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狂い始めた歯車
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アレックス様と秘密の盟約を結んだ翌朝から、私は憑き物が落ちたように穏やかな日々を過ごしていた。
あんなに苦しかった「裏切りの香り」も、今はもう、敵を欺くためのただの道具に過ぎない。私は淑女の仮面を完璧に被り、隣国への旅立ちに向けた準備を静かに進めていた。
だが、その変化を敏感に感じ取った者がいた。マキシム様だ。
「ジュリア、どうしたんだい? 最近、僕を見る目がどこか遠い気がするよ」
学園の放課後、我が家を訪れたマキシム様が、庭園のガゼボで私の手を握りしめた。
彼は焦っていた。リーザやマリアナ、そしてサンドラお姉様といった「過去の清算」がうまくいかず、彼女たちの嫉妬の矛先が私に向かうことを恐れている。そして何より、私という清純な光が、自分の指の間からこぼれ落ちそうになっている不安に突き動かされていた。
「そんなことはありませんわ、マキシム様。ただ、卒業を控えて、いろいろと考えてしまうのです」
「……卒業、か。そうだね。卒業すればすぐに結婚だ。そうすれば、誰にも邪魔されずに済む」
マキシム様の瞳に、粘りつくような執着の色が混じる。
「ああ、そうだ。今日は君に新しい宝石を持ってきたんだ。君の瞳の色と同じ、最高級のサファイアだよ」
差し出された箱の中には、重苦しいほど輝く青い宝石があった。
私はそれを手に取り、微笑んで見せた。
(サファイア……。確かリーザには、彼女の瞳の色のエメラルドを贈っていたわね)
彼にとって、宝石は愛の証ではなく、繋ぎ止めるための鎖なのだ。
その時、回廊を通りかかったアレックス様と視線がぶつかった。
彼は不快そうに眉を寄せ、マキシム様が私の手を握っている様子を冷徹な目で見つめていた。マキシム様はそれに対抗するように、私の肩を抱き寄せる。
「マイセン公爵令息。……まだこちらに滞在されていたのですか。サンドラ嬢との仲は、あまり進展していないようですが?」
マキシム様の挑発的な言葉。アレックス様は歩みを止めず、吐き捨てるように言った。
「……他人の庭を気にする暇があるなら、自分の足元が腐っていないか確かめることだ、ターロット侯爵令息」
アレックス様が去った後、マキシム様はひどく不機嫌そうに舌打ちをした。
「鼻持ちならない男だ。あんな氷のような男のどこが、ロレンタ家の婿に相応しいというんだ。サンドラも可哀想に」
どの口が言うのか。私はこみ上げる嫌悪感を押し殺し、わざとらしく溜息をついた。
「ええ。アレックス様は、とても厳しい方のようですわ。お姉様も、あの方と隣国へ行くのが恐ろしいとおっしゃっていました」
「そうだろう? ジュリア、君は僕が守る。あの男のような冷血漢に、君を怯えさせたりはしない」
マキシム様はそう言うと、私の首筋に顔を埋めた。
その瞬間、彼の服から微かに香ったのは、私の香水ではなく、もっと濃厚な――リーザが好む、媚びるような甘い香油の匂いだった。
その日の夜、マキシム様は一度屋敷を出たはずだったが、深夜に再び私の寝室のバルコニーに現れた。
「ジュリア……開けてくれ。どうしても君に会いたいんだ」
酔っているのか、声がひどく掠れている。
私は警戒して窓を開けなかった。
「マキシム様、夜分に失礼ですわ。お帰りください」
「頼む、ジュリア! 君がいないと、僕は狂ってしまいそうなんだ。あの女たちが……みんなが僕を責めるんだ。僕が愛しているのは君だけなのに!」
窓越しに聞こえる彼の声は、もはや愛の囁きではなく、追い詰められた獣の悲鳴だった。
彼は、女たちの匂わせと脅迫に疲れ果て、唯一の聖域であるはずの私に、無理やりにでも既成事実を作って逃げ込もうとしていた。
「開けないなら、壊してでも入るぞ!」
その時だった。
「――そこまでにしてもらおうか」
闇の中から、低い、重厚な声が響いた。
バルコニーの影から姿を現したのは、アレックス様だった。彼はマキシム様の襟首を掴み、易々と引き剥がした。
「マイセン公爵令息……!? なぜ君がここに!」
「不審な物音がしたものでね。婚約者の妹の寝所に夜這いをかけるとは、隣国の貴族として見過ごせん」
アレックス様の瞳には、紛れもない殺気が宿っていた。
彼は震えるマキシム様を冷たく見下ろし、私の方を向いて短く告げた。
「案ずるな、ジュリア嬢。……この男の始末は、私がつける」
窓越しに見つめ合う私とアレックス様。
彼の灰色の瞳が、「早くこちらへ来い」と言っているように見えた。
一方で、地面に這いつくばるマキシム様は、まだ自分が何を失おうとしているのか、本当の意味では理解していなかった。
______________
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あんなに苦しかった「裏切りの香り」も、今はもう、敵を欺くためのただの道具に過ぎない。私は淑女の仮面を完璧に被り、隣国への旅立ちに向けた準備を静かに進めていた。
だが、その変化を敏感に感じ取った者がいた。マキシム様だ。
「ジュリア、どうしたんだい? 最近、僕を見る目がどこか遠い気がするよ」
学園の放課後、我が家を訪れたマキシム様が、庭園のガゼボで私の手を握りしめた。
彼は焦っていた。リーザやマリアナ、そしてサンドラお姉様といった「過去の清算」がうまくいかず、彼女たちの嫉妬の矛先が私に向かうことを恐れている。そして何より、私という清純な光が、自分の指の間からこぼれ落ちそうになっている不安に突き動かされていた。
「そんなことはありませんわ、マキシム様。ただ、卒業を控えて、いろいろと考えてしまうのです」
「……卒業、か。そうだね。卒業すればすぐに結婚だ。そうすれば、誰にも邪魔されずに済む」
マキシム様の瞳に、粘りつくような執着の色が混じる。
「ああ、そうだ。今日は君に新しい宝石を持ってきたんだ。君の瞳の色と同じ、最高級のサファイアだよ」
差し出された箱の中には、重苦しいほど輝く青い宝石があった。
私はそれを手に取り、微笑んで見せた。
(サファイア……。確かリーザには、彼女の瞳の色のエメラルドを贈っていたわね)
彼にとって、宝石は愛の証ではなく、繋ぎ止めるための鎖なのだ。
その時、回廊を通りかかったアレックス様と視線がぶつかった。
彼は不快そうに眉を寄せ、マキシム様が私の手を握っている様子を冷徹な目で見つめていた。マキシム様はそれに対抗するように、私の肩を抱き寄せる。
「マイセン公爵令息。……まだこちらに滞在されていたのですか。サンドラ嬢との仲は、あまり進展していないようですが?」
マキシム様の挑発的な言葉。アレックス様は歩みを止めず、吐き捨てるように言った。
「……他人の庭を気にする暇があるなら、自分の足元が腐っていないか確かめることだ、ターロット侯爵令息」
アレックス様が去った後、マキシム様はひどく不機嫌そうに舌打ちをした。
「鼻持ちならない男だ。あんな氷のような男のどこが、ロレンタ家の婿に相応しいというんだ。サンドラも可哀想に」
どの口が言うのか。私はこみ上げる嫌悪感を押し殺し、わざとらしく溜息をついた。
「ええ。アレックス様は、とても厳しい方のようですわ。お姉様も、あの方と隣国へ行くのが恐ろしいとおっしゃっていました」
「そうだろう? ジュリア、君は僕が守る。あの男のような冷血漢に、君を怯えさせたりはしない」
マキシム様はそう言うと、私の首筋に顔を埋めた。
その瞬間、彼の服から微かに香ったのは、私の香水ではなく、もっと濃厚な――リーザが好む、媚びるような甘い香油の匂いだった。
その日の夜、マキシム様は一度屋敷を出たはずだったが、深夜に再び私の寝室のバルコニーに現れた。
「ジュリア……開けてくれ。どうしても君に会いたいんだ」
酔っているのか、声がひどく掠れている。
私は警戒して窓を開けなかった。
「マキシム様、夜分に失礼ですわ。お帰りください」
「頼む、ジュリア! 君がいないと、僕は狂ってしまいそうなんだ。あの女たちが……みんなが僕を責めるんだ。僕が愛しているのは君だけなのに!」
窓越しに聞こえる彼の声は、もはや愛の囁きではなく、追い詰められた獣の悲鳴だった。
彼は、女たちの匂わせと脅迫に疲れ果て、唯一の聖域であるはずの私に、無理やりにでも既成事実を作って逃げ込もうとしていた。
「開けないなら、壊してでも入るぞ!」
その時だった。
「――そこまでにしてもらおうか」
闇の中から、低い、重厚な声が響いた。
バルコニーの影から姿を現したのは、アレックス様だった。彼はマキシム様の襟首を掴み、易々と引き剥がした。
「マイセン公爵令息……!? なぜ君がここに!」
「不審な物音がしたものでね。婚約者の妹の寝所に夜這いをかけるとは、隣国の貴族として見過ごせん」
アレックス様の瞳には、紛れもない殺気が宿っていた。
彼は震えるマキシム様を冷たく見下ろし、私の方を向いて短く告げた。
「案ずるな、ジュリア嬢。……この男の始末は、私がつける」
窓越しに見つめ合う私とアレックス様。
彼の灰色の瞳が、「早くこちらへ来い」と言っているように見えた。
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