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(三十七)見届け人
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家康による有馬屋敷訪問からしばらく後。
太閤秀吉の死後初めて、五大老・五奉行が全員参加する会合が執り行われた。
この会合の結果に基づき、年が明けた慶長四年(一五九九年)一月四日になって、伏見城から秀吉の死が正式に公表された。
相前後して、家康のあからさまな多数派工作の話が島津義久を通じて石田三成の元に伝えられる。
三成は博多にて朝鮮からの撤兵の差配を済ませて、十二月の下旬にようやく帰還したばかりであり、畿内での諸大名の動きに一歩出遅れていた。
遅ればせながら事情を把握した三成は、大名小名の間で私的な誓詞等の取り交わしを禁じた大坂城中壁書の御掟五ヶ条を根拠として家康をとがめた。
これにより、家康による他家への訪問は則頼を最後にいったん沙汰やみとなった。
もっとも、家康がこれまで訪問した相手は五奉行の増田長盛を除けば、五十路を超えて既に隠居しているか、実質的に表舞台から退いている者ばかりである。
その中にあって則頼は既に別家を立てている嫡子・豊氏に己の所領一万石を譲った訳ではないが、やはり世間的には「豊氏の父」扱いであり、隠居同然とみられていた。
加えて、秀吉在世中の頃から家康が則頼の屋敷に何度も足を運んでいた事実があり、以前から付き合いがある相手だとの言い訳がたつ。
裏を返せば、家康としては、簡単に尻尾を掴ませず言い逃れできる相手を慎重に選んでいたことになる。
それだけに、家康がこの程度の横やりにひるんで、一度伸ばした手を引っ込めるはずもない。
次に手掛けたのは、御掟五か条により凍結状態となっていた大名間の婚姻の仲介である。
従来、秀吉の許可なく大名の間での婚姻は行えないとされていたが、いつまでもその状態のままでは済まされない。
肝心の秀吉亡き今、許可を与えられるのは大老筆頭たる自分である、というのが家康が自らを正当化する理屈であった。
亀井茲矩の娘に家康の異父妹を母に持つ松平忠清との婚姻を約したのを手始めに、有力大名に対して徳川家の縁者の娘との婚姻を次々と成立させる。
一例を挙げれば、伊達政宗の長女・五郎八姫に家康の六男である松平忠輝と、福島正則の養子・福島正之に家康の異父弟である松平康元の娘・満天姫、黒田長政に保科正直の娘・栄姫、蜂須賀至鎮に対しても小笠原秀政の娘・万姫といった具合である。
なお、万姫については自分の養女とした上で嫁がせている。
その一連の動きの中で、松平康直の娘・連姫が、やはり徳川家康の養女となった上で有馬豊氏に嫁する約束も取り交わされた。
連姫は家康からみて甥の娘にあたる。
豊氏は、他の大名と比べると身代は小さく、わずか三万石に過ぎない。
でありながら家康の声がかかったのは、昨年末に則頼が家康の訪問を受けた際の会話が実を結んだ形と言える。
これらの大名間の婚姻の動きは領地にも関わるため、秀頼成人まで領地の加増を差し止める秀吉の遺言にも抵触する懸念があった。
豊氏は前年末の則頼との合議に基づき、正月から家康の命を受けたと称して淀城の守備につくなど、いち早く親徳川の旗幟を鮮明にしていた。
そんな中、一月十日には秀吉の遺言に基づき、秀頼が大坂城に移る。
一方、政務をとるため伏見城に五大老のうち家康のみが居残り、その行動を他の大老や五奉行が掣肘することが一層難しくなる。
一月十九日。
多くの人数が秀頼に従って大坂に移り、周囲が寂しくなる中、則頼は伏見城の有馬屋敷に家康を招いた。
豊氏の婚約に対する礼を伝えたいとの思惑があったことは言うまでもない。
ただし、あらためて家康と膝詰めで話し込むようなことは憚られる時勢でもある。
あくまでも表向きは、有馬屋敷にしつらえた舞台で演じられる猿楽の観覧である。
家康以外にも、伊達政宗、最上義光、京極高次・高知兄弟、富田信高、堀秀政、蒲生秀行、田中吉政といった幅広い顔ぶれが招待されている。
調整にあたっては、則頼の人脈もさることながら、秀吉在世の頃から一種異様な情熱をもって家康に接近していた、藤堂高虎が奔走してくれたことが大きかった。
御伽衆に過ぎず、政事向きの話は何も知らないという体裁の則頼だからこそ、この時期に実現できた会合とも言える。
この会合で、何らかの密約が交わされるといった進展があった訳ではない。
単に、家康派の結束を高める一助となったに過ぎない。
しかし、家康の台頭を望まない石田三成を筆頭とする勢力が、親家康派の動きを黙っている筈もない。
大名間の婚姻を進めていた件について、一月下旬には三中老と称される堀尾吉晴、中村一氏、生駒親正、そして相国寺承兌が問責使として家康の元に送り込まれる。
しかし、いかんせん家康とは貫禄が違いすぎた。彼らはあっさりとあしらわれて追い返される始末である。
そうこうするうちに家康に同調する大名が続々と伏見に馳せ参じはじめた。
当然、徳川家の家臣も江戸から駆け付ける。
一触即発の事態に、家康は自分が優位な地位にあることを承知したうえで自ら和睦に乗り出す。
徳川家の井伊直政と豊臣家の中老・堀尾吉晴が互いの窓口となり、二月五日には家康は縁組に関する不注意を詫びる誓紙を署した。
とはいえ、一度成立した婚約が解消されたのか生きているのか、その結論は曖昧なまま残された。
二月二十九日。
これ以上の対立を望まぬ前田利家が、和睦の証として徳川家康の屋敷を訪問することになった。
玉造の自邸を出て伏見に向かった利家を、屋敷にて家康が出迎える。
その際、則頼はあたかも家康の近臣のような顔をして現場に居合わせた。
利家の家臣の中には、則頼の姿を見咎めて険しい視線を向けてくる者もいる。
則頼は柳に風と言った表情で受け流しているが、内心も同じとは限らない。
(世間からは、容易く強者に尻尾を振る犬に見えるやも知れぬ。されど、徳川内府が政争に破れるようなことがあれば、天下に儂の居場所は無い。尻尾を振るにも、身代の全てを賭けておるのじゃ)
内心で嘯く則頼であるが、無論のこと、勝手に家康の元に押しかけた訳ではない。
逆に、前もって家康から密かに召し出されていたのだ。
雄弁な家康の使者曰く。
——家康と利家は、大老同士であっても、個人的に親しい間柄でもなく、戦場で苦楽を共にした経験もない。
——織田旧臣の中枢を担った利家を出迎えて饗応するにあたっては、長年秀吉の傍近くにあって知られざる逸話も豊富に知る則頼こそ、家康の求める人材である。
もちろん、則頼に断るという選択肢はなかった。
「内府は、思いのほか儂を買ってくれておるやもしれぬぞ」
家康の伏見屋敷に向かう前、則頼は上機嫌で大膳に話を振る。
天下を動かす大老に自分が評価されているとの思いからか、いつになく浮ついた気分になっていたのかもしれない。
しかし、例によって大膳は渋い顔をみせた。
「さて。亡き太閤殿下の御伽衆を従えておると、前田様相手には押し出しがきく。ただそれだけのことかも知れませぬぞ」
この一言で、則頼も我に返る。
「相変わらず、嫌なことを言うのう。されど、案外その程度やも知れぬな」
大老同士の会合に立ち会うとなれば、御伽衆の肩書があっても商人でも町人でも誰でも良い訳ではない。大名として現役でなければその場に居合わせることはかなわない。
その意味で則頼が手ごろな存在だというのは確かだった。
浮かれている場合ではない、と則頼は表情を引き締めた。
一説では、利家は事と次第によっては家康と刺し違える覚悟であったとも伝わるが、則頼が家康の後ろから様子をうかがっていた限り、胡乱なことは何一つ起こらなかった。
むしろ則頼が驚いたのは、利家が思いのほか衰えていたことだ。
世間には伏せられているが、重い病を得ているのは確かだと思われた。
則頼は、家康に賭けた己の判断が正しかったと確信した。
もちろん、そんな思いは決して顔色には出せない。ただうつむいて神妙にしているしかなかった。
己が天下を動かす者ではない事実は、今更言うまでもない。
(されど、いま儂は、天下が動く様を間近で見届けておる)
今は亡き葛屋の豊助も、消息の知れぬ有馬四郎も、これでは足りぬとは言わぬであろうと則頼は思った。
会談において、利家は家康に対して、向島にある秀吉の別邸に入ることを勧めた。
家康の伏見屋敷が無防備に過ぎる、というのが利家の言い分だった。
向島屋敷は、家康の伏見屋敷に比べればまだ防御施設としての体裁が整っていた。
なまじ、家康に勝てると大坂方が考えるから争いの元になるのだから、もっと防備を固めよ、という意味に則頼は受け取ったが、真意のほどは判らない。
家康はにこにこと笑って利家の申し出を承知した。
三月十一日。
今度は家康が返礼として前田邸に向かうことになった。
則頼は再び、家康から依頼を受けて供をする。
前回、利家を迎えた際には同席を許されたものの、則頼が御伽衆の経験を活かして、横合いから家康に耳打ちするような場面はけっきょく一度もなかった。
従って、次は呼ばれないだろうと諦めていた則頼にとってはやや意外な成り行きである。
「御伽衆の肩書などではなく、幸運の置物ぐらいに思われておるのやも知れぬな」
則頼は苦笑しながら、大膳相手にこぼす。
「はて。さほど見栄えのするご容色とも思えませぬが」
「大膳は相変わらずじゃのう」
主従揃って首をひねるが、もちろん断るはずもない。
家康に付き従って前田邸に入った則頼は、前回と同様に、出迎える前田家の家臣が向けてくる何か言いたげな視線を感じながら、居間に通された。
利家は病床から半身を起こした姿で家康を出迎えた。
わずかな期間のうちに、もはや病状を隠せないほど容態が悪化していたのか、と則頼は内心で驚くが、表情には出さない。
何食わぬ顔で家康の後ろに控える。
その後、表書院に場所を移して、参席した家康と利家の重臣、そして集まった大名達に雑煮と吸物の振る舞いがなされた。
途中、石田三成が姿をみせて座の興が醒めるなどという一幕もあったが、ともあれ表面上は不穏な空気は治まった。
しかし、平穏な日々はわずかしか続かず、ほどなくして新たな局面を迎えることになる。
太閤秀吉の死後初めて、五大老・五奉行が全員参加する会合が執り行われた。
この会合の結果に基づき、年が明けた慶長四年(一五九九年)一月四日になって、伏見城から秀吉の死が正式に公表された。
相前後して、家康のあからさまな多数派工作の話が島津義久を通じて石田三成の元に伝えられる。
三成は博多にて朝鮮からの撤兵の差配を済ませて、十二月の下旬にようやく帰還したばかりであり、畿内での諸大名の動きに一歩出遅れていた。
遅ればせながら事情を把握した三成は、大名小名の間で私的な誓詞等の取り交わしを禁じた大坂城中壁書の御掟五ヶ条を根拠として家康をとがめた。
これにより、家康による他家への訪問は則頼を最後にいったん沙汰やみとなった。
もっとも、家康がこれまで訪問した相手は五奉行の増田長盛を除けば、五十路を超えて既に隠居しているか、実質的に表舞台から退いている者ばかりである。
その中にあって則頼は既に別家を立てている嫡子・豊氏に己の所領一万石を譲った訳ではないが、やはり世間的には「豊氏の父」扱いであり、隠居同然とみられていた。
加えて、秀吉在世中の頃から家康が則頼の屋敷に何度も足を運んでいた事実があり、以前から付き合いがある相手だとの言い訳がたつ。
裏を返せば、家康としては、簡単に尻尾を掴ませず言い逃れできる相手を慎重に選んでいたことになる。
それだけに、家康がこの程度の横やりにひるんで、一度伸ばした手を引っ込めるはずもない。
次に手掛けたのは、御掟五か条により凍結状態となっていた大名間の婚姻の仲介である。
従来、秀吉の許可なく大名の間での婚姻は行えないとされていたが、いつまでもその状態のままでは済まされない。
肝心の秀吉亡き今、許可を与えられるのは大老筆頭たる自分である、というのが家康が自らを正当化する理屈であった。
亀井茲矩の娘に家康の異父妹を母に持つ松平忠清との婚姻を約したのを手始めに、有力大名に対して徳川家の縁者の娘との婚姻を次々と成立させる。
一例を挙げれば、伊達政宗の長女・五郎八姫に家康の六男である松平忠輝と、福島正則の養子・福島正之に家康の異父弟である松平康元の娘・満天姫、黒田長政に保科正直の娘・栄姫、蜂須賀至鎮に対しても小笠原秀政の娘・万姫といった具合である。
なお、万姫については自分の養女とした上で嫁がせている。
その一連の動きの中で、松平康直の娘・連姫が、やはり徳川家康の養女となった上で有馬豊氏に嫁する約束も取り交わされた。
連姫は家康からみて甥の娘にあたる。
豊氏は、他の大名と比べると身代は小さく、わずか三万石に過ぎない。
でありながら家康の声がかかったのは、昨年末に則頼が家康の訪問を受けた際の会話が実を結んだ形と言える。
これらの大名間の婚姻の動きは領地にも関わるため、秀頼成人まで領地の加増を差し止める秀吉の遺言にも抵触する懸念があった。
豊氏は前年末の則頼との合議に基づき、正月から家康の命を受けたと称して淀城の守備につくなど、いち早く親徳川の旗幟を鮮明にしていた。
そんな中、一月十日には秀吉の遺言に基づき、秀頼が大坂城に移る。
一方、政務をとるため伏見城に五大老のうち家康のみが居残り、その行動を他の大老や五奉行が掣肘することが一層難しくなる。
一月十九日。
多くの人数が秀頼に従って大坂に移り、周囲が寂しくなる中、則頼は伏見城の有馬屋敷に家康を招いた。
豊氏の婚約に対する礼を伝えたいとの思惑があったことは言うまでもない。
ただし、あらためて家康と膝詰めで話し込むようなことは憚られる時勢でもある。
あくまでも表向きは、有馬屋敷にしつらえた舞台で演じられる猿楽の観覧である。
家康以外にも、伊達政宗、最上義光、京極高次・高知兄弟、富田信高、堀秀政、蒲生秀行、田中吉政といった幅広い顔ぶれが招待されている。
調整にあたっては、則頼の人脈もさることながら、秀吉在世の頃から一種異様な情熱をもって家康に接近していた、藤堂高虎が奔走してくれたことが大きかった。
御伽衆に過ぎず、政事向きの話は何も知らないという体裁の則頼だからこそ、この時期に実現できた会合とも言える。
この会合で、何らかの密約が交わされるといった進展があった訳ではない。
単に、家康派の結束を高める一助となったに過ぎない。
しかし、家康の台頭を望まない石田三成を筆頭とする勢力が、親家康派の動きを黙っている筈もない。
大名間の婚姻を進めていた件について、一月下旬には三中老と称される堀尾吉晴、中村一氏、生駒親正、そして相国寺承兌が問責使として家康の元に送り込まれる。
しかし、いかんせん家康とは貫禄が違いすぎた。彼らはあっさりとあしらわれて追い返される始末である。
そうこうするうちに家康に同調する大名が続々と伏見に馳せ参じはじめた。
当然、徳川家の家臣も江戸から駆け付ける。
一触即発の事態に、家康は自分が優位な地位にあることを承知したうえで自ら和睦に乗り出す。
徳川家の井伊直政と豊臣家の中老・堀尾吉晴が互いの窓口となり、二月五日には家康は縁組に関する不注意を詫びる誓紙を署した。
とはいえ、一度成立した婚約が解消されたのか生きているのか、その結論は曖昧なまま残された。
二月二十九日。
これ以上の対立を望まぬ前田利家が、和睦の証として徳川家康の屋敷を訪問することになった。
玉造の自邸を出て伏見に向かった利家を、屋敷にて家康が出迎える。
その際、則頼はあたかも家康の近臣のような顔をして現場に居合わせた。
利家の家臣の中には、則頼の姿を見咎めて険しい視線を向けてくる者もいる。
則頼は柳に風と言った表情で受け流しているが、内心も同じとは限らない。
(世間からは、容易く強者に尻尾を振る犬に見えるやも知れぬ。されど、徳川内府が政争に破れるようなことがあれば、天下に儂の居場所は無い。尻尾を振るにも、身代の全てを賭けておるのじゃ)
内心で嘯く則頼であるが、無論のこと、勝手に家康の元に押しかけた訳ではない。
逆に、前もって家康から密かに召し出されていたのだ。
雄弁な家康の使者曰く。
——家康と利家は、大老同士であっても、個人的に親しい間柄でもなく、戦場で苦楽を共にした経験もない。
——織田旧臣の中枢を担った利家を出迎えて饗応するにあたっては、長年秀吉の傍近くにあって知られざる逸話も豊富に知る則頼こそ、家康の求める人材である。
もちろん、則頼に断るという選択肢はなかった。
「内府は、思いのほか儂を買ってくれておるやもしれぬぞ」
家康の伏見屋敷に向かう前、則頼は上機嫌で大膳に話を振る。
天下を動かす大老に自分が評価されているとの思いからか、いつになく浮ついた気分になっていたのかもしれない。
しかし、例によって大膳は渋い顔をみせた。
「さて。亡き太閤殿下の御伽衆を従えておると、前田様相手には押し出しがきく。ただそれだけのことかも知れませぬぞ」
この一言で、則頼も我に返る。
「相変わらず、嫌なことを言うのう。されど、案外その程度やも知れぬな」
大老同士の会合に立ち会うとなれば、御伽衆の肩書があっても商人でも町人でも誰でも良い訳ではない。大名として現役でなければその場に居合わせることはかなわない。
その意味で則頼が手ごろな存在だというのは確かだった。
浮かれている場合ではない、と則頼は表情を引き締めた。
一説では、利家は事と次第によっては家康と刺し違える覚悟であったとも伝わるが、則頼が家康の後ろから様子をうかがっていた限り、胡乱なことは何一つ起こらなかった。
むしろ則頼が驚いたのは、利家が思いのほか衰えていたことだ。
世間には伏せられているが、重い病を得ているのは確かだと思われた。
則頼は、家康に賭けた己の判断が正しかったと確信した。
もちろん、そんな思いは決して顔色には出せない。ただうつむいて神妙にしているしかなかった。
己が天下を動かす者ではない事実は、今更言うまでもない。
(されど、いま儂は、天下が動く様を間近で見届けておる)
今は亡き葛屋の豊助も、消息の知れぬ有馬四郎も、これでは足りぬとは言わぬであろうと則頼は思った。
会談において、利家は家康に対して、向島にある秀吉の別邸に入ることを勧めた。
家康の伏見屋敷が無防備に過ぎる、というのが利家の言い分だった。
向島屋敷は、家康の伏見屋敷に比べればまだ防御施設としての体裁が整っていた。
なまじ、家康に勝てると大坂方が考えるから争いの元になるのだから、もっと防備を固めよ、という意味に則頼は受け取ったが、真意のほどは判らない。
家康はにこにこと笑って利家の申し出を承知した。
三月十一日。
今度は家康が返礼として前田邸に向かうことになった。
則頼は再び、家康から依頼を受けて供をする。
前回、利家を迎えた際には同席を許されたものの、則頼が御伽衆の経験を活かして、横合いから家康に耳打ちするような場面はけっきょく一度もなかった。
従って、次は呼ばれないだろうと諦めていた則頼にとってはやや意外な成り行きである。
「御伽衆の肩書などではなく、幸運の置物ぐらいに思われておるのやも知れぬな」
則頼は苦笑しながら、大膳相手にこぼす。
「はて。さほど見栄えのするご容色とも思えませぬが」
「大膳は相変わらずじゃのう」
主従揃って首をひねるが、もちろん断るはずもない。
家康に付き従って前田邸に入った則頼は、前回と同様に、出迎える前田家の家臣が向けてくる何か言いたげな視線を感じながら、居間に通された。
利家は病床から半身を起こした姿で家康を出迎えた。
わずかな期間のうちに、もはや病状を隠せないほど容態が悪化していたのか、と則頼は内心で驚くが、表情には出さない。
何食わぬ顔で家康の後ろに控える。
その後、表書院に場所を移して、参席した家康と利家の重臣、そして集まった大名達に雑煮と吸物の振る舞いがなされた。
途中、石田三成が姿をみせて座の興が醒めるなどという一幕もあったが、ともあれ表面上は不穏な空気は治まった。
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