがたい沙汰であっただろう。
しかし、この事態収拾によって家康は戦さを起こすことなく存在感を高める恰好になった。
事実、三成が去ってわずか三日後の三月十三日には、家康は城主不在の伏見城を事実上接収している。
もはや、三成のいない五奉行では、家康の専横をとめることはまったく不可能となっていた。
兵を動かして三成を追いまわした七将の非をとがめることもなく、逆にその訴えを認めて軍目付であった福原長尭や熊谷直盛に処分を言い渡す有様である。
次いで家康が手を着けたのは、伏見と大坂に詰めている諸大名を領国へと戻すことだった。
その動きは六月の半ばから始まった。
秀吉の訃報を受けて上洛して以来、既に一年近く帰国していない大名も少なくない。
国の仕置きもままならない状態で、いつまでも大坂にはとどまっていることには、様々な不都合が生じ始めているのは事実だった。
家康の薦めに、渡りに船とばかり多くの大名が乗った。
七月に入ると、騒動を起こした七将は揃って伏見や大坂を離れた。
八月には父・利家の後を継き、大老の地位に就いた前田利長が金沢に帰還する。
同じく大老の上杉景勝も会津への帰国の途に就いた。
慶長三年三月に蒲生氏の跡を受け、越後春日山から会津若松へ百二十万石の領主として入国したものの、それから半年足らずしか在国していなかったのだ。やるべきことは山積していた。
しかし、九月に入ると、その直後から利長謀反の風聞が流れた。
九月七日、重陽の節句を祝うために大坂城に赴いていた家康の元に、五奉行の一人・増田長盛が聞き捨てならぬ噂を持ち込んだ。前田利長、浅野長吉、大野治長、土方雄久らが家康の暗殺を企んでいるというのだ。
家康は、真偽定かでないこの噂に、過敏なまでに反応した。
利家の帰国を促した当人であるにもかかわらず、掌を返したかのように加賀征伐のために兵を動かす構えを示しはじめたのだ。
十月三日には、大坂城西の丸に諸将を集め、加賀征伐の準備を命じた。
その一方で、家康は細川忠興も前田利長と結託して家康を討とうとしている、と糾弾の声をあげはじめた。
大坂屋敷の塀に矢間を切り、柵を二重に構えて戦さ支度をしているというのが家康の言い分だった。
どう考えても言いがかりにしか聞こえないが、則頼も呆れてばかりはいられなかった。
向島に居を移した当の家康から呼び出され、問責の使者として忠興の元に向かって欲しいと頼まれたからだ。
「この手の話は、大人が伝えねばならぬでな。加えて、あまり武張った者が顔をだせば、かえって細川侍従はヘソを曲げるであろう。茶数寄同士であれば、話も会うのではないか」
家康は、笑みを絶やさずそう説明する。
頼みとはいえ、事実上の命令である。断れるものではない。
「仰せの通りかと、すぐに支度致しまする」
平伏して承り、家康の許を辞した則頼であるが、当然ながら気乗りはしない。
細川忠興本人は、疑惑の根拠となった大坂屋敷を離れて既に丹後国宮津城に帰城していた。それだけでも、戦さ支度などいかに難癖であるかが判る。
わざわざ問責のためだけに、丹後まで遠出せねばならないのは億劫であった。
しかしそれ以上に、秀麗な顔に二つの向う傷を持つ細川忠興が、怒らせると何をしでかすか判らない危うさを心の内に秘めていることは、大名間では周知の事実であった。
家康は己の家臣が忠興に斬られては困るので、部外者の自分を送り込むのではないか、とさえ思う。
もっとも、実際にわずかな供廻りを従えて宮津城へ向けて出立した則頼は、次第に若き日の記憶が蘇ってくるのを感じ、年甲斐もなく興奮していた。
懐かしい緊張感は、三好実休の使番として奔走した若き日々を否応なく思い出させてくれたのだ。
(長らく御伽衆として太閤殿下の傍らに侍るばかりで、この感触を久しく忘れておったわ)
おそらく、このような使番めいた役目を果たすのは、これが最後になるとの予感が則頼にはあった。
結果、宮津城に到着した則頼は、問責の内容とは程遠い上機嫌で、家康からの口上を伝えることになった。
「早々に領国にて戦さ支度を整えよ。来春には宮津あたりで合戦に及ぼうではないか。城も戦に備えて手を入れ、徳川内府の軍勢が来るのを楽しみに待っておれ」などといった喧嘩腰の内容である。
家康に酷い言いがかりをつけられたうえ、やけに調子が良い則頼の口上を聞き、細川忠興は困惑の様子を隠さなかった。
とはいえ、既に自分に嫌疑がかけられている事実は承知しており、激昂していきなり則頼を手打ちにするようなそぶりはみせなかった。
「こちらには逆心など少しもござらぬ。必要とあれば誓紙も差し出す旨、内府に言上くだされ」
「承知仕った。確かにお伝えいたしましょう」
苦々しげな口調で発せられた忠興の返事を受け取り、則頼は無事に宮津城を後にした。
けっきょくこの後、十月二十四日には忠興は逆心など全くないことを誓う誓紙をしたため、父・細川幽斎、弟・細川興元、家老の松井康之と連署した。
この誓紙の宛先は、則頼と徳川家で忠興と親交のあった榊原康政のほか、金森長近となっている。
これを受けた家康は、細川家が前田家との親戚付き合いを断つことと、息子を人質として差し出すことを条件に細川家を許している。
一方の前田利長も、このうえは討伐の軍勢を相手に一戦を遂げるべしと息巻く家臣の突き上げに心を動かされつつも、結局は和睦の道を選んだ。
前田家の重臣である横山長知の奔走により、利家正室で賢婦人として知られた芳春院を人質として江戸に送ることで決着をみた。
前田家が人質を大坂ではなく江戸に送る時点で、事実上天下を差配しているのが家康であることはもはや誰の目にもあきらかだった。
伏見城を既に手中に収めていた家康だが、それだけでは飽き足らず、今度は大坂城西の丸に、大坂城本丸とは別に、己の在所として新たな天守を造営しはじめた。
十一月の初めから番匠や職人を大規模に動員して急がされた普請は年内にも終わった。結果、大坂城内には本丸天守と、西の丸天守の二つが並立する、ある種不思議な光景が現出することになった。
慶長五年(一六〇〇年)正月。
豊臣政権下においては、諸大名たちは大坂城に登城し年賀の挨拶を行うことが通例であった。
しかし、今年は本丸と西の丸のどちらを先に拝謁すべきか戸惑うことになった。
西の丸では家康、本丸では八歳となった秀頼とその実母の淀殿が諸大名を謁見する形となり、どの大名がどちらの天守に先に足を運んだかばかりがしばらくの間、世上の噂となった。
その中にあって、五大老の一人である上杉景勝が上洛しなかったことが波紋を広げる。
それどころか、景勝は会津にて神指城を新たに築き始めたのをはじめ、街道を広げて橋をかけるとともに、武具を揃え、兵糧を蓄え、なにより組外衆と称される牢人を大勢召し抱えているとの注進が相次いだ。
家康は逆心の疑いがあるとして、西笑承兌に「謀叛の噂が流れている」として早期の上洛を勧める手紙を書かせて送りつけたが、景勝は筆頭家老の直江兼続に返書を書かせ、拒否する姿勢を明確にした。
後世、直江状と呼ばれる返書では「一昨年の国替の後に程なく上洛して、去年の九月に帰国したところなのに、また今年の正月になって上洛せよといわれては、国の仕置をいつになったらできるのか」といった強い調子で家康の沙汰を逆に批難しており、直江兼続の書状とはいえ、景勝の思いを代弁する内容であることは明らかだった。
景勝に言わせれば、叛意の証明とされたものはすべて百二十万石の石高にふさわしい国造りのためだった。
前年の加賀征伐においては前田家が人質を出して事を収めたが、上杉家はどうやら頭を下げる気がないらしい、との風聞がたちまち広まった。
「やはり、戦さをせずには終わらぬのか」
葛屋の福助の元で働く連雀たちが集めた噂を聞き、そう覚悟を決める則頼であった。
利家の死は、さらに大きな事件を引き起こすきっかけを生む。
朝鮮帰りの武功派とよばれる武将たちと、文治派とよばれる吏僚との間には、朝鮮の陣における論功行賞などをめぐり、かねてから対立が生じていた。
どちらの派閥にも与していない則頼にとってはほとんど預り知らぬ話であるが、武断派の矛先は、中でも出頭人である三成に向けられていた。
ただし、前田利家の存在が武功派の諸大名の憤りを抑える形になっていた。
その利家が没したことで、武功派の諸将が暴発的に三成を狙って行動を起こしたのだ。
首謀者が加藤清正、福島正則、浅野幸長、蜂須賀家政、藤堂高虎、黒田長政、細川忠興の有力七将であったことから、後世ではこの事件を七将襲撃と称している。
大坂で軍勢を動かし始めた七将の動きは、早々に三成の知るところとなった。
三成は、かねてから親交が深かった佐竹義宣の屋敷に身を潜めると、七将の動きを見極めたうえで密かに元に大坂をのがれて敢えて伏見に走った。
そして、首尾よく伏見城の治部少丸と呼ばれる曲輪にある石田屋敷に潜り込むことに成功した。
なお、伏見城は秀頼が秀吉の遺命に従って一月十日に大坂城に移った後は、城主不在のまま五奉行が交替で在番していた。
出し抜かれたと知った七将は、怒りながら遅ればせながら三成を追って軍勢を引き連れ伏見城外まで迫った。
まさに一触触発の状態となったのであるが、大老である家康は仲裁に入り、七将に対して三成の襲撃を認めなかった。
「豊臣家の奉行を討つとなれば、それは天下への反逆である」
そう宣言して血気に逸る七将に矛を収めさせたのである。
「意外な成り行きとなりましたな」
伏見の有馬屋敷で、事の次第を聞き集めてきた吉田大膳は、首をすくめて則頼に報告する。
仮に三成の処遇を巡って合戦などが勃発すれば、伏見の有馬屋敷もいつ巻き込まれるか判らない。
早い話が、則頼主従は逃げ支度を整えたうえで息をひそめて事の経緯を見守っていたのだ。
「意外とな」
則頼が意外そうな声音で応じる。
この男にも、世情を読むだけの知恵が回ったのかと言わんばかりである。
無論、そのような嫌味めいたやりとりなど始終している主従だけに、大膳も動じる様子は見せない。
「なにぶん、七将の背後には他ならぬ内府様が黒幕として控えている、ともっぱらの噂でございますからな」
「石田治部が討たれたところで、それで徳川家の天下となるわけでもあるまい。まあ、戦さにならずに済んでなによりじゃ」
実際、三成は命こそ取られなかったが、家康は騒動の責任を負わせた。
結果、奉行職を辞して所領である佐和山城への蟄居を余儀なくされたのだ。
逆恨みで襲われたあげく、七将をなだめるために退任せよとは、当人にとっては納得しがたい沙汰であっただろう。
しかし、この事態収拾によって家康は戦さを起こすことなく存在感を高める恰好になった。
事実、三成が去ってわずか三日後の三月十三日には、家康は城主不在の伏見城を事実上接収している。
もはや、三成のいない五奉行では、家康の専横をとめることはまったく不可能となっていた。
兵を動かして三成を追いまわした七将の非をとがめることもなく、逆にその訴えを認めて軍目付であった福原長尭や熊谷直盛に処分を言い渡す有様である。
次いで家康が手を着けたのは、伏見と大坂に詰めている諸大名を領国へと戻すことだった。
その動きは六月の半ばから始まった。
秀吉の訃報を受けて上洛して以来、既に一年近く帰国していない大名も少なくない。
国の仕置きもままならない状態で、いつまでも大坂にはとどまっていることには、様々な不都合が生じ始めているのは事実だった。
家康の薦めに、渡りに船とばかり多くの大名が乗った。
七月に入ると、騒動を起こした七将は揃って伏見や大坂を離れた。
八月には父・利家の後を継き、大老の地位に就いた前田利長が金沢に帰還する。
同じく大老の上杉景勝も会津への帰国の途に就いた。
慶長三年三月に蒲生氏の跡を受け、越後春日山から会津若松へ百二十万石の領主として入国したものの、それから半年足らずしか在国していなかったのだ。やるべきことは山積していた。
しかし、九月に入ると、その直後から利長謀反の風聞が流れた。
九月七日、重陽の節句を祝うために大坂城に赴いていた家康の元に、五奉行の一人・増田長盛が聞き捨てならぬ噂を持ち込んだ。前田利長、浅野長吉、大野治長、土方雄久らが家康の暗殺を企んでいるというのだ。
家康は、真偽定かでないこの噂に、過敏なまでに反応した。
利家の帰国を促した当人であるにもかかわらず、掌を返したかのように加賀征伐のために兵を動かす構えを示しはじめたのだ。
十月三日には、大坂城西の丸に諸将を集め、加賀征伐の準備を命じた。
その一方で、家康は細川忠興も前田利長と結託して家康を討とうとしている、と糾弾の声をあげはじめた。
大坂屋敷の塀に矢間を切り、柵を二重に構えて戦さ支度をしているというのが家康の言い分だった。
どう考えても言いがかりにしか聞こえないが、則頼も呆れてばかりはいられなかった。
向島に居を移した当の家康から呼び出され、問責の使者として忠興の元に向かって欲しいと頼まれたからだ。
「この手の話は、大人が伝えねばならぬでな。加えて、あまり武張った者が顔をだせば、かえって細川侍従はヘソを曲げるであろう。茶数寄同士であれば、話も会うのではないか」
家康は、笑みを絶やさずそう説明する。
頼みとはいえ、事実上の命令である。断れるものではない。
「仰せの通りかと、すぐに支度致しまする」
平伏して承り、家康の許を辞した則頼であるが、当然ながら気乗りはしない。
細川忠興本人は、疑惑の根拠となった大坂屋敷を離れて既に丹後国宮津城に帰城していた。それだけでも、戦さ支度などいかに難癖であるかが判る。
わざわざ問責のためだけに、丹後まで遠出せねばならないのは億劫であった。
しかしそれ以上に、秀麗な顔に二つの向う傷を持つ細川忠興が、怒らせると何をしでかすか判らない危うさを心の内に秘めていることは、大名間では周知の事実であった。
家康は己の家臣が忠興に斬られては困るので、部外者の自分を送り込むのではないか、とさえ思う。
もっとも、実際にわずかな供廻りを従えて宮津城へ向けて出立した則頼は、次第に若き日の記憶が蘇ってくるのを感じ、年甲斐もなく興奮していた。
懐かしい緊張感は、三好実休の使番として奔走した若き日々を否応なく思い出させてくれたのだ。
(長らく御伽衆として太閤殿下の傍らに侍るばかりで、この感触を久しく忘れておったわ)
おそらく、このような使番めいた役目を果たすのは、これが最後になるとの予感が則頼にはあった。
結果、宮津城に到着した則頼は、問責の内容とは程遠い上機嫌で、家康からの口上を伝えることになった。
「早々に領国にて戦さ支度を整えよ。来春には宮津あたりで合戦に及ぼうではないか。城も戦に備えて手を入れ、徳川内府の軍勢が来るのを楽しみに待っておれ」などといった喧嘩腰の内容である。
家康に酷い言いがかりをつけられたうえ、やけに調子が良い則頼の口上を聞き、細川忠興は困惑の様子を隠さなかった。
とはいえ、既に自分に嫌疑がかけられている事実は承知しており、激昂していきなり則頼を手打ちにするようなそぶりはみせなかった。
「こちらには逆心など少しもござらぬ。必要とあれば誓紙も差し出す旨、内府に言上くだされ」
「承知仕った。確かにお伝えいたしましょう」
苦々しげな口調で発せられた忠興の返事を受け取り、則頼は無事に宮津城を後にした。
けっきょくこの後、十月二十四日には忠興は逆心など全くないことを誓う誓紙をしたため、父・細川幽斎、弟・細川興元、家老の松井康之と連署した。
この誓紙の宛先は、則頼と徳川家で忠興と親交のあった榊原康政のほか、金森長近となっている。
これを受けた家康は、細川家が前田家との親戚付き合いを断つことと、息子を人質として差し出すことを条件に細川家を許している。
一方の前田利長も、このうえは討伐の軍勢を相手に一戦を遂げるべしと息巻く家臣の突き上げに心を動かされつつも、結局は和睦の道を選んだ。
前田家の重臣である横山長知の奔走により、利家正室で賢婦人として知られた芳春院を人質として江戸に送ることで決着をみた。
前田家が人質を大坂ではなく江戸に送る時点で、事実上天下を差配しているのが家康であることはもはや誰の目にもあきらかだった。
伏見城を既に手中に収めていた家康だが、それだけでは飽き足らず、今度は大坂城西の丸に、大坂城本丸とは別に、己の在所として新たな天守を造営しはじめた。
十一月の初めから番匠や職人を大規模に動員して急がされた普請は年内にも終わった。結果、大坂城内には本丸天守と、西の丸天守の二つが並立する、ある種不思議な光景が現出することになった。
慶長五年(一六〇〇年)正月。
豊臣政権下においては、諸大名たちは大坂城に登城し年賀の挨拶を行うことが通例であった。
しかし、今年は本丸と西の丸のどちらを先に拝謁すべきか戸惑うことになった。
西の丸では家康、本丸では八歳となった秀頼とその実母の淀殿が諸大名を謁見する形となり、どの大名がどちらの天守に先に足を運んだかばかりがしばらくの間、世上の噂となった。
その中にあって、五大老の一人である上杉景勝が上洛しなかったことが波紋を広げる。
それどころか、景勝は会津にて神指城を新たに築き始めたのをはじめ、街道を広げて橋をかけるとともに、武具を揃え、兵糧を蓄え、なにより組外衆と称される牢人を大勢召し抱えているとの注進が相次いだ。
家康は逆心の疑いがあるとして、西笑承兌に「謀叛の噂が流れている」として早期の上洛を勧める手紙を書かせて送りつけたが、景勝は筆頭家老の直江兼続に返書を書かせ、拒否する姿勢を明確にした。
後世、直江状と呼ばれる返書では「一昨年の国替の後に程なく上洛して、去年の九月に帰国したところなのに、また今年の正月になって上洛せよといわれては、国の仕置をいつになったらできるのか」といった強い調子で家康の沙汰を逆に批難しており、直江兼続の書状とはいえ、景勝の思いを代弁する内容であることは明らかだった。
景勝に言わせれば、叛意の証明とされたものはすべて百二十万石の石高にふさわしい国造りのためだった。
前年の加賀征伐においては前田家が人質を出して事を収めたが、上杉家はどうやら頭を下げる気がないらしい、との風聞がたちまち広まった。
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