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償いの夜
王都へ戻る馬車の中で、ベルナルドは幾度も自らの拳を座席に叩きつけた。魔女から聞かされた真実が、鋭利な破片となって胸の奥に突き刺さり、呼吸をするたびに血を流させる。
(私が……私が彼女を、あの清廉な魂を、魔女に売り渡させたのだ)
邸に戻ったとき、夜の帳は深く降りていた。玄関ホールでは、灯火を掲げたエメラルダが一人、静かに立っていた。その姿は、かつて夜遊びから帰る自分を、健気な不安を瞳に宿して待っていたあの頃と同じ構図だ。
だが、近づいて見れば、その瞳に「不安」の色はない。ただ、主人の帰還を確認する、深い森の湖のような静寂があるだけだった。
「お帰りなさいませ、閣下。随分とお疲れのようですわね。すぐに湯浴みの準備をさせましょう」
その声を聞いた瞬間、ベルナルドの理性は決壊した。彼はエメラルダの華奢な体を、砕かんばかりの力で抱きしめた。
「エメラルダ……っ! 済まない、済まない……! 私のために、君は……君の心を……!」
ベルナルドは彼女の肩に顔を埋め、子供のように嗚咽した。大粒の涙が、彼女の贅沢なドレスの肩を濡らしていく。王国の至宝とまで称された矜持もプライドも捨て、彼はただの「罪人」として妻に縋り付いた。
エメラルダは、一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐにいつもの穏やかな表情に戻った。そして、ベルナルドの背中にそっと手を添え、赤子をあやすように優しく叩いた。
「どうされたのですか、ベルナルド様。何か悪い夢でもご覧になったのかしら。私はここに、あなたの隣におりますわ」
「愛してくれなくていい! 許してくれなくていいんだ、エメラルダ! ただ、私を憎んでくれ! 私を軽蔑して、罵ってくれ! そんな、他人をいたわるような優しい顔で私を見ないでくれ……っ!」
ベルナルドは叫んだ。彼女の「無」の優しさは、どんな刃よりも深く彼を切り裂く。かつて彼女が流した涙の数だけ、今の彼女の「乾いた微笑み」が恐ろしい。
「……憎む? なぜそのようなことを。私はあなたの妻です。あなたを敬い、支えることが私の誇りですわ」
エメラルダはベルナルドの顔を両手で包み込み、その涙を指先で丁寧に拭った。その手つきは、どこまでも慈悲深かった。
「魔女モーガン様にお会いになられたのですね。余計な話を吹き込まれたのでしょう。……閣下、安心してください。私は今の自分がとても気に入っていますの。誰かを想って胸を痛めることも、夜通し泣き明かすこともありません。ただ、穏やかな愛着だけを持って、あなたと共にいられる。これこそ、理想の夫婦の形ではありませんか」
「それが……それが君の幸せだと言うのか!? 嘘だ……そんなのは、君じゃない!」
「いいえ。これが、今の私の真実です」
エメラルダは、ベルナルドの唇に指を当て、それ以上の言葉を封じた。
「……愛してくれなくていい、と仰いましたね。ええ、分かりました。私は、あなたの望む通りに致しましょう。あなたの傍にあり続け、侯爵家を守り抜く。あなたが望むなら、この身さえも差し出しましょう。……それが『妻』の務めですから」
彼女は、彼を誘うように寝室へと促した。
その夜、ベルナルドは彼女を狂おしく抱いた。かつてないほどに、彼女を失うことを恐れるように。
しかし、どれほど深く彼女を抱きしめても、どれほど「愛している」と喉を枯らして囁いても、返ってくるのは甘やかな溜息と、完璧に調律された優しい微笑みだけだった。
エメラルダの体は、彼の腕の中で確かに熱を帯びている。だが、その心は。その魂は。北の果ての吹雪よりも冷たい場所で、永遠に凍りついたまま、彼をただ「静観」している。
ベルナルドは、夜の闇の中で絶望を知った。
失ったものは、もう二度と戻らない。
彼が今抱いているのは、自分を救うために自分を殺した、世界で一番美しく、そして最も遠い「他人」だった。
カーテンの隙間から差し込む月光が、エメラルダの穏やかな寝顔を照らしていた。
彼女は今、苦しみから解放され、かつてないほどに幸福そうに眠っている。
そのことが、ベルナルドにとっては、神が与えたどんな罰よりも残酷で、永い地獄の始まりだった。
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(私が……私が彼女を、あの清廉な魂を、魔女に売り渡させたのだ)
邸に戻ったとき、夜の帳は深く降りていた。玄関ホールでは、灯火を掲げたエメラルダが一人、静かに立っていた。その姿は、かつて夜遊びから帰る自分を、健気な不安を瞳に宿して待っていたあの頃と同じ構図だ。
だが、近づいて見れば、その瞳に「不安」の色はない。ただ、主人の帰還を確認する、深い森の湖のような静寂があるだけだった。
「お帰りなさいませ、閣下。随分とお疲れのようですわね。すぐに湯浴みの準備をさせましょう」
その声を聞いた瞬間、ベルナルドの理性は決壊した。彼はエメラルダの華奢な体を、砕かんばかりの力で抱きしめた。
「エメラルダ……っ! 済まない、済まない……! 私のために、君は……君の心を……!」
ベルナルドは彼女の肩に顔を埋め、子供のように嗚咽した。大粒の涙が、彼女の贅沢なドレスの肩を濡らしていく。王国の至宝とまで称された矜持もプライドも捨て、彼はただの「罪人」として妻に縋り付いた。
エメラルダは、一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐにいつもの穏やかな表情に戻った。そして、ベルナルドの背中にそっと手を添え、赤子をあやすように優しく叩いた。
「どうされたのですか、ベルナルド様。何か悪い夢でもご覧になったのかしら。私はここに、あなたの隣におりますわ」
「愛してくれなくていい! 許してくれなくていいんだ、エメラルダ! ただ、私を憎んでくれ! 私を軽蔑して、罵ってくれ! そんな、他人をいたわるような優しい顔で私を見ないでくれ……っ!」
ベルナルドは叫んだ。彼女の「無」の優しさは、どんな刃よりも深く彼を切り裂く。かつて彼女が流した涙の数だけ、今の彼女の「乾いた微笑み」が恐ろしい。
「……憎む? なぜそのようなことを。私はあなたの妻です。あなたを敬い、支えることが私の誇りですわ」
エメラルダはベルナルドの顔を両手で包み込み、その涙を指先で丁寧に拭った。その手つきは、どこまでも慈悲深かった。
「魔女モーガン様にお会いになられたのですね。余計な話を吹き込まれたのでしょう。……閣下、安心してください。私は今の自分がとても気に入っていますの。誰かを想って胸を痛めることも、夜通し泣き明かすこともありません。ただ、穏やかな愛着だけを持って、あなたと共にいられる。これこそ、理想の夫婦の形ではありませんか」
「それが……それが君の幸せだと言うのか!? 嘘だ……そんなのは、君じゃない!」
「いいえ。これが、今の私の真実です」
エメラルダは、ベルナルドの唇に指を当て、それ以上の言葉を封じた。
「……愛してくれなくていい、と仰いましたね。ええ、分かりました。私は、あなたの望む通りに致しましょう。あなたの傍にあり続け、侯爵家を守り抜く。あなたが望むなら、この身さえも差し出しましょう。……それが『妻』の務めですから」
彼女は、彼を誘うように寝室へと促した。
その夜、ベルナルドは彼女を狂おしく抱いた。かつてないほどに、彼女を失うことを恐れるように。
しかし、どれほど深く彼女を抱きしめても、どれほど「愛している」と喉を枯らして囁いても、返ってくるのは甘やかな溜息と、完璧に調律された優しい微笑みだけだった。
エメラルダの体は、彼の腕の中で確かに熱を帯びている。だが、その心は。その魂は。北の果ての吹雪よりも冷たい場所で、永遠に凍りついたまま、彼をただ「静観」している。
ベルナルドは、夜の闇の中で絶望を知った。
失ったものは、もう二度と戻らない。
彼が今抱いているのは、自分を救うために自分を殺した、世界で一番美しく、そして最も遠い「他人」だった。
カーテンの隙間から差し込む月光が、エメラルダの穏やかな寝顔を照らしていた。
彼女は今、苦しみから解放され、かつてないほどに幸福そうに眠っている。
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