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(四十二)三田二万石
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十月十五日。
石田方についた大名八十七家の所領が没収され、同時に福島正則、浅野幸長、池田輝政、黒田長政、加藤清正、加藤義明ら主だった諸大名への論功行賞が行われた。
ただし則頼のような小大名は後回しなのか、この日は特に音沙汰がなかった。
(さて、儂は味方したとはいえ戦さ働きは何もしておらぬ。何も無しとはならぬであろうが、果たして加増があるものやら)
あまり期待はするまい、と自らに言い聞かせる則頼である。
年が明けて慶長六年(一六〇一年)。
一月十五日に家康をはじめとする諸大名が豊臣秀頼に新年の挨拶を行った。
その三日後の一月十八日になって、則頼は大坂城に腰を据える家康から呼び出しを受けた。
(論功行賞の順番がようやく回ってきたのかの)
家康は吝嗇であるとのとかくの噂を思い出しながら、則頼は広間にて家康に対面する。
「待たせてしもうたの。有馬法印殿の本貫は、摂州有馬郡の三田と聞いておるが、相違ないかな」
勝者の余裕で、福々しい笑顔で家康が問う。
「はっ。赤松有馬の本貫地であること、確かにございます」
則頼は反射的にそう応じたものの、わきの下に汗をかく思いである。
有馬郡は分郡守護である有馬家からみればまさしく本貫地ではあるが、その庶流に過ぎない則頼にとっては、直接の縁はない場所だ。
それらの事情を、家康はどれだけ理解しているのだろうか。
「うむ。では、有馬殿は有馬家所縁の三田二万石じゃ」
関ヶ原以前に三田を領していた山崎家盛は、西軍に与したことから昨年の末に因幡国若桜への国替処分となっていた。
家盛が切腹を申し付けられずに済んだのは、池田輝政と姻戚関係にあったためとも言われた。
「父祖の地をお与えいただけるとは、いかなる加増にも勝る望外の喜びにござる」
内心の動揺を隠すかのように、則頼は素早く頭を深々と下げた。
秀吉の元では一言一句に面白みを求められていたが、家康相手にはそのような芸当は不要である。
とはいえ習い性なのか、つい言い回しが大袈裟になってしまう。
喜びの気持ちに偽りはない。
一万五千石から二万石ではさほどの加増とは言えないが、国替といってもたかだか五里程度の距離であり、慣れ親しんだ三津田や淡河から離れる感覚は薄い。
「そうじゃ、そういえば法印殿の嫡子・有馬玄蕃は丹波福知山六万石への移封であったな」
家康は妙に上機嫌で、自分で決めた事をさも今思い出したとばかりに口の端にのぼらせた。
現在の豊氏の所領は遠江横須賀三万石であるから、石高は倍増となる。
豊氏は既に加増の沙汰を前月の十二月十三日に受けており、その報せは則頼にも届いていた。
杭瀬川の戦いでは稲次右近が敵の兜首をとった程度で、負け戦となったため武功としては弱い。しかし兵は退いたものの、一貫して徳川方についた評価は揺らがなかったのだろう。
則頼はつい癖で何か軽口を言いかけたが、ぐっとこらえる。
「はっ。既にせがれからは聞いておりまする。重ねて、ありがたき幸せにござる」
おとなしく再び平伏しながら、則頼は脳裏に地図を思い浮かべる。
福知山は三田からはおよそ十九里ほど北に位置する。丹波国と摂津国は隣国ではあるが、三田と福知山は直接には隣り合ってはいない。
(これも何かの縁ということじゃ)
平伏したまま、則頼は厚かましく申し出てみることに決める。
「ありがたきついでに、一つお願いの儀がござる」
「なんであろう。茶器でも所望なされるか」
珍しく、冗談めかして家康が笑う。
「それもよろしゅうござるが、せっかく頂戴した三田二万石なれど、それがしも歳も歳でござれば、それがしが亡き後の始末も考えておきたく存じまする」
「ほう。どのような考えかな」
「せがれ玄蕃に、飛び地として三田の地を継がせることをお許しいただきたいのでござる」
「なんとも気の早い。法印殿は瓜畑遊びの折と変わらず、万事そつのないことよ」
名護屋城の瓜畑遊びで、有馬の湯の宿坊の亭主を演じた則頼の姿を思い出したのか、家康は笑って承諾した。
二つに分かれている有馬家をいずれ一つにまとめる、とはすなわち、こののち世が乱れても敵味方に分かれて家名の存続を図るような策は弄しない、との意思表示でもある。
もちろん、一族を挙げて家康に味方する、との意味もそこには含まれていた。
新たな領地を得た大名達はこぞって町づくりに精を出していたが、三田の地に入封した則頼は急がなかった。
そもそも、二万石では動かせる人数にも限りがある。
その代わり、自分の寺がなくては格好がつかぬとばかり、手始めに新たに三田の西に梅林寺を開いた。
名に相違して寺の周囲に梅林はなかったため、あえて梅の苗木を植えさせたほどだ。
ただ、有馬家の菩提寺として定めた天正寺と、亡き妻の振が弔われている長松寺をどうするかについては、決めかねるところがあった。
「その儀なれば、この寺にお移しされるおつもりではなかったのですか」
落成して間もない梅林寺の境内をそぞろ歩く則頼の供をしながら、吉田大膳がけげんそうに問うた。
足を止めた則頼は唇を突き出す様な思案顔になって首を横に振る。
「いずれはな。いまは急く事もあるまい」
菩提寺を移す前に、則頼には梅林寺の建立と並行して手掛けている仕事があった。
それは、領内の寺社や豪農などが所有している有馬家の系図を提出させることだ。
「亡き太閤殿下の播磨討ち入れの折の混乱で途切れてしまった、有馬家の系図を正しく書き残すため」というのが名目である。
実のところ、祖父・則景の代に三田から三津田に移り住んだとの昔語りがどこまで本当の話なのか、則頼にも確証はない。
(身内である儂ですら判らぬ話ゆえ、致し方なし)
既に、三田の地には則頼よりも年長で往時の故実を知る有識者は誰もいなくなっていた。
領内の調査には、幸助が差配する連雀も密かに働いている。
その成果として、既にいくつかの系図が三田城の書院に運ばれている。
経年による傷み具合などにより、単に書き足すだけでなく、補修したり、新たに描き起こす必要もある。
近習や祐筆だけでなく、葛屋が京や堺から呼び寄せた職人が書院にこもって作業に従事している。
三田城は、天正三年(一五七五年)に有馬村秀が切腹に追い込まれた後、荒木村重配下の安都部弥市郎が城主となったとされる。
安都部弥市郎は荒木平太夫重堅と名を改めたが、村重が信長に叛くと秀吉に帰参して、さらに木下姓を名乗るようになる。
その後、天正十年(一五八二年)の本能寺の変後、一時は明智光秀につきながら秀吉に降った山崎片家が三田城に入り、片家の後を継いだ山崎家盛が則頼の前の城主となる。
幾度か城主が変わる中、荒木村重に滅ぼされてしまった家の系図までまとめる余裕も必要性もなかったのか、確認できた有馬家の系図はどれも有馬村秀が最後の当主となっていた。
加えて、かつて三田城で則頼の面倒をみてくれた有馬四郎なる人物の名は、系図のどこにも見当たらなかった。
有馬村秀の後を継いだのが有馬国秀という名であることは則頼も伝え聞いているが、国秀が村秀の子なのか弟なのか、有馬四郎と国秀が同一人物なのかどうかすら確かなことは判らなかった。
けっきょく有馬四郎が何者であったのか判らないとは、則頼にとって思いがけない顛末であった。
(あれは、儂がみた幻想だったのか)
今となっては、確かめようもなかった。
また、三田は元々、「みた」と読まれていたが、秀吉の播磨侵攻時に地元出身者以外が多くやってきたためか、「さんだ」読みが混在するようになっていた。
則頼は赴任早々、「さんだ」読みを正式な呼び名とする触れを出した。
「三津田と三田、みつだとみたでは紛らわしゅうて、いらぬ郷心が付きかねぬでな」
為政者の気まぐれで、地名など簡単に変えられてしまう時代である。
とはいえ、「有馬郡三田は父祖の地なれば、いかなる加増にも勝る喜び」などと家康相手に口にした割には、その地名を自らあっさり変えてしまうあたりに、則頼の本音が見え隠れしている。
他にも則頼が吉田大膳にも漏らさず、密かに企図していることがある。
それはすなわち、有馬郡の分郡守護であった有馬村秀の系譜の痕跡を抹消することである。
かつて有馬月公などと称して、分郡守護の有馬月江との混同を招こうとした父の手管を踏襲するのは不本意ではあったが、いまさら後には引けない。
なにしろ則頼は、家康から「かつての有馬郡の分郡守護の血筋である」との理由をもって三田の地を任されているのだ。
であるならば、その事実を喧伝して領民支配を図らねばならない立場にあった。
ここにきて簒奪だの僭称だのとの噂が立てば、家康にいらぬ腹を探られかねない。
(あるいは、こうして苦労することまで徳川内府は見越していたのか)
家康にしてやられたとの思いは残るものの、則頼はこれも定めと腹をくくり、この秘事を墓場まで持っていく覚悟であった。
葛屋の幸助には、有馬郡守護累代の墓所などが残っていないかも調査させている。
存在が確認できた場合は、新たに立派な墓を建て直すと称して密かに破却するのが狙いである。
このように、分郡守護の有馬家の痕跡を消すことに則頼が執心する間に、慶長六年は暮れていった。
なおこの時期、則頼には四男が誕生している。
この四男は後に大学豊長と名乗ることとなる。
母親は三男である九郎次郎則次を生んだ小野氏とは別の側室とされるが、名は定かではない。いずれにせよ、なんら政略に関わずに迎えられた身分の低い女性であろう。
慶事ではあるが、則頼とは孫ほどに年の離れた四男坊である。
さすがの則頼も、嬉しさよりも気恥ずかしさのほうが勝ったかもしれない。
ただいずれにせよ、三男同様、この四男にも三田藩を継がせるつもりは毛頭なかった。
慶長七年(一六〇二年)。
則頼は年明けから風邪を引いた。
元々身体が頑健な性質ではない。
かつて九州まで赴いた時も、帰路に体調を崩したこともある。
とりわけ、三田で初めて迎えた底冷えする冬の寒さが堪えたものと思われた。
(淡河からさほど離れてもおらぬのに、寒暖、いや、寒さばかりがここまで違うものか)
老齢のせいにしたくはなかったが、強がりを言える状況でもなかった。
しかし、思いのほか症状が長引き、やがて春を迎えても則頼の体調は戻らなかった。
そろそろ覚悟を決めるときが来たのだ、と則頼は悟る。
遺言を残さねばならぬ。そう思った。
夏を迎える前、やや体調が戻った頃合いを見計らって、則頼は重臣を寝所に集めた。
「かねてより、当家の跡継ぎは玄蕃と定めておる。儂の死後は、三田藩を飛び地として相続させる旨、内府様にも内諾を得ておる故、くれぐれも相違なく取り計らうようにいたせ」
「御家を保つためには、あえて別家に分けるのも手管のうちと、かつて仰られていたかと存じますが」
吉田大膳が首を傾げながら問う。
「それは、天下の行く末が見えぬ時の話よ」
則頼は薄く笑った。
もはや、徳川が豊臣に成り代わって天下を治める構図が、則頼の目にははっきりと映っていた。
敢えて家を割り、両天秤にかける必要は最早ない。
「豊臣は行けませぬか」
有馬重頼が直截な物言いで問う。
「仮に、ここから豊臣がこの趨勢をひっくり返せるのであれば、儂の目も節穴というものであろうよ」
太閤殿下が健在の頃であればともかく、と言いかけた則頼は、ふと九十九髪茄子の存在を思い出した。
秀吉亡き後、茶席などでは一度も用いることなく、今では三田城の宝物蔵の奥深くに死蔵されている。
自分の死後、あれを有馬家の元に置いておくべきではない。
そんな気がした。だが、なぜそう思うのかうまく考えがまとまらず、遺言として言葉に出来ない。
(太閤殿下ご本人にお返しできぬ以上、豊臣家に献上するしかないのじゃが)
やむを得ぬ。あの世で自分で殿下に返せばよい。
殿下であればきっと、儂の不義理に悪態をつきながらも笑い飛ばしてくれるであろう。
則頼が脳裏に描く秀吉は、いつしか老醜を晒した晩年の姿ではなく、はじめて出会った頃の、小柄な体躯に精気をみなぎらせていた姿になっていた。
我が主は、打てば響く太鼓ならぬ太閤にして、儂はその太鼓持ち。それが我が生涯。
「有馬の坊主のてんごうはつまらんなぁー」
在りし日の秀吉の大音声が耳に蘇るような気がしているうちに、則頼の思考はとりとめのない領域へと落ちていった。
慶長七年(一六〇二年)七月二十八日、有馬則頼・没。享年七十歳。
その亡骸は自らが建立した菩提寺である天正寺に埋葬された。
戒名は「梅林院殿剱甫宗智大居士」である。
則頼の遺領は、生前の望みどおり福知山の有馬豊氏が継ぐことが家康に認められた。
都合八万石となった豊氏は、大坂の陣の後、久留米への加増転封の沙汰を受けて久留米藩二十一万石の初代藩主となる。
口さがない人々からは、大した働きもないのに大幅な加増を得た豊氏の運の良さを皮肉られることになるが、内情を知る当の豊氏としては喜んでばかりもいられないものがあった。
元々豊氏の配下は渡瀬繁詮の遺臣である横須賀衆と、福知山移封後に召し抱えた丹波衆を中心に構成されていた。
ただでさえ複雑であるところに則頼の遺領を継いだことで、梅林公御代衆と呼ばれる則頼遺臣団も豊氏の配下として加わることになる。
さらに、加増分に応じて久留米においても家臣を増やした結果、四つの派閥が生まれることになった。
なかでも、本家たる則頼に仕えていた吉田大膳や有馬重頼ら梅林公御代衆の子息が、別家を立てた筈の豊氏の元で傍流扱いされることに不満を募らせるのは避けられなかった。
そのため、代々の有馬家当主は家中統制に苦心することになる。
さすがにこればかりは、則頼にも見通せていなかった事態であろう。
しかしそれでも、久留米藩は様々な逆境を乗り越えて、改易されることなく幕末まで存続することになる。
なお、三男・則次は残念ながら慶長十九年(一六一四年)に早世したと伝わる以外、なにも判らない。
四男・豊長は豊氏の元で養育され、一時は人質として江戸に送られたことが縁となり、知行三千石の旗本として徳川秀忠に仕えた。
また、石野氏満に嫁いだ二女・吉も則頼の血脈を残した。
その子孫は後に嗣子の絶えた久留米藩の有馬家の養子として藩主に迎えられ、同藩が幕末まで大名家として存続する一助となった。
いま則頼は、天正寺から改葬され、豊氏が建立した久留米の梅林寺に眠る。
天正寺は廃寺となり、周囲を彩った梅林も含めて往時の痕跡を辿ることは難しい。
ただし地図のうえではいまも「字天正寺」として地名が残り、寺領の形をうかがい知ることができる。
決して武芸に秀でていた訳でもなく、目覚ましい軍功もない生涯ではあった。
しかしながら、従うべき相手を見誤らず、一度として所領を失うことなくしたたかに戦国乱世を乗り切った則頼もまた、秀吉が見込んだ勇士であった。
(おわり)
石田方についた大名八十七家の所領が没収され、同時に福島正則、浅野幸長、池田輝政、黒田長政、加藤清正、加藤義明ら主だった諸大名への論功行賞が行われた。
ただし則頼のような小大名は後回しなのか、この日は特に音沙汰がなかった。
(さて、儂は味方したとはいえ戦さ働きは何もしておらぬ。何も無しとはならぬであろうが、果たして加増があるものやら)
あまり期待はするまい、と自らに言い聞かせる則頼である。
年が明けて慶長六年(一六〇一年)。
一月十五日に家康をはじめとする諸大名が豊臣秀頼に新年の挨拶を行った。
その三日後の一月十八日になって、則頼は大坂城に腰を据える家康から呼び出しを受けた。
(論功行賞の順番がようやく回ってきたのかの)
家康は吝嗇であるとのとかくの噂を思い出しながら、則頼は広間にて家康に対面する。
「待たせてしもうたの。有馬法印殿の本貫は、摂州有馬郡の三田と聞いておるが、相違ないかな」
勝者の余裕で、福々しい笑顔で家康が問う。
「はっ。赤松有馬の本貫地であること、確かにございます」
則頼は反射的にそう応じたものの、わきの下に汗をかく思いである。
有馬郡は分郡守護である有馬家からみればまさしく本貫地ではあるが、その庶流に過ぎない則頼にとっては、直接の縁はない場所だ。
それらの事情を、家康はどれだけ理解しているのだろうか。
「うむ。では、有馬殿は有馬家所縁の三田二万石じゃ」
関ヶ原以前に三田を領していた山崎家盛は、西軍に与したことから昨年の末に因幡国若桜への国替処分となっていた。
家盛が切腹を申し付けられずに済んだのは、池田輝政と姻戚関係にあったためとも言われた。
「父祖の地をお与えいただけるとは、いかなる加増にも勝る望外の喜びにござる」
内心の動揺を隠すかのように、則頼は素早く頭を深々と下げた。
秀吉の元では一言一句に面白みを求められていたが、家康相手にはそのような芸当は不要である。
とはいえ習い性なのか、つい言い回しが大袈裟になってしまう。
喜びの気持ちに偽りはない。
一万五千石から二万石ではさほどの加増とは言えないが、国替といってもたかだか五里程度の距離であり、慣れ親しんだ三津田や淡河から離れる感覚は薄い。
「そうじゃ、そういえば法印殿の嫡子・有馬玄蕃は丹波福知山六万石への移封であったな」
家康は妙に上機嫌で、自分で決めた事をさも今思い出したとばかりに口の端にのぼらせた。
現在の豊氏の所領は遠江横須賀三万石であるから、石高は倍増となる。
豊氏は既に加増の沙汰を前月の十二月十三日に受けており、その報せは則頼にも届いていた。
杭瀬川の戦いでは稲次右近が敵の兜首をとった程度で、負け戦となったため武功としては弱い。しかし兵は退いたものの、一貫して徳川方についた評価は揺らがなかったのだろう。
則頼はつい癖で何か軽口を言いかけたが、ぐっとこらえる。
「はっ。既にせがれからは聞いておりまする。重ねて、ありがたき幸せにござる」
おとなしく再び平伏しながら、則頼は脳裏に地図を思い浮かべる。
福知山は三田からはおよそ十九里ほど北に位置する。丹波国と摂津国は隣国ではあるが、三田と福知山は直接には隣り合ってはいない。
(これも何かの縁ということじゃ)
平伏したまま、則頼は厚かましく申し出てみることに決める。
「ありがたきついでに、一つお願いの儀がござる」
「なんであろう。茶器でも所望なされるか」
珍しく、冗談めかして家康が笑う。
「それもよろしゅうござるが、せっかく頂戴した三田二万石なれど、それがしも歳も歳でござれば、それがしが亡き後の始末も考えておきたく存じまする」
「ほう。どのような考えかな」
「せがれ玄蕃に、飛び地として三田の地を継がせることをお許しいただきたいのでござる」
「なんとも気の早い。法印殿は瓜畑遊びの折と変わらず、万事そつのないことよ」
名護屋城の瓜畑遊びで、有馬の湯の宿坊の亭主を演じた則頼の姿を思い出したのか、家康は笑って承諾した。
二つに分かれている有馬家をいずれ一つにまとめる、とはすなわち、こののち世が乱れても敵味方に分かれて家名の存続を図るような策は弄しない、との意思表示でもある。
もちろん、一族を挙げて家康に味方する、との意味もそこには含まれていた。
新たな領地を得た大名達はこぞって町づくりに精を出していたが、三田の地に入封した則頼は急がなかった。
そもそも、二万石では動かせる人数にも限りがある。
その代わり、自分の寺がなくては格好がつかぬとばかり、手始めに新たに三田の西に梅林寺を開いた。
名に相違して寺の周囲に梅林はなかったため、あえて梅の苗木を植えさせたほどだ。
ただ、有馬家の菩提寺として定めた天正寺と、亡き妻の振が弔われている長松寺をどうするかについては、決めかねるところがあった。
「その儀なれば、この寺にお移しされるおつもりではなかったのですか」
落成して間もない梅林寺の境内をそぞろ歩く則頼の供をしながら、吉田大膳がけげんそうに問うた。
足を止めた則頼は唇を突き出す様な思案顔になって首を横に振る。
「いずれはな。いまは急く事もあるまい」
菩提寺を移す前に、則頼には梅林寺の建立と並行して手掛けている仕事があった。
それは、領内の寺社や豪農などが所有している有馬家の系図を提出させることだ。
「亡き太閤殿下の播磨討ち入れの折の混乱で途切れてしまった、有馬家の系図を正しく書き残すため」というのが名目である。
実のところ、祖父・則景の代に三田から三津田に移り住んだとの昔語りがどこまで本当の話なのか、則頼にも確証はない。
(身内である儂ですら判らぬ話ゆえ、致し方なし)
既に、三田の地には則頼よりも年長で往時の故実を知る有識者は誰もいなくなっていた。
領内の調査には、幸助が差配する連雀も密かに働いている。
その成果として、既にいくつかの系図が三田城の書院に運ばれている。
経年による傷み具合などにより、単に書き足すだけでなく、補修したり、新たに描き起こす必要もある。
近習や祐筆だけでなく、葛屋が京や堺から呼び寄せた職人が書院にこもって作業に従事している。
三田城は、天正三年(一五七五年)に有馬村秀が切腹に追い込まれた後、荒木村重配下の安都部弥市郎が城主となったとされる。
安都部弥市郎は荒木平太夫重堅と名を改めたが、村重が信長に叛くと秀吉に帰参して、さらに木下姓を名乗るようになる。
その後、天正十年(一五八二年)の本能寺の変後、一時は明智光秀につきながら秀吉に降った山崎片家が三田城に入り、片家の後を継いだ山崎家盛が則頼の前の城主となる。
幾度か城主が変わる中、荒木村重に滅ぼされてしまった家の系図までまとめる余裕も必要性もなかったのか、確認できた有馬家の系図はどれも有馬村秀が最後の当主となっていた。
加えて、かつて三田城で則頼の面倒をみてくれた有馬四郎なる人物の名は、系図のどこにも見当たらなかった。
有馬村秀の後を継いだのが有馬国秀という名であることは則頼も伝え聞いているが、国秀が村秀の子なのか弟なのか、有馬四郎と国秀が同一人物なのかどうかすら確かなことは判らなかった。
けっきょく有馬四郎が何者であったのか判らないとは、則頼にとって思いがけない顛末であった。
(あれは、儂がみた幻想だったのか)
今となっては、確かめようもなかった。
また、三田は元々、「みた」と読まれていたが、秀吉の播磨侵攻時に地元出身者以外が多くやってきたためか、「さんだ」読みが混在するようになっていた。
則頼は赴任早々、「さんだ」読みを正式な呼び名とする触れを出した。
「三津田と三田、みつだとみたでは紛らわしゅうて、いらぬ郷心が付きかねぬでな」
為政者の気まぐれで、地名など簡単に変えられてしまう時代である。
とはいえ、「有馬郡三田は父祖の地なれば、いかなる加増にも勝る喜び」などと家康相手に口にした割には、その地名を自らあっさり変えてしまうあたりに、則頼の本音が見え隠れしている。
他にも則頼が吉田大膳にも漏らさず、密かに企図していることがある。
それはすなわち、有馬郡の分郡守護であった有馬村秀の系譜の痕跡を抹消することである。
かつて有馬月公などと称して、分郡守護の有馬月江との混同を招こうとした父の手管を踏襲するのは不本意ではあったが、いまさら後には引けない。
なにしろ則頼は、家康から「かつての有馬郡の分郡守護の血筋である」との理由をもって三田の地を任されているのだ。
であるならば、その事実を喧伝して領民支配を図らねばならない立場にあった。
ここにきて簒奪だの僭称だのとの噂が立てば、家康にいらぬ腹を探られかねない。
(あるいは、こうして苦労することまで徳川内府は見越していたのか)
家康にしてやられたとの思いは残るものの、則頼はこれも定めと腹をくくり、この秘事を墓場まで持っていく覚悟であった。
葛屋の幸助には、有馬郡守護累代の墓所などが残っていないかも調査させている。
存在が確認できた場合は、新たに立派な墓を建て直すと称して密かに破却するのが狙いである。
このように、分郡守護の有馬家の痕跡を消すことに則頼が執心する間に、慶長六年は暮れていった。
なおこの時期、則頼には四男が誕生している。
この四男は後に大学豊長と名乗ることとなる。
母親は三男である九郎次郎則次を生んだ小野氏とは別の側室とされるが、名は定かではない。いずれにせよ、なんら政略に関わずに迎えられた身分の低い女性であろう。
慶事ではあるが、則頼とは孫ほどに年の離れた四男坊である。
さすがの則頼も、嬉しさよりも気恥ずかしさのほうが勝ったかもしれない。
ただいずれにせよ、三男同様、この四男にも三田藩を継がせるつもりは毛頭なかった。
慶長七年(一六〇二年)。
則頼は年明けから風邪を引いた。
元々身体が頑健な性質ではない。
かつて九州まで赴いた時も、帰路に体調を崩したこともある。
とりわけ、三田で初めて迎えた底冷えする冬の寒さが堪えたものと思われた。
(淡河からさほど離れてもおらぬのに、寒暖、いや、寒さばかりがここまで違うものか)
老齢のせいにしたくはなかったが、強がりを言える状況でもなかった。
しかし、思いのほか症状が長引き、やがて春を迎えても則頼の体調は戻らなかった。
そろそろ覚悟を決めるときが来たのだ、と則頼は悟る。
遺言を残さねばならぬ。そう思った。
夏を迎える前、やや体調が戻った頃合いを見計らって、則頼は重臣を寝所に集めた。
「かねてより、当家の跡継ぎは玄蕃と定めておる。儂の死後は、三田藩を飛び地として相続させる旨、内府様にも内諾を得ておる故、くれぐれも相違なく取り計らうようにいたせ」
「御家を保つためには、あえて別家に分けるのも手管のうちと、かつて仰られていたかと存じますが」
吉田大膳が首を傾げながら問う。
「それは、天下の行く末が見えぬ時の話よ」
則頼は薄く笑った。
もはや、徳川が豊臣に成り代わって天下を治める構図が、則頼の目にははっきりと映っていた。
敢えて家を割り、両天秤にかける必要は最早ない。
「豊臣は行けませぬか」
有馬重頼が直截な物言いで問う。
「仮に、ここから豊臣がこの趨勢をひっくり返せるのであれば、儂の目も節穴というものであろうよ」
太閤殿下が健在の頃であればともかく、と言いかけた則頼は、ふと九十九髪茄子の存在を思い出した。
秀吉亡き後、茶席などでは一度も用いることなく、今では三田城の宝物蔵の奥深くに死蔵されている。
自分の死後、あれを有馬家の元に置いておくべきではない。
そんな気がした。だが、なぜそう思うのかうまく考えがまとまらず、遺言として言葉に出来ない。
(太閤殿下ご本人にお返しできぬ以上、豊臣家に献上するしかないのじゃが)
やむを得ぬ。あの世で自分で殿下に返せばよい。
殿下であればきっと、儂の不義理に悪態をつきながらも笑い飛ばしてくれるであろう。
則頼が脳裏に描く秀吉は、いつしか老醜を晒した晩年の姿ではなく、はじめて出会った頃の、小柄な体躯に精気をみなぎらせていた姿になっていた。
我が主は、打てば響く太鼓ならぬ太閤にして、儂はその太鼓持ち。それが我が生涯。
「有馬の坊主のてんごうはつまらんなぁー」
在りし日の秀吉の大音声が耳に蘇るような気がしているうちに、則頼の思考はとりとめのない領域へと落ちていった。
慶長七年(一六〇二年)七月二十八日、有馬則頼・没。享年七十歳。
その亡骸は自らが建立した菩提寺である天正寺に埋葬された。
戒名は「梅林院殿剱甫宗智大居士」である。
則頼の遺領は、生前の望みどおり福知山の有馬豊氏が継ぐことが家康に認められた。
都合八万石となった豊氏は、大坂の陣の後、久留米への加増転封の沙汰を受けて久留米藩二十一万石の初代藩主となる。
口さがない人々からは、大した働きもないのに大幅な加増を得た豊氏の運の良さを皮肉られることになるが、内情を知る当の豊氏としては喜んでばかりもいられないものがあった。
元々豊氏の配下は渡瀬繁詮の遺臣である横須賀衆と、福知山移封後に召し抱えた丹波衆を中心に構成されていた。
ただでさえ複雑であるところに則頼の遺領を継いだことで、梅林公御代衆と呼ばれる則頼遺臣団も豊氏の配下として加わることになる。
さらに、加増分に応じて久留米においても家臣を増やした結果、四つの派閥が生まれることになった。
なかでも、本家たる則頼に仕えていた吉田大膳や有馬重頼ら梅林公御代衆の子息が、別家を立てた筈の豊氏の元で傍流扱いされることに不満を募らせるのは避けられなかった。
そのため、代々の有馬家当主は家中統制に苦心することになる。
さすがにこればかりは、則頼にも見通せていなかった事態であろう。
しかしそれでも、久留米藩は様々な逆境を乗り越えて、改易されることなく幕末まで存続することになる。
なお、三男・則次は残念ながら慶長十九年(一六一四年)に早世したと伝わる以外、なにも判らない。
四男・豊長は豊氏の元で養育され、一時は人質として江戸に送られたことが縁となり、知行三千石の旗本として徳川秀忠に仕えた。
また、石野氏満に嫁いだ二女・吉も則頼の血脈を残した。
その子孫は後に嗣子の絶えた久留米藩の有馬家の養子として藩主に迎えられ、同藩が幕末まで大名家として存続する一助となった。
いま則頼は、天正寺から改葬され、豊氏が建立した久留米の梅林寺に眠る。
天正寺は廃寺となり、周囲を彩った梅林も含めて往時の痕跡を辿ることは難しい。
ただし地図のうえではいまも「字天正寺」として地名が残り、寺領の形をうかがい知ることができる。
決して武芸に秀でていた訳でもなく、目覚ましい軍功もない生涯ではあった。
しかしながら、従うべき相手を見誤らず、一度として所領を失うことなくしたたかに戦国乱世を乗り切った則頼もまた、秀吉が見込んだ勇士であった。
(おわり)
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