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魔女の再訪
嵐の予感が漂う、重く湿った夜だった。
ベルナルドが書斎で領地の書類に目を通していると、窓の外で不気味な青い火花が散った。突如として室内の温度が氷点下まで下がり、暖炉の火が激しく爆ぜる。
「……何の用だ、魔女モーガン」
ベルナルドはペンを置き、背後の闇を睨みつけた。そこには、数年前と変わらぬ不遜な笑みを浮かべた、北の魔女が立っていた。
「ひひっ、随分と険しい顔だねぇ、侯爵様。せっかく、あんたたちの『幸せな生活』が続いているか確認しに来てやったというのに」
「帰れ。君に見せる見世物など、ここにはない」
ベルナルドの拒絶を無視し、モーガンは音もなく部屋の扉を開けた。その先には、ちょうどリチャードを寝かしつけ、廊下を歩いてきたエメラルダの姿があった。
「おや、エメラルダ。久しぶりじゃないか。……アタシとの『賭け』の結果はどうだい? 愛を失って数年、後悔で首でも括っているかと思ったがね」
魔女の出現に、控えの侍女たちが悲鳴を上げて逃げ惑う中、エメラルダだけは驚く風もなく足を止めた。彼女は優雅に会釈し、まるで旧友を迎えるような落ち着きで口を開いた。
「お久しぶりですわ、モーガン様。……ええ、おかげさまで、私の心は驚くほど穏やかです」
「穏やか、ねぇ? あの、胸を引き裂かれるような情熱や、裏切られた絶望……あの『熱』が恋しくなることはないのかい?」
モーガンが顔を近づけ、エメラルダの瞳を覗き込む。
エメラルダは、困ったように少しだけ小首を傾げた。
「いいえ。あんなに苦しく、自分を制御できない日々に戻りたいとは思いません。今の私は、閣下を正しく敬い、息子を慈しみ、家を守ることに充足を感じております。……後悔など、どこにございましょう」
その言葉に、偽りはなかった。
彼女は本当に、愛という名の「呪い」から解き放たれたことを、心底から幸運だと思っているのだ。
「……もういい、話は終わりだ!」
ベルナルドが二人の間に割って入り、エメラルダを庇うようにして魔女を突き放した。
「彼女は満足している。私も、彼女を一生守ると決めた。君の負けだ、モーガン! 二度とこの屋敷に足を踏み入れるな!」
剣を抜かんばかりのベルナルドの剣幕に、モーガンは肩を揺らして笑い転げた。
「ひっ、ひひひ! 『アタシの負け』だって? おめでたい男だねぇ! 確かに彼女は後悔していない。賭けはアタシの負けかもしれない。……だがね、侯爵様。本当の地獄を味わっているのは、一体誰だい?」
モーガンは指を鳴らし、霧のように姿を消し始めた。
「愛を捨てて平穏を得た女と、愛を欲して抜け殻を抱き続ける男。……どっちが惨めか、夜の静寂の中でよく考えてみるんだねぇ」
魔女の声が消え、室内に元の静寂が戻った。
ベルナルドは荒い呼吸を整えながら、背後の妻を振り返った。
「エメラルダ、大丈夫か……。怖くはなかったか?」
「ええ、大丈夫ですわ、ベルナルド様。あの方はただ、お話しに来られただけでしょう?」
エメラルダは、ベルナルドの乱れた襟元を、いつものように優しく整えた。
その仕草には、一点の曇りもない。慈しみと、思いやりと、そして――完璧なまでの「空虚」が満ちていた。
「さあ、閣下。夜風が冷とうございます。風邪をお召しにならぬよう、温かいお茶を用意させましょう」
彼女は微笑み、静かに部屋を出て行った。
一人残されたベルナルドは、自分の手が激しく震えていることに気づいた。
魔女の言った通りだ。
エメラルダは救われた。彼女はもう二度と、自分の不実に泣くことはない。
その代わりに、自分は一生、この「慈悲深い他人」の隣で、彼女がかつて自分に向けていたはずの『熱』を夢見て、飢え続けていくのだ。
ベルナルドは暗闇の中で顔を覆い、音もなく慟哭した。
それが、彼が手に入れた「新しい夫婦の形」という名の、終わりのない罰だった。
夜、ふとした折に、ベルナルドはエメラルダの手を握りしめ、喉の奥から絞り出すように問うことがあった。
「エメラルダ……。私のことが、疎ましくはないか? こんなにも、君を縛り付けて」
エメラルダは、不思議そうに瞬きをした。そして、もう一方の手を夫の手の上に重ねる。その手のひらは、数年前よりもずっと落ち着いた、穏やかな熱を持っていた。
「どうしてそんなことを仰るのですか? あなたは私の大切な旦那様。私を救い、この家を守り、息子を共に育ててくれる、かけがえのないパートナーですわ。あなたが側にいてくれるだけで、私はこの上ない平穏を感じています」
「……平穏、か」
「ええ。これほど満たされた日々が来るとは、あの頃の私には想像もつきませんでした」
彼女は、かつて自分が血を吐くような思いで彼を追いかけていた日々を、まるで「他人の幼少期の思い出」のように語る。そこにはもう、苦痛の残滓すら残っていない。
ベルナルドは、彼女の額にそっと唇を寄せた。
彼は一生をかけて、この「凍りついた聖母」を追い続けるだろう。
かつて彼女がそうしてくれたように、今度は彼が、報われることのない愛を叫び続ける番なのだ。
二人は、庭園を歩く。
息子の笑い声が遠くから聞こえてくる。傍目には、これ以上なく幸福で、絆の深い、完璧な侯爵夫妻。
「行きましょう、ベルナルド様。晩餐の準備ができておりますわ」
「ああ、エメラルダ」
エメラルダの差し出した腕を、ベルナルドは離さないよう強く掴んだ。
彼女の中に、かつての「恋心」は戻らない。それでも、彼が彼女を愛することをやめない限り、この「追走劇」は終わらない。
それは、奪った男と、捨てた女が辿り着いた、新しくも残酷な愛の形。
夕闇が迫る中、二人の影は長く伸び、決して交わることのない平行線のまま、一つの大きな邸宅へと吸い込まれていった。
ハッピーエンド
____________
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ベルナルドが書斎で領地の書類に目を通していると、窓の外で不気味な青い火花が散った。突如として室内の温度が氷点下まで下がり、暖炉の火が激しく爆ぜる。
「……何の用だ、魔女モーガン」
ベルナルドはペンを置き、背後の闇を睨みつけた。そこには、数年前と変わらぬ不遜な笑みを浮かべた、北の魔女が立っていた。
「ひひっ、随分と険しい顔だねぇ、侯爵様。せっかく、あんたたちの『幸せな生活』が続いているか確認しに来てやったというのに」
「帰れ。君に見せる見世物など、ここにはない」
ベルナルドの拒絶を無視し、モーガンは音もなく部屋の扉を開けた。その先には、ちょうどリチャードを寝かしつけ、廊下を歩いてきたエメラルダの姿があった。
「おや、エメラルダ。久しぶりじゃないか。……アタシとの『賭け』の結果はどうだい? 愛を失って数年、後悔で首でも括っているかと思ったがね」
魔女の出現に、控えの侍女たちが悲鳴を上げて逃げ惑う中、エメラルダだけは驚く風もなく足を止めた。彼女は優雅に会釈し、まるで旧友を迎えるような落ち着きで口を開いた。
「お久しぶりですわ、モーガン様。……ええ、おかげさまで、私の心は驚くほど穏やかです」
「穏やか、ねぇ? あの、胸を引き裂かれるような情熱や、裏切られた絶望……あの『熱』が恋しくなることはないのかい?」
モーガンが顔を近づけ、エメラルダの瞳を覗き込む。
エメラルダは、困ったように少しだけ小首を傾げた。
「いいえ。あんなに苦しく、自分を制御できない日々に戻りたいとは思いません。今の私は、閣下を正しく敬い、息子を慈しみ、家を守ることに充足を感じております。……後悔など、どこにございましょう」
その言葉に、偽りはなかった。
彼女は本当に、愛という名の「呪い」から解き放たれたことを、心底から幸運だと思っているのだ。
「……もういい、話は終わりだ!」
ベルナルドが二人の間に割って入り、エメラルダを庇うようにして魔女を突き放した。
「彼女は満足している。私も、彼女を一生守ると決めた。君の負けだ、モーガン! 二度とこの屋敷に足を踏み入れるな!」
剣を抜かんばかりのベルナルドの剣幕に、モーガンは肩を揺らして笑い転げた。
「ひっ、ひひひ! 『アタシの負け』だって? おめでたい男だねぇ! 確かに彼女は後悔していない。賭けはアタシの負けかもしれない。……だがね、侯爵様。本当の地獄を味わっているのは、一体誰だい?」
モーガンは指を鳴らし、霧のように姿を消し始めた。
「愛を捨てて平穏を得た女と、愛を欲して抜け殻を抱き続ける男。……どっちが惨めか、夜の静寂の中でよく考えてみるんだねぇ」
魔女の声が消え、室内に元の静寂が戻った。
ベルナルドは荒い呼吸を整えながら、背後の妻を振り返った。
「エメラルダ、大丈夫か……。怖くはなかったか?」
「ええ、大丈夫ですわ、ベルナルド様。あの方はただ、お話しに来られただけでしょう?」
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その仕草には、一点の曇りもない。慈しみと、思いやりと、そして――完璧なまでの「空虚」が満ちていた。
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彼女は微笑み、静かに部屋を出て行った。
一人残されたベルナルドは、自分の手が激しく震えていることに気づいた。
魔女の言った通りだ。
エメラルダは救われた。彼女はもう二度と、自分の不実に泣くことはない。
その代わりに、自分は一生、この「慈悲深い他人」の隣で、彼女がかつて自分に向けていたはずの『熱』を夢見て、飢え続けていくのだ。
ベルナルドは暗闇の中で顔を覆い、音もなく慟哭した。
それが、彼が手に入れた「新しい夫婦の形」という名の、終わりのない罰だった。
夜、ふとした折に、ベルナルドはエメラルダの手を握りしめ、喉の奥から絞り出すように問うことがあった。
「エメラルダ……。私のことが、疎ましくはないか? こんなにも、君を縛り付けて」
エメラルダは、不思議そうに瞬きをした。そして、もう一方の手を夫の手の上に重ねる。その手のひらは、数年前よりもずっと落ち着いた、穏やかな熱を持っていた。
「どうしてそんなことを仰るのですか? あなたは私の大切な旦那様。私を救い、この家を守り、息子を共に育ててくれる、かけがえのないパートナーですわ。あなたが側にいてくれるだけで、私はこの上ない平穏を感じています」
「……平穏、か」
「ええ。これほど満たされた日々が来るとは、あの頃の私には想像もつきませんでした」
彼女は、かつて自分が血を吐くような思いで彼を追いかけていた日々を、まるで「他人の幼少期の思い出」のように語る。そこにはもう、苦痛の残滓すら残っていない。
ベルナルドは、彼女の額にそっと唇を寄せた。
彼は一生をかけて、この「凍りついた聖母」を追い続けるだろう。
かつて彼女がそうしてくれたように、今度は彼が、報われることのない愛を叫び続ける番なのだ。
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息子の笑い声が遠くから聞こえてくる。傍目には、これ以上なく幸福で、絆の深い、完璧な侯爵夫妻。
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「ああ、エメラルダ」
エメラルダの差し出した腕を、ベルナルドは離さないよう強く掴んだ。
彼女の中に、かつての「恋心」は戻らない。それでも、彼が彼女を愛することをやめない限り、この「追走劇」は終わらない。
それは、奪った男と、捨てた女が辿り着いた、新しくも残酷な愛の形。
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