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裏切りの聖域
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深夜の騒動は、アレックス様の圧倒的な威圧感によって、静かに、しかし決定的な亀裂を孕んで幕を閉じた。
翌日、侯爵家のお茶会の席に現れたマキシム様は、昨夜の醜態を隠すように顔色が悪く、目の下には隈が浮き出ていた。一方、アレックス様は何事もなかったかのように優雅に紅茶を口にしている。その静寂が、かえってマキシム様の精神を削っていくのが分かった。
「……ジュリア、昨夜はすまなかった。少し、酒が過ぎたようで」
マキシム様が震える声で謝罪を口にする。隣に座る父は「若い頃にはよくあることだ」と苦笑いで済ませようとしていたが、兄ダニエルだけは、皿を叩くフォークの音を鋭く響かせた。
「酒のせいにするな、マキシム。お前がジュリアに何をしようとしたか、アレックス殿から聞いている。……親友として、これ以上は庇いきれんぞ」
「ダニエル! 君までそんな……」
その時だった。それまで黙って食事をしていた姉のサンドラが、ふっと冷ややかな笑みを漏らした。
「あら、お兄様。マキシム様を責めるなんてお門違いだわ。殿方が情熱を抑えきれなくなるのは、それだけ魅力的な方が目の前にいるからでしょう?」
サンドラはそう言って、私をじっと見つめた。その瞳には、かつて見たことのないほど激しい嫉妬の炎が揺らめいている。彼女は気づいていたのだ。マキシム様の心が、もはや単なる遊びではなく、狂気的なまでに私という存在に執着し始めていることに。そして、自分の婚約者であるはずのアレックス様が、自分ではなく私を注視していることに。
食事の後、私はアレックス様に誘われ、邸の図書室へと向かった。
表向きは「隣国の歴史について教示を受ける」ため。だが実態は、私たちの反撃に向けた密談だった。
「……昨夜は、ありがとうございました」
大きな書棚の影に入った瞬間、私はアレックス様に深く頭を下げた。
「礼には及ばん。だが、あの男はもう限界だ。追い詰められたネズミが何を仕掛けてくるか分からん。早めに、決定的な『証拠』を掴み、公の場で終わらせる必要がある」
アレックス様はそう言いながら、書棚の一角から一冊の古びた本を引き出した。それは、マキシム様がよく手に取っていた『狩猟の歴史』の本だった。
「君の姉君が、これを熱心に読んでいたと言っていたな」
彼がその本をパラパラと捲ると、中から数枚の紙片が滑り落ちた。それは、マキシム様からサンドラお姉様へ宛てた、密会の手紙の数々だった。
『今夜、いつもの場所で。君の香りが恋しい』
『ジュリアには、君に教わった通りの香水を贈ったよ。あの子がそれを纏うたび、僕は君を抱いている気分になる』
文字が、視界の中で歪む。分かっていたはずのことなのに、実際にその筆跡で綴られた悪意を目の当たりにすると、吐き気がした。マキシム様にとって、私は姉を思い出すための代用品でしかなかったのだ。
「ひどい……。ここまで、馬鹿にされていたなんて」
私の膝が崩れそうになった瞬間、アレックス様の強い腕が私を支えた。
「泣くな。そんな価値もない男だ」
彼の声は低く、冷たい。だが、その腕の温もりだけが、唯一の現実味を持って私を繋ぎ止めていた。
「ジュリア嬢。君の両親や兄君は、まだ彼らの不貞を信じたくないだろう。だが、この手紙……そして、今度の週末に行われる夜会での『決定的な場面』を見せつければ、もはや言い逃れはできん。その時、君は本当に、婚約者を捨てる覚悟があるか?」
アレックス様の灰色の瞳が、私の魂の奥底を覗き込むように射抜く。
私は、彼の胸元に縋り付くようにして、はっきりと頷いた。
「はい。私は、隣国へ参ります。それが、あなたが示してくださった誠実さに対する、私なりの答えです。この汚れた香りを、あなたの国の水で洗い流したいのです」
アレックス様は、私の背を大きな手で包み込み、耳元で低く囁いた。
「ならば、約束通り君を連れ去ろう。……誰の手も届かない、私の腕の中へ」
その光景を、書斎の扉の隙間から、誰かが覗き見ていたことには気づかなかった。サンドラお姉様が、怒りに顔を歪ませて拳を握りしめていることも。
そして、その背後で、焦燥感に駆られたマキシム様が、リーザから届いた「ジュリアにすべてを話す」という脅迫状を握り潰していることも――。
運命の夜会まで、あと三日。
裏切りの聖域であった図書室は、今や破滅の舞台へと変わりつつあった。
______________
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翌日、侯爵家のお茶会の席に現れたマキシム様は、昨夜の醜態を隠すように顔色が悪く、目の下には隈が浮き出ていた。一方、アレックス様は何事もなかったかのように優雅に紅茶を口にしている。その静寂が、かえってマキシム様の精神を削っていくのが分かった。
「……ジュリア、昨夜はすまなかった。少し、酒が過ぎたようで」
マキシム様が震える声で謝罪を口にする。隣に座る父は「若い頃にはよくあることだ」と苦笑いで済ませようとしていたが、兄ダニエルだけは、皿を叩くフォークの音を鋭く響かせた。
「酒のせいにするな、マキシム。お前がジュリアに何をしようとしたか、アレックス殿から聞いている。……親友として、これ以上は庇いきれんぞ」
「ダニエル! 君までそんな……」
その時だった。それまで黙って食事をしていた姉のサンドラが、ふっと冷ややかな笑みを漏らした。
「あら、お兄様。マキシム様を責めるなんてお門違いだわ。殿方が情熱を抑えきれなくなるのは、それだけ魅力的な方が目の前にいるからでしょう?」
サンドラはそう言って、私をじっと見つめた。その瞳には、かつて見たことのないほど激しい嫉妬の炎が揺らめいている。彼女は気づいていたのだ。マキシム様の心が、もはや単なる遊びではなく、狂気的なまでに私という存在に執着し始めていることに。そして、自分の婚約者であるはずのアレックス様が、自分ではなく私を注視していることに。
食事の後、私はアレックス様に誘われ、邸の図書室へと向かった。
表向きは「隣国の歴史について教示を受ける」ため。だが実態は、私たちの反撃に向けた密談だった。
「……昨夜は、ありがとうございました」
大きな書棚の影に入った瞬間、私はアレックス様に深く頭を下げた。
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アレックス様はそう言いながら、書棚の一角から一冊の古びた本を引き出した。それは、マキシム様がよく手に取っていた『狩猟の歴史』の本だった。
「君の姉君が、これを熱心に読んでいたと言っていたな」
彼がその本をパラパラと捲ると、中から数枚の紙片が滑り落ちた。それは、マキシム様からサンドラお姉様へ宛てた、密会の手紙の数々だった。
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文字が、視界の中で歪む。分かっていたはずのことなのに、実際にその筆跡で綴られた悪意を目の当たりにすると、吐き気がした。マキシム様にとって、私は姉を思い出すための代用品でしかなかったのだ。
「ひどい……。ここまで、馬鹿にされていたなんて」
私の膝が崩れそうになった瞬間、アレックス様の強い腕が私を支えた。
「泣くな。そんな価値もない男だ」
彼の声は低く、冷たい。だが、その腕の温もりだけが、唯一の現実味を持って私を繋ぎ止めていた。
「ジュリア嬢。君の両親や兄君は、まだ彼らの不貞を信じたくないだろう。だが、この手紙……そして、今度の週末に行われる夜会での『決定的な場面』を見せつければ、もはや言い逃れはできん。その時、君は本当に、婚約者を捨てる覚悟があるか?」
アレックス様の灰色の瞳が、私の魂の奥底を覗き込むように射抜く。
私は、彼の胸元に縋り付くようにして、はっきりと頷いた。
「はい。私は、隣国へ参ります。それが、あなたが示してくださった誠実さに対する、私なりの答えです。この汚れた香りを、あなたの国の水で洗い流したいのです」
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「ならば、約束通り君を連れ去ろう。……誰の手も届かない、私の腕の中へ」
その光景を、書斎の扉の隙間から、誰かが覗き見ていたことには気づかなかった。サンドラお姉様が、怒りに顔を歪ませて拳を握りしめていることも。
そして、その背後で、焦燥感に駆られたマキシム様が、リーザから届いた「ジュリアにすべてを話す」という脅迫状を握り潰していることも――。
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