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(二十九)流れ桜
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松川合戦に思いがけず敗れた伊達政宗は、どうにか上杉勢の追撃を振り切り、無事に白石城まで逃げおおせたた。
政宗本人は、上杉領への侵攻を諦めるつもりは毛頭無かったであろう。
しかし、既に上杉が恭順の意を示しているにもかかわらず、伊達だけが戦い続けることは、これ以上はできそうもないのが実状だった。
だが、そんなことは梁川城の斯忠らには知る由もない。
梁川城では、五月の頭に桜館の流れ桜が見ごろとなるのを待ちかねるように、戦勝の祝を兼ねた花見が催された。
「どうにか、生きてこいつを見られたなぁ」
大きく垂れ下がった枝に淡く色づいた花が咲き誇る様を見上げ、斯忠は大きく息をつく。
斯忠は、従僕として呼び寄せていた「とら屋」の老忍とお香に花見団子を大量に作らせて振る舞い、長義や於きたに喜ばれた。
さらには、伊達の荷駄からの分取り品の中にあった酒も惜しみなく提供して、とら屋の花見団子にはありつけなかった末端の城兵にも、花見酒を楽しめるよう取り計らった。
祝い事では出し惜しみしないのが、車丹波という男である。
しかし、花を愛で、酒に酔いつつも、心から浮かれ騒げる心境になれた者はほとんどいない筈だった。
伊達の侵攻はほぼないと思われたが、警戒を解くことはできない。
それ以上に、徳川家康との和睦交渉の結果が出ていないことが、彼らの心を重くする。
どう転んでも、大幅な減封か国替えを覚悟する必要があるだろう。
誰も表立って口にこそしないが、こうやって花見が出来るのはこれが最後だろう、そんな思いが皆の胸に去来していた。
***
七月一日にわずかな人数を連れて会津を出立した上杉景勝と直江兼続の主従は、七月二十六日には大阪城の豊臣秀頼の元に参上した。
その後、八月十六日になって景勝は家康に呼び出されて、正式な処分の沙汰を受けた。
会津百二十万石のうち会津、庄内、佐渡を没収し、米沢を中心とする三十万石に減封。
これが処分のすべてだった。
上杉家の身代は四分の一に減らされたが、家の存続は許されたのだ。
これにより、上杉の戦さもようやく終わりを告げた。
厳しい結果には違いなかったが、一方で最後まで上杉領を脅かし続けた伊達政宗にも、不本意な沙汰が下っていた。
南で上杉領に手を出しながら、北では和賀忠親の南部一揆の煽動を画策したことが露見した結果、「百万石のお墨付き」と呼ばれた大幅な加増は叶わず、自力で占領した白石城のある刈田郡二万石のみの加増に終わったのだ。
梁川城は福島城同様、引き続き上杉領として残ったが、上杉家の家臣を可能な限り残す直江兼続の方針に基づき、家臣の禄は三分の一に減らされることが決まっていた。
長義が引き続き城主でいられるかどうかの結論も出ていない。
そのため、減封の沙汰が伝わった城内の雰囲気は、必ずしも無事平穏とは言い難いものがある。
そんな空気の中、斯忠は桜館の流れ桜の木の下に呼び出しを受けて足を運んでいた。
呼んだのは於きたである。
流れ桜の古木も既に花が散って久しく、葉が色濃く茂っている。
そして葉桜の下に立つ於きたは、凛として、それでいて出会った当初よりずっと穏やかな雰囲気をまとっていた。
(相変わらず、美しい御方だ)
場違いにも、斯忠はそう思わずにはいられない。
「於きた殿。御用はなんでしょうか」
内心の沸き立つ思いを隠しつつ、斯忠は問うた。
於きたは、はにかむようにふわりとほほ笑んだ。
「お呼びだてして申し訳ございませぬ。……わたくし、再嫁することに決めました」
そう言って、恥じらうように目を伏せる。
年甲斐もなくどぎまぎしていた斯忠の耳を、聞き捨てならない言葉が通り抜けていった。
その意味を理解するのに、数瞬を要した。
「そ、そりゃめでたい。それで、相手は誰なんで」
思わず、斯忠はどもりながら訊ね返す。
顔を上げた於きたが、一呼吸おいて口を開く。
「福島城主、本庄越前守繁長様です」
「げえぇっ!?」
今度こそ、斯忠は腰を抜かさんばかりに驚いた。蛙が潰れたような声をあげてしまう。
なお本庄繁長は、最初の妻である上杉十郎景信の妹とは、永禄八年(一五六五年)に死別している。従って於きたは後妻として迎えられることになる。
「前々からお話はいただいていたのです。父・満親にも劣らぬ武勇の士であることは存じておりました。ですが、わたくしはどうしても心を定められずにおりました」
「そりゃ、本庄様のような爺さ……、いや、そりゃ元気は有り余ってるけれども、随分と年上で」
あたふたと言葉にならぬことを口走りながら、於きたが白銀の当世具足に身を固めて長義の供をしていた姿を思い出す。
あれは、福島城の城主に着任した本庄繁長の姿を自分の目で確かめるためだったのか、と気づく。
取り乱す斯忠に対して、於きたは穏やかな表情を崩さぬまま、言葉を継ぐ。
「承知しております。ですが、未だ衰えぬ見事な采配にて福島城を守り抜いたと聞き、この御方ならば、と思い定めるに至りました。そしてなにより、虎様のお姿に勇気づけられ、心を決めることが出来ました」
「お、おう……?」
「年齢で人の価値を定めるものではない。そう思えるようになったのは、きっと虎様のおかげです」
「泣かせることを言ってくれるねぇ」
軽口をたたきつつ、斯忠は本気で泣きたくなった。
逡巡する於きたの背中を押したのが、他ならぬ自分だったとは……。
しかし、と斯忠は歯を食いしばって気持ちを切り替える。
口から発せられた言葉が思いのすべてではないだろう。衝撃を受けながらも、斯忠の頭の冷静な部分はそう分析している。
所領が三分の一に減らされる須田長義の元に厄介になり続けることは心苦しい、と於きたが考えたとしても不思議ではない。
こんな時に婚儀の話など、ではなく、こんな時だからこそ再嫁せねばならないのかもしれない。
「まあ、とにかく目出度い。祝言に顔を出せないのは申し訳ないが、本庄様にもよろしく伝えてくれるとありがてぇ」
え、と於きたは顔を上げて斯忠の顔を見る。
「わたくしは、虎様にも門出を祝っていただきたかったのですが」
「そうしたいのは山々だが、何分にも組外衆は皆そろって召し放ちと決まり申した。残念ながら、とても顔を出せる身ではなくなったとお考えくだされ」
「そんな……」
「どこか遠くの空の下で、於きた殿の幸せをお祈りしております。では、出立の準備がござれば、これにて御免つかまつる」
斯忠は於きたに向けて深々と頭を下げると、くるりと背を向けた。流れ桜の古木に振り返ることは二度となかった。
***
八月の鋭い陽光が降り注ぐ炎天下に、一際大きな斯忠のくしゃみが響いた。
「大望抱いて会津に来れば、もらって帰るは風邪ばかり、とくらあ」
鼻をすすりながら、愛馬の大黒の鞍上で斯忠がぼやいた。
轡を取る団吉が気づかわし気に主人を見上げる。
百二十万石から米沢三十万石に押し込められることになった上杉家において、直江兼続は可能な限り家臣団を引き連れていくことを宣言し、その実現のために奔走した。
しかし、彼の言う家臣団に、斯忠ら組外衆は含まれていなかった。
後世に残る慶長六年七月一日付の兼続の書状には、「組外衆は、騎馬武者、徒の者にいたるまで、二度までも戦線を引き払い、いろいろと不平不満を述べた。そのような者たちは御家の用に立たないであろうから、全員召し放つ。扶持など与えるのは無用である。その対象は、車丹波の組に限らない」といった主旨の、かなり厳しい語調の内容が記されている。
二度の戦線離脱が具体的に何を指すのかは不明であるが、組外衆の役立たず代表として斯忠が名指しされるとは、よほど兼続に嫌われたと考える他ない。
斯忠本人がこの書状を直に見る機会があったとは考えにくいが、読めば怒りを通り越して乾いた笑いを漏らしたことであろう。
まして、組外衆は全員解雇と言いつつ、その筆頭であった前田慶次だけは、兼続との個人的な親交もあってか再仕官が認められているのである。
斯忠にとっては、組外衆とは最後まで「存外なもの」であったと言わざるを得ない。
しかし、いずれにせよ上杉家からも召し放ちとなった以上、行く当ては常陸の佐竹家しかなかった。
佐竹家は、会津征伐から関ケ原の合戦に至るまで、いずれの合戦にも加わらずに中立を保った。
しかしそれは、家康が勝利したとあって見過ごしにしてもらえることを意味しない。
未だにどのような沙汰が下るかは判っておらず、上杉同様に大きく石高を削られて転封となればまだ幸い、当主切腹のうえ改易となっても文句を言えない立場に追い込まれている。
そのようなところに、徳川方である伊達勢を相手どって戦交えてきた斯忠たちが戻って、果たして受け入れてもらえるのか。
街道を南に向かう斯忠一行の空気は沈んだものとなる。
なお、いま斯忠が率いているのは三百名程度である。
会津に向かったときの五百名のうち、二百名が帰還の一行に加わらなかった理由はさまざまである。
討死した者や深手を負って常陸までの軍旅に耐えられない者の他にも、上杉の家風を気に入って、なんとか微禄でも召し抱えてもらう機会を待ちたいと願う者もいれば、何がどうあっても今さら常陸に戻れない者もいる。
もちろん、徳川家康による厳しい沙汰が免れがたい佐竹家には見切りをつけ、新天地を求めて別行動を取った者も少なくなかった。
「こんな時、源公だったら、くだらねぇことでも言って笑わせてくれるんだがな」
大きなくしゃみに誰も反応しないので、斯忠はそう一人ごちる。
嶋左源次も、斯忠の元を離れた一人である。
兼続の人となりに惚れ込んだという左源次は、たとえ無禄であろうと上杉家の領内で暮らしたいと、米沢に向かう事に決めたのだ。
「まあ、廻国修行を続けてきた男だ。喰っていくだけなら、米沢でもなんとでもするだろうけどなあ」
斯忠としては、正直なところ左源次を残して去るのは忍びなかった。
なにかにつけて頭をはたいたりしていたが、それも信頼があってこそだ。
かといって斯忠自身の身の振り方も定まらない状態では、首に縄を付けてでも常陸に連れ帰る、などと言える筈もなかった。
それに、斯忠にはより切実な問題があった。
松川合戦に関する書状などの一切の記録を残さないことが、上杉の恭順を認める条件であるとして、感状などがみな処分されてしまったことだ。
「人の口に戸を立てるような約定に、意味があるのかねぇ」
斯忠は首をひねる。
自らの手柄を抹消されて面白い筈はないが、伊達の本陣を衝き、陣幕を奪うほどの働きを見せた須田長義がその沙汰に異を唱えなかったため、自分だけが逆らう訳にも行かなかった。
もっとも、多くの手負い討死が出た合戦の事実そのものを消滅させることなどできないため、松川合戦をめぐる出来事は、すべて慶長五年十月に起きたとみなすと取り決められていた。
これもまた妙な話ではあるが、慶長六年二月には、家康は上杉方との和睦交渉の結果、会津征伐の事実上の中止を決定している。
従って、それ以降に行われた伊達の出兵は家康の意向に逆らったものである。
勝っていれば既成事実として押し通せたであろうが、負けた以上、心象がより悪くなるだけである。
従って、政宗としては慶長六年四月の合戦を隠蔽したい思惑があり、このような話が出てきたのだろう。
上杉方にとっても、既に矛を収める方向で徳川との交渉を開始した後の話であるため、いまさら松川合戦の勝利を喧伝したところで益はないとの判断したものらしい。
(あるいは、合戦に勝った本庄様の権勢が必要以上に高まることを、筆頭家老様が嫌ったってことかもしれねぇな)
斯忠は、そう勘繰っている。
直江兼続の思惑はともかく、斯忠としては、感状一枚すら持って帰れないまま佐竹への帰参を願うことになり、なんとも気が進まない話だった。
しかし、一度は斯忠の呼びかけに応じて参集してくれた者達が反逆者として討たれないよう守るためには、旧主・佐竹義宣、そして筆頭家老・和田昭為に情けを乞うて頭をさげる他に手はなかった。
「判っちゃいるんだがねぇ」
斯忠は大きくため息をつく。
常陸に向かう足取りは、どこまでも重かった。
政宗本人は、上杉領への侵攻を諦めるつもりは毛頭無かったであろう。
しかし、既に上杉が恭順の意を示しているにもかかわらず、伊達だけが戦い続けることは、これ以上はできそうもないのが実状だった。
だが、そんなことは梁川城の斯忠らには知る由もない。
梁川城では、五月の頭に桜館の流れ桜が見ごろとなるのを待ちかねるように、戦勝の祝を兼ねた花見が催された。
「どうにか、生きてこいつを見られたなぁ」
大きく垂れ下がった枝に淡く色づいた花が咲き誇る様を見上げ、斯忠は大きく息をつく。
斯忠は、従僕として呼び寄せていた「とら屋」の老忍とお香に花見団子を大量に作らせて振る舞い、長義や於きたに喜ばれた。
さらには、伊達の荷駄からの分取り品の中にあった酒も惜しみなく提供して、とら屋の花見団子にはありつけなかった末端の城兵にも、花見酒を楽しめるよう取り計らった。
祝い事では出し惜しみしないのが、車丹波という男である。
しかし、花を愛で、酒に酔いつつも、心から浮かれ騒げる心境になれた者はほとんどいない筈だった。
伊達の侵攻はほぼないと思われたが、警戒を解くことはできない。
それ以上に、徳川家康との和睦交渉の結果が出ていないことが、彼らの心を重くする。
どう転んでも、大幅な減封か国替えを覚悟する必要があるだろう。
誰も表立って口にこそしないが、こうやって花見が出来るのはこれが最後だろう、そんな思いが皆の胸に去来していた。
***
七月一日にわずかな人数を連れて会津を出立した上杉景勝と直江兼続の主従は、七月二十六日には大阪城の豊臣秀頼の元に参上した。
その後、八月十六日になって景勝は家康に呼び出されて、正式な処分の沙汰を受けた。
会津百二十万石のうち会津、庄内、佐渡を没収し、米沢を中心とする三十万石に減封。
これが処分のすべてだった。
上杉家の身代は四分の一に減らされたが、家の存続は許されたのだ。
これにより、上杉の戦さもようやく終わりを告げた。
厳しい結果には違いなかったが、一方で最後まで上杉領を脅かし続けた伊達政宗にも、不本意な沙汰が下っていた。
南で上杉領に手を出しながら、北では和賀忠親の南部一揆の煽動を画策したことが露見した結果、「百万石のお墨付き」と呼ばれた大幅な加増は叶わず、自力で占領した白石城のある刈田郡二万石のみの加増に終わったのだ。
梁川城は福島城同様、引き続き上杉領として残ったが、上杉家の家臣を可能な限り残す直江兼続の方針に基づき、家臣の禄は三分の一に減らされることが決まっていた。
長義が引き続き城主でいられるかどうかの結論も出ていない。
そのため、減封の沙汰が伝わった城内の雰囲気は、必ずしも無事平穏とは言い難いものがある。
そんな空気の中、斯忠は桜館の流れ桜の木の下に呼び出しを受けて足を運んでいた。
呼んだのは於きたである。
流れ桜の古木も既に花が散って久しく、葉が色濃く茂っている。
そして葉桜の下に立つ於きたは、凛として、それでいて出会った当初よりずっと穏やかな雰囲気をまとっていた。
(相変わらず、美しい御方だ)
場違いにも、斯忠はそう思わずにはいられない。
「於きた殿。御用はなんでしょうか」
内心の沸き立つ思いを隠しつつ、斯忠は問うた。
於きたは、はにかむようにふわりとほほ笑んだ。
「お呼びだてして申し訳ございませぬ。……わたくし、再嫁することに決めました」
そう言って、恥じらうように目を伏せる。
年甲斐もなくどぎまぎしていた斯忠の耳を、聞き捨てならない言葉が通り抜けていった。
その意味を理解するのに、数瞬を要した。
「そ、そりゃめでたい。それで、相手は誰なんで」
思わず、斯忠はどもりながら訊ね返す。
顔を上げた於きたが、一呼吸おいて口を開く。
「福島城主、本庄越前守繁長様です」
「げえぇっ!?」
今度こそ、斯忠は腰を抜かさんばかりに驚いた。蛙が潰れたような声をあげてしまう。
なお本庄繁長は、最初の妻である上杉十郎景信の妹とは、永禄八年(一五六五年)に死別している。従って於きたは後妻として迎えられることになる。
「前々からお話はいただいていたのです。父・満親にも劣らぬ武勇の士であることは存じておりました。ですが、わたくしはどうしても心を定められずにおりました」
「そりゃ、本庄様のような爺さ……、いや、そりゃ元気は有り余ってるけれども、随分と年上で」
あたふたと言葉にならぬことを口走りながら、於きたが白銀の当世具足に身を固めて長義の供をしていた姿を思い出す。
あれは、福島城の城主に着任した本庄繁長の姿を自分の目で確かめるためだったのか、と気づく。
取り乱す斯忠に対して、於きたは穏やかな表情を崩さぬまま、言葉を継ぐ。
「承知しております。ですが、未だ衰えぬ見事な采配にて福島城を守り抜いたと聞き、この御方ならば、と思い定めるに至りました。そしてなにより、虎様のお姿に勇気づけられ、心を決めることが出来ました」
「お、おう……?」
「年齢で人の価値を定めるものではない。そう思えるようになったのは、きっと虎様のおかげです」
「泣かせることを言ってくれるねぇ」
軽口をたたきつつ、斯忠は本気で泣きたくなった。
逡巡する於きたの背中を押したのが、他ならぬ自分だったとは……。
しかし、と斯忠は歯を食いしばって気持ちを切り替える。
口から発せられた言葉が思いのすべてではないだろう。衝撃を受けながらも、斯忠の頭の冷静な部分はそう分析している。
所領が三分の一に減らされる須田長義の元に厄介になり続けることは心苦しい、と於きたが考えたとしても不思議ではない。
こんな時に婚儀の話など、ではなく、こんな時だからこそ再嫁せねばならないのかもしれない。
「まあ、とにかく目出度い。祝言に顔を出せないのは申し訳ないが、本庄様にもよろしく伝えてくれるとありがてぇ」
え、と於きたは顔を上げて斯忠の顔を見る。
「わたくしは、虎様にも門出を祝っていただきたかったのですが」
「そうしたいのは山々だが、何分にも組外衆は皆そろって召し放ちと決まり申した。残念ながら、とても顔を出せる身ではなくなったとお考えくだされ」
「そんな……」
「どこか遠くの空の下で、於きた殿の幸せをお祈りしております。では、出立の準備がござれば、これにて御免つかまつる」
斯忠は於きたに向けて深々と頭を下げると、くるりと背を向けた。流れ桜の古木に振り返ることは二度となかった。
***
八月の鋭い陽光が降り注ぐ炎天下に、一際大きな斯忠のくしゃみが響いた。
「大望抱いて会津に来れば、もらって帰るは風邪ばかり、とくらあ」
鼻をすすりながら、愛馬の大黒の鞍上で斯忠がぼやいた。
轡を取る団吉が気づかわし気に主人を見上げる。
百二十万石から米沢三十万石に押し込められることになった上杉家において、直江兼続は可能な限り家臣団を引き連れていくことを宣言し、その実現のために奔走した。
しかし、彼の言う家臣団に、斯忠ら組外衆は含まれていなかった。
後世に残る慶長六年七月一日付の兼続の書状には、「組外衆は、騎馬武者、徒の者にいたるまで、二度までも戦線を引き払い、いろいろと不平不満を述べた。そのような者たちは御家の用に立たないであろうから、全員召し放つ。扶持など与えるのは無用である。その対象は、車丹波の組に限らない」といった主旨の、かなり厳しい語調の内容が記されている。
二度の戦線離脱が具体的に何を指すのかは不明であるが、組外衆の役立たず代表として斯忠が名指しされるとは、よほど兼続に嫌われたと考える他ない。
斯忠本人がこの書状を直に見る機会があったとは考えにくいが、読めば怒りを通り越して乾いた笑いを漏らしたことであろう。
まして、組外衆は全員解雇と言いつつ、その筆頭であった前田慶次だけは、兼続との個人的な親交もあってか再仕官が認められているのである。
斯忠にとっては、組外衆とは最後まで「存外なもの」であったと言わざるを得ない。
しかし、いずれにせよ上杉家からも召し放ちとなった以上、行く当ては常陸の佐竹家しかなかった。
佐竹家は、会津征伐から関ケ原の合戦に至るまで、いずれの合戦にも加わらずに中立を保った。
しかしそれは、家康が勝利したとあって見過ごしにしてもらえることを意味しない。
未だにどのような沙汰が下るかは判っておらず、上杉同様に大きく石高を削られて転封となればまだ幸い、当主切腹のうえ改易となっても文句を言えない立場に追い込まれている。
そのようなところに、徳川方である伊達勢を相手どって戦交えてきた斯忠たちが戻って、果たして受け入れてもらえるのか。
街道を南に向かう斯忠一行の空気は沈んだものとなる。
なお、いま斯忠が率いているのは三百名程度である。
会津に向かったときの五百名のうち、二百名が帰還の一行に加わらなかった理由はさまざまである。
討死した者や深手を負って常陸までの軍旅に耐えられない者の他にも、上杉の家風を気に入って、なんとか微禄でも召し抱えてもらう機会を待ちたいと願う者もいれば、何がどうあっても今さら常陸に戻れない者もいる。
もちろん、徳川家康による厳しい沙汰が免れがたい佐竹家には見切りをつけ、新天地を求めて別行動を取った者も少なくなかった。
「こんな時、源公だったら、くだらねぇことでも言って笑わせてくれるんだがな」
大きなくしゃみに誰も反応しないので、斯忠はそう一人ごちる。
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「まあ、廻国修行を続けてきた男だ。喰っていくだけなら、米沢でもなんとでもするだろうけどなあ」
斯忠としては、正直なところ左源次を残して去るのは忍びなかった。
なにかにつけて頭をはたいたりしていたが、それも信頼があってこそだ。
かといって斯忠自身の身の振り方も定まらない状態では、首に縄を付けてでも常陸に連れ帰る、などと言える筈もなかった。
それに、斯忠にはより切実な問題があった。
松川合戦に関する書状などの一切の記録を残さないことが、上杉の恭順を認める条件であるとして、感状などがみな処分されてしまったことだ。
「人の口に戸を立てるような約定に、意味があるのかねぇ」
斯忠は首をひねる。
自らの手柄を抹消されて面白い筈はないが、伊達の本陣を衝き、陣幕を奪うほどの働きを見せた須田長義がその沙汰に異を唱えなかったため、自分だけが逆らう訳にも行かなかった。
もっとも、多くの手負い討死が出た合戦の事実そのものを消滅させることなどできないため、松川合戦をめぐる出来事は、すべて慶長五年十月に起きたとみなすと取り決められていた。
これもまた妙な話ではあるが、慶長六年二月には、家康は上杉方との和睦交渉の結果、会津征伐の事実上の中止を決定している。
従って、それ以降に行われた伊達の出兵は家康の意向に逆らったものである。
勝っていれば既成事実として押し通せたであろうが、負けた以上、心象がより悪くなるだけである。
従って、政宗としては慶長六年四月の合戦を隠蔽したい思惑があり、このような話が出てきたのだろう。
上杉方にとっても、既に矛を収める方向で徳川との交渉を開始した後の話であるため、いまさら松川合戦の勝利を喧伝したところで益はないとの判断したものらしい。
(あるいは、合戦に勝った本庄様の権勢が必要以上に高まることを、筆頭家老様が嫌ったってことかもしれねぇな)
斯忠は、そう勘繰っている。
直江兼続の思惑はともかく、斯忠としては、感状一枚すら持って帰れないまま佐竹への帰参を願うことになり、なんとも気が進まない話だった。
しかし、一度は斯忠の呼びかけに応じて参集してくれた者達が反逆者として討たれないよう守るためには、旧主・佐竹義宣、そして筆頭家老・和田昭為に情けを乞うて頭をさげる他に手はなかった。
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常陸に向かう足取りは、どこまでも重かった。
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