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氷の公爵と秘密の盟約
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数日後、ロレンタ侯爵家の玄関先には、漆黒の馬車が停まっていた。
隣国マイセン公爵家。その嫡男であり、姉サンドラの婚約者であるアレックス・マイセン公爵令息が、正式な挨拶のために隣国から来訪したのだ。
屋敷の空気が一変する。アレックス様は「冷徹公爵」と噂される通り、表情一つ変えない氷のような美貌の持ち主だった。鋼色の髪に、深淵を思わせる鋭い灰色の瞳。彼が広間に足を踏み入れた瞬間、その圧倒的な威圧感に、出迎えた父やダニエルお兄様でさえ一瞬気圧されたほどだった。
だが、当の婚約者であるサンドラお姉様の態度は、不遜そのものだった。
「ご機嫌よう、アレックス様。遠路はるばる、ご苦労様ですこと」
形ばかりの礼を執る姉の瞳には、マキシム様を見つめる時のような熱は微塵もない。むしろ、目の前の誠実な男を「退屈な義務」として切り捨てる傲慢さが透けて見えた。
アレックス様は、姉の冷ややかな態度を静かに受け流し、その視線を私の元へと移した。
「……君が、次女のジュリア嬢か」
「はい。はじめまして、アレックス様。ジュリア・ロレンタにございます」
私が膝を折って礼を捧げると、彼の瞳に一瞬だけ、奇妙な光が宿った。
その日の夜。歓迎の晩餐会が終わった後、私は意を決して自室を抜け出した。
本来なら許されぬ行いだ。侯爵令嬢が、夜に、男性のもとを一人で訪ねるなど。けれど、昼間は常に人目があり、姉の婚約者である彼と話す機会など与えられなかった。――今夜を逃せば、もう二度と、この国では口を開けない。
手に握りしめているのは、先日盗み見てしまった彼の手紙。そして、私の運命を賭けた決意だった。
ゲスト用の書斎で一人、月の光を浴びながら書類に目を通していたアレックス様は、私の侵入を察して顔を上げた。
「――夜更かしが過ぎるな、ジュリア嬢。それとも、姉君からの言伝か?」
「いいえ、アレックス様。これは私個人の……いいえ、一人の学生としての身勝手な願いでございます」
私は彼に歩み寄り、盗み見た手紙を机に置いた。
「……これを読みました。お姉様に宛てられた、あなたの真摯な言葉を。そして胸が痛みました。この家で、あなたの想いだけが、あまりにも軽く扱われているように思えて」
「軽く、か」
アレックス様は自嘲気味に口角を上げた。
「政略結婚だ。相手が私に興味を持たないなど、織り込み済みだよ」
「いいえ、それだけではありません!」
私は震える声で、だがはっきりと言い放った。
「私、ジュリア・ロレンタは、婚約者であるマキシム様と、お姉様の不貞を告発いたします」
アレックス様の眉が、ピクリと動いた。
「……証拠はあるのか?」
「証拠は、今この時も、市井の宿屋で睦み合っている二人の姿そのものです。そして、マキシム様が私、親友、姉、そして他にも数多の女たちに配っている、この『特注』の香水。これが、彼が人々を欺き、共有している証拠です」
私は首筋に纏った香水を、彼に近い場所でわざと漂わせた。
アレックス様は立ち上がり、私との距離を詰める。彼の大きな手が、私の顎を優しく、だが逃がさない強さで掬い上げた。
「君は、何を企んでいる? 婚約者の不貞を、婚約者の義兄になる男に売って、何を得るつもりだ」
「自由です。そして、誠実さが報われる場所です」
私は彼の灰色の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「アレックス様。お姉様は、あなたを愛することはありません。彼女が望むのはマキシム様の毒だけ。なら、その願いを叶えて差し上げればよろしいわ。……お姉様の代わりに、私を隣国へ連れて行ってはいただけませんか?」
静寂が書斎を支配する。
アレックス様の視線は、私の唇から、覚悟を決めた瞳へと這うように動いた。
「君を身代わりにしろと言うのか? サンドラ嬢に裏切られ、傷ついた私の元へ」
「いいえ。私が、あなたを選びたいのです。あの手紙を書いた、あなたの魂を」
アレックス様は低く、愉悦を孕んだ声で笑った。氷のような美貌が、初めて温度を持って崩れる。
「面白い。……ジュリア、君は自分がどれほど危険なことを言っているか分かっているのか? 私は君の想像以上に執着心が強く、一度手に入れた獲物は死ぬまで離さない男だぞ」
「……望むところです」
その夜、私たちは一つの盟約を結んだ。
それは、裏切り者たちを奈落へ突き落とし、二人が新しい光を掴むための、残酷で美しい反逆の始まりだった。
一方その頃、宿屋の暗がりにいたマキシムは、背筋に走る言いようのない寒気に身を震わせていた。腕の中にいるサンドラの甘い囁きさえ、今はなぜか遠い雑音のように聞こえていた。
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隣国マイセン公爵家。その嫡男であり、姉サンドラの婚約者であるアレックス・マイセン公爵令息が、正式な挨拶のために隣国から来訪したのだ。
屋敷の空気が一変する。アレックス様は「冷徹公爵」と噂される通り、表情一つ変えない氷のような美貌の持ち主だった。鋼色の髪に、深淵を思わせる鋭い灰色の瞳。彼が広間に足を踏み入れた瞬間、その圧倒的な威圧感に、出迎えた父やダニエルお兄様でさえ一瞬気圧されたほどだった。
だが、当の婚約者であるサンドラお姉様の態度は、不遜そのものだった。
「ご機嫌よう、アレックス様。遠路はるばる、ご苦労様ですこと」
形ばかりの礼を執る姉の瞳には、マキシム様を見つめる時のような熱は微塵もない。むしろ、目の前の誠実な男を「退屈な義務」として切り捨てる傲慢さが透けて見えた。
アレックス様は、姉の冷ややかな態度を静かに受け流し、その視線を私の元へと移した。
「……君が、次女のジュリア嬢か」
「はい。はじめまして、アレックス様。ジュリア・ロレンタにございます」
私が膝を折って礼を捧げると、彼の瞳に一瞬だけ、奇妙な光が宿った。
その日の夜。歓迎の晩餐会が終わった後、私は意を決して自室を抜け出した。
本来なら許されぬ行いだ。侯爵令嬢が、夜に、男性のもとを一人で訪ねるなど。けれど、昼間は常に人目があり、姉の婚約者である彼と話す機会など与えられなかった。――今夜を逃せば、もう二度と、この国では口を開けない。
手に握りしめているのは、先日盗み見てしまった彼の手紙。そして、私の運命を賭けた決意だった。
ゲスト用の書斎で一人、月の光を浴びながら書類に目を通していたアレックス様は、私の侵入を察して顔を上げた。
「――夜更かしが過ぎるな、ジュリア嬢。それとも、姉君からの言伝か?」
「いいえ、アレックス様。これは私個人の……いいえ、一人の学生としての身勝手な願いでございます」
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「軽く、か」
アレックス様は自嘲気味に口角を上げた。
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「いいえ、それだけではありません!」
私は震える声で、だがはっきりと言い放った。
「私、ジュリア・ロレンタは、婚約者であるマキシム様と、お姉様の不貞を告発いたします」
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「証拠は、今この時も、市井の宿屋で睦み合っている二人の姿そのものです。そして、マキシム様が私、親友、姉、そして他にも数多の女たちに配っている、この『特注』の香水。これが、彼が人々を欺き、共有している証拠です」
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「君は、何を企んでいる? 婚約者の不貞を、婚約者の義兄になる男に売って、何を得るつもりだ」
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「アレックス様。お姉様は、あなたを愛することはありません。彼女が望むのはマキシム様の毒だけ。なら、その願いを叶えて差し上げればよろしいわ。……お姉様の代わりに、私を隣国へ連れて行ってはいただけませんか?」
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