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(三十)越前討ち入れ
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天正三年(一五七五年)五月二十一日。
三河国の長篠城に攻め寄せた武田勝頼勢と、後詰として駆け付けた織田・徳川勢により、設楽原の地にて大規模な野戦が行われた。
信長は、鉄砲の集中運用によって武田勢に痛撃を与えて撃破したと後世に語り継がれる大勝を得た。
この結果、大規模な軍勢を対武田のために張り付けておく必要がなくなった。
八月になって、員昌の元に越前の討ち入れの陣触れが回ってきた。
一揆勢の手に落ちた越前を奪還する機が熟したと言える。
「御屋形様は、いよいよ越前に本腰を入れることをお決めになられたか」
新庄城にて、信長からの軍役を課す旨の書状を読んだ員昌が、遠い目になって呟く。
前年以来、境目にある木目城は一揆勢に奪われたままになっている。
朝倉義景なき後の越前は、後を託された旧朝倉の将同士の不和に一向一揆が付け込む形で手の付けられない騒乱となった。
主を裏切り、信長に下って命ながらえたはずの旧朝倉家臣の多くが、この騒乱で討たれ、既にこの世から姿を消していた。
これから行われる織田勢による再度の越前討ち入れが成功裡に終われば、もはや扱いが面倒な旧朝倉家臣もおらず、遠慮なく織田の家臣団に領地を配分できるだろう。
(丁寧とは言い難かった先の越前仕置も、もしや御屋形様は最初からこうなることを見越していたのか)
員昌としては、そう勘繰りたくもなる。
そして、決して他人事ではないとの思いもまた強くなる。
一揆勢を前に木目城を捨てて逃げ出した挙句、捕縛されて敢えない最期を遂げた樋口直房のことが脳裏から離れない。
員昌が今一つ気乗りしないまま出陣の準備を進めているところに、員昌同様に出陣を命じられた打下城の林与次左衛門が、手勢を率いて新庄城に立ち寄った。
「よろしゅう頼みまするぞ。それがし、陸の戦は得手ではありませぬからな。丹波守殿が頼りにござる」
与次左衛門は戦さが始まる前から、どこか憔悴してみえた。
「何を弱気なこと申される。どこか、身体の具合でも悪うござるか」
員昌は思わず心配になって尋ねる。
口にこそ出さないが、与次左衛門も員昌と同じように、越前衆同様に自分も使い捨てにされるとの懸念が脳裏から離れないのだろうか。
「いや、なに。このところ湖の稼ぎが思うに任せませぬでな。その気鬱が顔に出ておったのでしょう」
お恥ずかしいことで、と与次左衛門は愛想笑いを浮かべた。
聞けば、湖には与次左衛門のような湖賊が幾家もある。
しかし、比叡山焼き討ち後に坂本城を与えられて志賀郡を領する明智光秀は、もっぱら堅田衆の棟梁・猪飼野昇貞に肩入れしているのだという。
「戦さがなければ、舟の荷運びも増えるのでは」
「湖の周りに戦さが耐えては、却って稼ぎは減りまする。加えて、相手が明智十兵衛様の肝煎となれば、これがどうにも分が悪く、上手く行かぬのですよ」
同じ一郡の支配を命じられていても、足利義昭を信長に引き合わせて上洛を成功に導いて以来、様々な功績を残している光秀と、浅井の降将であり、その後にさしたる軍功もない員昌では発言力が違う。
「難しいものですなあ」
恩人である与次左衛門の力になれず、員昌は申し訳ない気持ちになった。
「それゆえ、此度の出陣では人に抜きんでた手柄を立てねばならぬのです」
員昌が表情を暗くしたのに気づいたか、与次左衛門は殊更に意気込んでみせた。
越前討ち入れにあたって動員された兵力は、栃木峠から越前を伺う徳川家康勢一万三千と、大野郡方面から討ち入れる柴田勝家の別動隊一万二千を含めると、総勢十万名を越える。
なお、信長公記に列記された参陣武将には、磯野員昌とは別に連枝衆として織田信澄の名が挙げられている。
岐阜を進発した信長は、敦賀の武藤宗右衛門舜秀の館に本陣を据え、主力となる人数を集結させた。
「敦賀近辺に陣を張る場所がのうて、近江の海津に在陣している人数もいるのだとか」
員昌の馬廻りとして参陣している勘三郎員次が、そんな噂話を仕入れてきた。
いくらなんでも大袈裟だと員昌は笑ったが、そんな噂が広まるほどの大軍であることには違いなかった。
武藤館に諸将を集めた軍評定にて信長が示した策は、軍勢の規模に見合うだけの壮大なものであった。
この時代、近江から越前に入るには、敦賀から北陸道を用いて木目峠を越えるのが一般的である。
距離的には栃木峠を越える北国街道のほうが近いが、街道の整備が不十分のため、大軍の行軍には向かない。
また、この二つの主要な街道の他に、海岸沿いを抜ける大良越えと呼ばれる脇道があり、こちらからも兵を入れることが示された。
道険しく、大軍の往来には不向きであるが、この道筋を扼する杉津城に入る堀江景忠には、既に内応が約されているという。
堀江景忠とは、かつて朝倉家にて勇名を馳せた武将である。
しかしながら、永禄の頃に一向一揆に通じて退転しており、朝倉家滅亡に際して越前に舞い戻ってきた恰好となっている。
利あらずとみれば寝返る男、と周囲に見られる以上、実際に内応の手筈が整っていようがいまいが、噂が出るだけでもその立場は危ういことになる。
「坊主は領民から税を取り立てること、新たな門徒を増やすことには熱心であるが、その一方で、味方から寝返る者がでることには無頓着なようじゃ」
居並ぶ諸将の間から、誰ともなくそんな感想が漏れる。
さらには、立石浦に集結した舟手衆が敦賀湾を横断し、境目の城より北側にある河野浦に上陸し、河野城を攻める策も同時に行われることになっていた。
つまり木目峠を目指す信長の本軍は、主力と見せかけて敵の注意を引き付けるいわば囮であり、側面を支援する大良越えの軍と、河野浦に上陸する船手衆の働きこそが真の主力であった。
海を用いた中入れ策は、本隊が峠の突破に手こずれば敵中に孤立する危険もあったが、一揆勢の背後を脅かす強力な一手であることに間違いなかった。
これほど大がかり策を示されるのは、員昌にとって初めての経験だった。
(これでは勝てぬわ)
やれやれと員昌は小さく首を振る。
信長は、越前の騒擾をただ放置していたと考えていたが、その裏では硬軟取り混ぜた策が練られ続けていたのだ。
浅井家が戦いを挑んだのはこのような相手だったのだ、と改めて思い知らされる思いがした。
八月十五日の払暁を記して開始された信長の越前討入れは、ほぼ当初定められた策の通りに推移した。
もっとも、信長自身が舟手衆を率いて揚陸を指揮する思い切った策も考えられていたが、折悪しく天候が崩れて海上の波が高く、万が一の事故を懸念されたため、信長の渡海はとりやめとなる一幕もあった。
信長に代わり、舟手衆の指揮は羽柴秀吉が執っている。
そのような突発事態こそあったものの、舟手衆は無事に河野浦に軍勢を上陸させた。
相前後して、杉津城では守将の堀江景忠が手はず通りに内応し、織田の先陣は難なく大良越えを果たした。
これによって、木目峠に主力を集結させていた一揆勢はたちまち浮足立った。
境目の城を破られて越前国内に入り込まれた以上、木目峠を固めていることにもはや意味はない。
陣を払って北上しはじめた一揆勢だが、これを見逃す信長ではない。
一乗谷を目指して敗走する一揆勢を猛烈に追撃した信長の本陣は、翌十六日には府中の竜門寺に達していた。
受け身に回った一揆勢は意外なほどに脆く、一方的に討たれる存在になり果てていた。
捕らえられた一揆勢は男女の別なく、信長の元に届けられ、首を刎ねられていった。
逃げた一揆勢を競って駆り立てる織田の軍勢にあって、磯野勢の動きは鈍かった。
どうにか懈怠を疑われない程度の働きしかみせていない。
員昌が一揆衆相手に十文字鎗を振るったこと自体、数えるほどでしかなかった。
員昌の消極的な采配は、手勢の動きにも伝染する。
「気乗りせぬ戦さにござるが、あまりに手を抜くのも考えものにござりますぞ」
あまりに低調な磯野勢の働きぶりに、林与次左衛門が渋い顔でそう忠告に来るほどだった。
「承知しておりますが、あれが手柄になるとはどうにも思えませぬでなあ」
員昌は、縄に繋がれたみすぼらしい身なりの男女数十名に顎をしゃくってみせる。
配下が手勢が捕らえた者達だが、彼らをみても一揆勢なのか、それとも地元の単なる農民なのか、怯えた表情を見ていても見分けをつけようがない。
「一揆勢の首をいくら刎ねたところで、これを手柄と申すのは筋が違うように存じまする」
鑓働きで名を挙げるべく意気込んで参陣していた勘三郎員次も、華々しい合戦とは程遠い一方的な殺戮には音をあげていた。
員昌に仕えて間もない藤堂高虎も参陣していたが、やはり一揆勢が相手では手柄にならないと考えているのか、記録に残るようなこれといった働きは見せていない。
幸いにもと言うべきか、早々に一揆勢が壊乱したため、いたたまれない日々は長くは続かなかった。
八月が終わる頃には、既に一揆に加担したと目される人間はほぼ殺されてしまい、越前国内の一揆狩りには目途がついていた。
明智光秀や羽柴秀吉ら一部の将は、余勢を駆って加賀の国境を越えて侵攻し、能美郡や江沼郡まで、一挙に版図に加えていた。
八月二十三日には、信長はかつての朝倉家の居城である一乗谷に陣を構えていた。
しかし信長は、続く加賀討ち入れのための下準備であるのか、それとも今度こそ越前の統治を盤石にするためか、月末には越前国を統べるための新たな城を築くことを決め、その地を北庄に決めた。
北庄は足羽川と吉野川(現・荒川)との合流地点の北岸にあり、一乗谷城より西に広がる平野部の中心となるだけでなく、北陸道を扼する位置にある。
軍事上の要衝として、そして政庁としての機能を備え、越前の再建の中心地とするための築城であった。
海岸線に沿ってゆっくり北上を続けていた員昌にも、越前の仕置きを定めるための北庄への転進命令が届けられた。
その際、信長が築城に着手していることを使番から聞かされた。
「であれば、普請の手伝いもせねばならぬのであろうな。気の重いことよ」
磯野勢と行動を共にしている林与次左衛門がぼやく。
手柄をたてるべく一揆を駆り立てていた与次左衛門も、功名となりそうにもない相手を殺害し続けたことで、さすがに嫌気が差している様子だった。
与次左衛門とて、誇り高き湖賊である。
信長の覚えをよくするため、逃げ惑う一揆勢を追い討つ日々を過ごしたかと思えば、今度は築城の為の人足をこなさなければならない鬱屈は察するに余りある。
「ごもっともなれど、これも御役目にござろうて」
員昌は柄にもなく、慰めの言葉を口にせざるを得なかった。
さすがに、「一揆衆を殺すよりはましであろう」などとは言えない。
元より員昌自身、恩賞が期待できるほどの働きが出来たなどとは思っていない。
(これでは、たいした褒美は期待できぬであろうな)
諦め顔の員昌であった。
三河国の長篠城に攻め寄せた武田勝頼勢と、後詰として駆け付けた織田・徳川勢により、設楽原の地にて大規模な野戦が行われた。
信長は、鉄砲の集中運用によって武田勢に痛撃を与えて撃破したと後世に語り継がれる大勝を得た。
この結果、大規模な軍勢を対武田のために張り付けておく必要がなくなった。
八月になって、員昌の元に越前の討ち入れの陣触れが回ってきた。
一揆勢の手に落ちた越前を奪還する機が熟したと言える。
「御屋形様は、いよいよ越前に本腰を入れることをお決めになられたか」
新庄城にて、信長からの軍役を課す旨の書状を読んだ員昌が、遠い目になって呟く。
前年以来、境目にある木目城は一揆勢に奪われたままになっている。
朝倉義景なき後の越前は、後を託された旧朝倉の将同士の不和に一向一揆が付け込む形で手の付けられない騒乱となった。
主を裏切り、信長に下って命ながらえたはずの旧朝倉家臣の多くが、この騒乱で討たれ、既にこの世から姿を消していた。
これから行われる織田勢による再度の越前討ち入れが成功裡に終われば、もはや扱いが面倒な旧朝倉家臣もおらず、遠慮なく織田の家臣団に領地を配分できるだろう。
(丁寧とは言い難かった先の越前仕置も、もしや御屋形様は最初からこうなることを見越していたのか)
員昌としては、そう勘繰りたくもなる。
そして、決して他人事ではないとの思いもまた強くなる。
一揆勢を前に木目城を捨てて逃げ出した挙句、捕縛されて敢えない最期を遂げた樋口直房のことが脳裏から離れない。
員昌が今一つ気乗りしないまま出陣の準備を進めているところに、員昌同様に出陣を命じられた打下城の林与次左衛門が、手勢を率いて新庄城に立ち寄った。
「よろしゅう頼みまするぞ。それがし、陸の戦は得手ではありませぬからな。丹波守殿が頼りにござる」
与次左衛門は戦さが始まる前から、どこか憔悴してみえた。
「何を弱気なこと申される。どこか、身体の具合でも悪うござるか」
員昌は思わず心配になって尋ねる。
口にこそ出さないが、与次左衛門も員昌と同じように、越前衆同様に自分も使い捨てにされるとの懸念が脳裏から離れないのだろうか。
「いや、なに。このところ湖の稼ぎが思うに任せませぬでな。その気鬱が顔に出ておったのでしょう」
お恥ずかしいことで、と与次左衛門は愛想笑いを浮かべた。
聞けば、湖には与次左衛門のような湖賊が幾家もある。
しかし、比叡山焼き討ち後に坂本城を与えられて志賀郡を領する明智光秀は、もっぱら堅田衆の棟梁・猪飼野昇貞に肩入れしているのだという。
「戦さがなければ、舟の荷運びも増えるのでは」
「湖の周りに戦さが耐えては、却って稼ぎは減りまする。加えて、相手が明智十兵衛様の肝煎となれば、これがどうにも分が悪く、上手く行かぬのですよ」
同じ一郡の支配を命じられていても、足利義昭を信長に引き合わせて上洛を成功に導いて以来、様々な功績を残している光秀と、浅井の降将であり、その後にさしたる軍功もない員昌では発言力が違う。
「難しいものですなあ」
恩人である与次左衛門の力になれず、員昌は申し訳ない気持ちになった。
「それゆえ、此度の出陣では人に抜きんでた手柄を立てねばならぬのです」
員昌が表情を暗くしたのに気づいたか、与次左衛門は殊更に意気込んでみせた。
越前討ち入れにあたって動員された兵力は、栃木峠から越前を伺う徳川家康勢一万三千と、大野郡方面から討ち入れる柴田勝家の別動隊一万二千を含めると、総勢十万名を越える。
なお、信長公記に列記された参陣武将には、磯野員昌とは別に連枝衆として織田信澄の名が挙げられている。
岐阜を進発した信長は、敦賀の武藤宗右衛門舜秀の館に本陣を据え、主力となる人数を集結させた。
「敦賀近辺に陣を張る場所がのうて、近江の海津に在陣している人数もいるのだとか」
員昌の馬廻りとして参陣している勘三郎員次が、そんな噂話を仕入れてきた。
いくらなんでも大袈裟だと員昌は笑ったが、そんな噂が広まるほどの大軍であることには違いなかった。
武藤館に諸将を集めた軍評定にて信長が示した策は、軍勢の規模に見合うだけの壮大なものであった。
この時代、近江から越前に入るには、敦賀から北陸道を用いて木目峠を越えるのが一般的である。
距離的には栃木峠を越える北国街道のほうが近いが、街道の整備が不十分のため、大軍の行軍には向かない。
また、この二つの主要な街道の他に、海岸沿いを抜ける大良越えと呼ばれる脇道があり、こちらからも兵を入れることが示された。
道険しく、大軍の往来には不向きであるが、この道筋を扼する杉津城に入る堀江景忠には、既に内応が約されているという。
堀江景忠とは、かつて朝倉家にて勇名を馳せた武将である。
しかしながら、永禄の頃に一向一揆に通じて退転しており、朝倉家滅亡に際して越前に舞い戻ってきた恰好となっている。
利あらずとみれば寝返る男、と周囲に見られる以上、実際に内応の手筈が整っていようがいまいが、噂が出るだけでもその立場は危ういことになる。
「坊主は領民から税を取り立てること、新たな門徒を増やすことには熱心であるが、その一方で、味方から寝返る者がでることには無頓着なようじゃ」
居並ぶ諸将の間から、誰ともなくそんな感想が漏れる。
さらには、立石浦に集結した舟手衆が敦賀湾を横断し、境目の城より北側にある河野浦に上陸し、河野城を攻める策も同時に行われることになっていた。
つまり木目峠を目指す信長の本軍は、主力と見せかけて敵の注意を引き付けるいわば囮であり、側面を支援する大良越えの軍と、河野浦に上陸する船手衆の働きこそが真の主力であった。
海を用いた中入れ策は、本隊が峠の突破に手こずれば敵中に孤立する危険もあったが、一揆勢の背後を脅かす強力な一手であることに間違いなかった。
これほど大がかり策を示されるのは、員昌にとって初めての経験だった。
(これでは勝てぬわ)
やれやれと員昌は小さく首を振る。
信長は、越前の騒擾をただ放置していたと考えていたが、その裏では硬軟取り混ぜた策が練られ続けていたのだ。
浅井家が戦いを挑んだのはこのような相手だったのだ、と改めて思い知らされる思いがした。
八月十五日の払暁を記して開始された信長の越前討入れは、ほぼ当初定められた策の通りに推移した。
もっとも、信長自身が舟手衆を率いて揚陸を指揮する思い切った策も考えられていたが、折悪しく天候が崩れて海上の波が高く、万が一の事故を懸念されたため、信長の渡海はとりやめとなる一幕もあった。
信長に代わり、舟手衆の指揮は羽柴秀吉が執っている。
そのような突発事態こそあったものの、舟手衆は無事に河野浦に軍勢を上陸させた。
相前後して、杉津城では守将の堀江景忠が手はず通りに内応し、織田の先陣は難なく大良越えを果たした。
これによって、木目峠に主力を集結させていた一揆勢はたちまち浮足立った。
境目の城を破られて越前国内に入り込まれた以上、木目峠を固めていることにもはや意味はない。
陣を払って北上しはじめた一揆勢だが、これを見逃す信長ではない。
一乗谷を目指して敗走する一揆勢を猛烈に追撃した信長の本陣は、翌十六日には府中の竜門寺に達していた。
受け身に回った一揆勢は意外なほどに脆く、一方的に討たれる存在になり果てていた。
捕らえられた一揆勢は男女の別なく、信長の元に届けられ、首を刎ねられていった。
逃げた一揆勢を競って駆り立てる織田の軍勢にあって、磯野勢の動きは鈍かった。
どうにか懈怠を疑われない程度の働きしかみせていない。
員昌が一揆衆相手に十文字鎗を振るったこと自体、数えるほどでしかなかった。
員昌の消極的な采配は、手勢の動きにも伝染する。
「気乗りせぬ戦さにござるが、あまりに手を抜くのも考えものにござりますぞ」
あまりに低調な磯野勢の働きぶりに、林与次左衛門が渋い顔でそう忠告に来るほどだった。
「承知しておりますが、あれが手柄になるとはどうにも思えませぬでなあ」
員昌は、縄に繋がれたみすぼらしい身なりの男女数十名に顎をしゃくってみせる。
配下が手勢が捕らえた者達だが、彼らをみても一揆勢なのか、それとも地元の単なる農民なのか、怯えた表情を見ていても見分けをつけようがない。
「一揆勢の首をいくら刎ねたところで、これを手柄と申すのは筋が違うように存じまする」
鑓働きで名を挙げるべく意気込んで参陣していた勘三郎員次も、華々しい合戦とは程遠い一方的な殺戮には音をあげていた。
員昌に仕えて間もない藤堂高虎も参陣していたが、やはり一揆勢が相手では手柄にならないと考えているのか、記録に残るようなこれといった働きは見せていない。
幸いにもと言うべきか、早々に一揆勢が壊乱したため、いたたまれない日々は長くは続かなかった。
八月が終わる頃には、既に一揆に加担したと目される人間はほぼ殺されてしまい、越前国内の一揆狩りには目途がついていた。
明智光秀や羽柴秀吉ら一部の将は、余勢を駆って加賀の国境を越えて侵攻し、能美郡や江沼郡まで、一挙に版図に加えていた。
八月二十三日には、信長はかつての朝倉家の居城である一乗谷に陣を構えていた。
しかし信長は、続く加賀討ち入れのための下準備であるのか、それとも今度こそ越前の統治を盤石にするためか、月末には越前国を統べるための新たな城を築くことを決め、その地を北庄に決めた。
北庄は足羽川と吉野川(現・荒川)との合流地点の北岸にあり、一乗谷城より西に広がる平野部の中心となるだけでなく、北陸道を扼する位置にある。
軍事上の要衝として、そして政庁としての機能を備え、越前の再建の中心地とするための築城であった。
海岸線に沿ってゆっくり北上を続けていた員昌にも、越前の仕置きを定めるための北庄への転進命令が届けられた。
その際、信長が築城に着手していることを使番から聞かされた。
「であれば、普請の手伝いもせねばならぬのであろうな。気の重いことよ」
磯野勢と行動を共にしている林与次左衛門がぼやく。
手柄をたてるべく一揆を駆り立てていた与次左衛門も、功名となりそうにもない相手を殺害し続けたことで、さすがに嫌気が差している様子だった。
与次左衛門とて、誇り高き湖賊である。
信長の覚えをよくするため、逃げ惑う一揆勢を追い討つ日々を過ごしたかと思えば、今度は築城の為の人足をこなさなければならない鬱屈は察するに余りある。
「ごもっともなれど、これも御役目にござろうて」
員昌は柄にもなく、慰めの言葉を口にせざるを得なかった。
さすがに、「一揆衆を殺すよりはましであろう」などとは言えない。
元より員昌自身、恩賞が期待できるほどの働きが出来たなどとは思っていない。
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諦め顔の員昌であった。
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