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雪解けの予感と、蠢く影
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嵐の夜会から数日、ロレンタ侯爵邸は驚くほどの静寂に包まれていた。
サンドラお姉様は離れの塔に幽閉され、修道院への移送を待つ身となった。マキシム様はターロット侯爵家によって厳重に連れ戻されたが、放蕩の限りを尽くし、他国の公爵家との国際問題すら引き起こしかけた不祥事は、彼から次期侯爵としての地位を剥奪するには十分すぎる理由となった。
私は自室で、隣国マイセン公爵家へ発つための荷造りを進めていた。
華美なだけのドレスや、マキシム様から贈られたあの忌まわしい宝石たちは、すべて置いていくことに決めた。持っていくのは、最低限の着替えと、そしてアレックス様から贈られた真摯な手紙の数々だけだ。
「ジュリア。……少し、いいか?」
開け放たれた扉から入ってきたのは、ダニエルお兄様だった。
お兄様の顔には、かつての明るい快活さはなく、消えない罪悪感が色濃く刻まれていた。彼は、マキシムの裏切りを知りながら、それを「男の遊び」として軽んじていた自分を、今でも激しく責めているのだ。
「お兄様。出発の準備は、もうすぐ終わりますわ」
「……ああ。カメリアからも手紙が届いている。お前に会いたがっていたが、今はまだ混乱の最中だからと、出発の日に港で見送りたいと言っていたよ」
「カメリア……。彼女だけは、私の味方でいてくれましたものね」
お兄様は私の手元にある、隣国語の辞書をそっと撫でた。
「ジュリア。アレックス殿は、お前が思うよりもずっと、お前のことを高く評価している。……昨夜、彼と酒を酌み交わした。彼は『ジュリア嬢の語学力は、我が国の外交官にも劣らない。彼女はこの家の身代わりではなく、我が国の宝として迎えるつもりだ』と言ってくれたよ」
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
マキシム様にとって、私は「姉の身代わり」であり、「自分を飾るトロフィー」でしかなかった。けれどアレックス様は、私が暗闇の中で必死に磨いてきた教養を、一人の人間としての価値として認めてくださっている。
「私は、あの方を信じてみたいのです。……もう一度、人を信じるのは、とても怖いけれど」
「ああ。それでいい。……お前を二度と悲しませるなと、あいつには拳で語っておいたからな」
お兄様は少しだけ昔のように笑い、私の頭を乱暴に撫でて部屋を出ていった。
だが、邸が平和を取り戻そうとしている一方で、外の世界では「捨てられた者たち」の怨念が煮え滾っていた。
ターロット侯爵邸では、廃嫡が決まり、謹慎を命じられたマキシム様は、酒浸りになりながら、壁に貼られたジュリアの肖像画を、ナイフで何度も突き刺していた。
「……行かせない。あんな冷徹な男の元へ、僕のジュリアを渡すものか」
彼の瞳からは光が消え、底知れぬ狂気が宿っている。そこに、裏口から忍び込んだ一人の女がいた。
元親友の、リーザだ。彼女もまた、マキシムとの醜聞が広まったことで社交界から追放され、実家からも絶縁を言い渡されていた。
「マキシム……。あなたも、すべてを失ったのね。……あの子のせいで」
「リーザ……? そうだ、ジュリアだ。彼女が、アレックスと組んで僕を嵌めたんだ。彼女が僕を愛してさえいれば、こんなことには……!」
共通の憎しみを抱いた二人の間に、禍々しい連帯感が生まれる。
「隣国への国境を越える前に、馬車が通る森があるわ。……あの子、隣国の冬は厳しいからって、暖かい毛布をたくさん積み込ませているらしいわよ。重くなった馬車なら、足止めは簡単だわ」
「……ああ。ジュリアを連れ戻し、僕の地下室へ閉じ込めよう。そうすれば、また僕たちは『愛』を取り戻せる。リーザ、君も協力しろ。彼女を、徹底的に絶望させてやるんだ」
狂った二人の笑い声が、怪しく響く。
そして、修道院への移送車を待つサンドラもまた、番兵を色香で惑わし、ある「逃亡計画」を練っていた。
何も知らない私は、窓の外に広がる澄んだ青空を見つめていた。
隣国まで、あと三日の旅路。それが、私の人生を懸けた最後の戦いになるとは、まだ知る由もなかった。
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サンドラお姉様は離れの塔に幽閉され、修道院への移送を待つ身となった。マキシム様はターロット侯爵家によって厳重に連れ戻されたが、放蕩の限りを尽くし、他国の公爵家との国際問題すら引き起こしかけた不祥事は、彼から次期侯爵としての地位を剥奪するには十分すぎる理由となった。
私は自室で、隣国マイセン公爵家へ発つための荷造りを進めていた。
華美なだけのドレスや、マキシム様から贈られたあの忌まわしい宝石たちは、すべて置いていくことに決めた。持っていくのは、最低限の着替えと、そしてアレックス様から贈られた真摯な手紙の数々だけだ。
「ジュリア。……少し、いいか?」
開け放たれた扉から入ってきたのは、ダニエルお兄様だった。
お兄様の顔には、かつての明るい快活さはなく、消えない罪悪感が色濃く刻まれていた。彼は、マキシムの裏切りを知りながら、それを「男の遊び」として軽んじていた自分を、今でも激しく責めているのだ。
「お兄様。出発の準備は、もうすぐ終わりますわ」
「……ああ。カメリアからも手紙が届いている。お前に会いたがっていたが、今はまだ混乱の最中だからと、出発の日に港で見送りたいと言っていたよ」
「カメリア……。彼女だけは、私の味方でいてくれましたものね」
お兄様は私の手元にある、隣国語の辞書をそっと撫でた。
「ジュリア。アレックス殿は、お前が思うよりもずっと、お前のことを高く評価している。……昨夜、彼と酒を酌み交わした。彼は『ジュリア嬢の語学力は、我が国の外交官にも劣らない。彼女はこの家の身代わりではなく、我が国の宝として迎えるつもりだ』と言ってくれたよ」
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
マキシム様にとって、私は「姉の身代わり」であり、「自分を飾るトロフィー」でしかなかった。けれどアレックス様は、私が暗闇の中で必死に磨いてきた教養を、一人の人間としての価値として認めてくださっている。
「私は、あの方を信じてみたいのです。……もう一度、人を信じるのは、とても怖いけれど」
「ああ。それでいい。……お前を二度と悲しませるなと、あいつには拳で語っておいたからな」
お兄様は少しだけ昔のように笑い、私の頭を乱暴に撫でて部屋を出ていった。
だが、邸が平和を取り戻そうとしている一方で、外の世界では「捨てられた者たち」の怨念が煮え滾っていた。
ターロット侯爵邸では、廃嫡が決まり、謹慎を命じられたマキシム様は、酒浸りになりながら、壁に貼られたジュリアの肖像画を、ナイフで何度も突き刺していた。
「……行かせない。あんな冷徹な男の元へ、僕のジュリアを渡すものか」
彼の瞳からは光が消え、底知れぬ狂気が宿っている。そこに、裏口から忍び込んだ一人の女がいた。
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「マキシム……。あなたも、すべてを失ったのね。……あの子のせいで」
「リーザ……? そうだ、ジュリアだ。彼女が、アレックスと組んで僕を嵌めたんだ。彼女が僕を愛してさえいれば、こんなことには……!」
共通の憎しみを抱いた二人の間に、禍々しい連帯感が生まれる。
「隣国への国境を越える前に、馬車が通る森があるわ。……あの子、隣国の冬は厳しいからって、暖かい毛布をたくさん積み込ませているらしいわよ。重くなった馬車なら、足止めは簡単だわ」
「……ああ。ジュリアを連れ戻し、僕の地下室へ閉じ込めよう。そうすれば、また僕たちは『愛』を取り戻せる。リーザ、君も協力しろ。彼女を、徹底的に絶望させてやるんだ」
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そして、修道院への移送車を待つサンドラもまた、番兵を色香で惑わし、ある「逃亡計画」を練っていた。
何も知らない私は、窓の外に広がる澄んだ青空を見つめていた。
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