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逃げ場のない約束、静かなる包囲
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アマンド伯爵邸の図書室は、静寂に満ちていた。けれど、そこに座る私の心は、嵐の前の海のようにざわついている。
あの日、学園の茶会でシモンがノーマン兄様に放った言葉。「制度という名の枷」――。その不穏な響きが、耳の奥にこびりついて離れない。
「メルローズ、入ってもいいかな」
扉を叩いたのは、ノーマン兄様だった。けれど、その表情はいつもの穏やかさを失い、ひどく沈痛な趣を湛えている。
「……何があったのですか、お兄様」
「さっき、僕の父――アマンド伯爵のもとに、ローデン伯爵家から正式な『申し入れ』があった」
ノーマン兄様が私の前の椅子に腰を下ろし、深く溜息をつく。
「シモン君が、自身の相続権と引き換えに、ある提案を父上に承諾させたんだ。……彼は、ローデン伯爵家が握っているリンガー領の『輸出販売権』の半分を、永久的にアマンド伯爵家に譲渡すると申し出た」
私は息を呑んだ。リンガー領の葡萄は、我が家の命だ。そしてその流通を一手に握るローデン家の販売権は、莫大な利益を生む権利である。それをアマンド家に譲渡する。それは、伯父様にとって断ることのできない、あまりに巨額の利益を意味していた。
「条件は……一つだけだ」
ノーマン兄様の拳が、悔しそうに震えている。
「学園を卒業するのと同時に、君とシモン君の婚約を正式に発表すること。そして、それまでの間、君を再びローデン邸へ戻し、伯爵夫人としての教育を受けさせることだ……」
「……そんな」
血の気が引いていくのが分かった。
彼は「愛」で私を縛ることに失敗したから、今度は「家」と「利権」で私を縛りにきたのだ。伯父様がこれを受け入れれば、私はもう逃げることはできない。
「父上も、最初は渋っていた。けれど、シモン君はさらに付け加えたんだ。『もし断るなら、今後一切アマンド家との取引を停止し、リンガー家の葡萄もすべて自社で独占する』と。……それは、リンガー家の経済的な死を意味する」
シモンは、私が家族を愛していることを知っている。母様や弟のクロフォード、そしてリンガー家を守るためなら、私が自分を犠牲にすることを確信しているのだ。
かつての彼は、私を抱きしめて「離したくない」と泣いた。
今の彼は、冷徹な筆跡で契約書を書き上げ、「離さない」と状況を固定した。
どちらが残酷なのだろうか。
その日の夕方、迎えの馬車がアマンド邸の前に現れた。降りてきたのは、完璧な貴公子の微笑を浮かべたシモンだった。
「迎えに来たよ、メルローズ。……少し、遊びが長すぎたね」
彼の声には、以前のような刺々しさはなかった。けれど、その穏やかさこそが、獲物を逃がさない自信に満ちた捕食者の余裕に見えた。
「シモン……貴方、なんてことを」
「なんてこと? 俺は正当な商談をしただけだよ。お前の価値に相応しい代価を払った。……それとも、アマンドの兄上が恋しいかい?」
シモンが私の隣に寄り添い、腰に手を回す。
かつてのように無理やり引き寄せるのではない。けれど、拒絶を許さない、絶対的な重圧。
「……っ」
「さあ、帰ろう。母上も、クロフォードも待っている。……俺たちの、本当の家へ」
馬車に乗り込む際、私は振り返ってノーマンお兄様を見た。彼は唇を噛み締め、やりきれない表情で私を見送っていた。
さようなら、お兄様。私の唯一の安らぎだった場所。私は再び、シモンという名の、目に見えない鉄格子の中へと戻ることになった。
ローデン邸に戻った最初の夜。部屋を訪ねてきたシモンは、私が座るソファの前に膝をついた。
「……怖がらなくていい、メルローズ。お前を無理に抱くようなことはしない。卒業まではな」
彼は私の手を取り、甲にそっと唇を寄せた。
「その代わり、分かっているな? お前は俺の婚約者だ。もう二度と、あのアマンドの小倅に会うことは許さない。もし隠れて会うようなことがあれば……リンガー領の葡萄畑がどうなるか、想像したくないだろう?」
私は彼を見つめた。美しく、完璧で、冷徹な私の幼馴染。
「……貴方は、私を愛しているの? それとも、ただ私を支配したいだけ?」
シモンはふっと目を細め、どこか悲しげに微笑んだ。
「愛しているさ。狂おしいほどにな。支配したいという欲求も、俺にとっては愛の一部だ。お前が俺を憎もうと、構わない。俺の腕の中で憎んでくれるなら、それでいい」
シモンの指が、以前彼が噛みついた首筋の跡を、愛おしそうになぞる。
「消えかかっているな。……卒業の夜、そこに、もっと深く、一生消えない俺の印を刻んでやる。楽しみにしていてくれ」
彼はそれだけ言うと、部屋を出て行った。
カチリ、と扉が閉まる音。それは、私の人生がシモン・ローデンという男のものになったことを告げる、終わりの鐘のようだった。
学園卒業まで、あと一年。
私はシモンの「完璧な婚約者」として振る舞いながら、彼の放蕩が終わったことを世間に知らしめるための道具として、彼に同伴し続けることになる。
けれど、シモン。貴方はまだ知らない。貴方が外で他の女を抱いていたという事実が、どれほど深く私の心を切り裂いたままなのかを。
貴方が「汚したくない」と守った私の清らかさは、貴方自身の過ちによって、もうとっくにボロボロになっているのだということを。
静かな部屋の中、私はシモンの香水の匂いが残る自分の手を、何度もなんども洗い続けた。けれど、どんなに洗っても、彼に縛られたという感覚だけは、どうしても消えなかった。
______________
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あの日、学園の茶会でシモンがノーマン兄様に放った言葉。「制度という名の枷」――。その不穏な響きが、耳の奥にこびりついて離れない。
「メルローズ、入ってもいいかな」
扉を叩いたのは、ノーマン兄様だった。けれど、その表情はいつもの穏やかさを失い、ひどく沈痛な趣を湛えている。
「……何があったのですか、お兄様」
「さっき、僕の父――アマンド伯爵のもとに、ローデン伯爵家から正式な『申し入れ』があった」
ノーマン兄様が私の前の椅子に腰を下ろし、深く溜息をつく。
「シモン君が、自身の相続権と引き換えに、ある提案を父上に承諾させたんだ。……彼は、ローデン伯爵家が握っているリンガー領の『輸出販売権』の半分を、永久的にアマンド伯爵家に譲渡すると申し出た」
私は息を呑んだ。リンガー領の葡萄は、我が家の命だ。そしてその流通を一手に握るローデン家の販売権は、莫大な利益を生む権利である。それをアマンド家に譲渡する。それは、伯父様にとって断ることのできない、あまりに巨額の利益を意味していた。
「条件は……一つだけだ」
ノーマン兄様の拳が、悔しそうに震えている。
「学園を卒業するのと同時に、君とシモン君の婚約を正式に発表すること。そして、それまでの間、君を再びローデン邸へ戻し、伯爵夫人としての教育を受けさせることだ……」
「……そんな」
血の気が引いていくのが分かった。
彼は「愛」で私を縛ることに失敗したから、今度は「家」と「利権」で私を縛りにきたのだ。伯父様がこれを受け入れれば、私はもう逃げることはできない。
「父上も、最初は渋っていた。けれど、シモン君はさらに付け加えたんだ。『もし断るなら、今後一切アマンド家との取引を停止し、リンガー家の葡萄もすべて自社で独占する』と。……それは、リンガー家の経済的な死を意味する」
シモンは、私が家族を愛していることを知っている。母様や弟のクロフォード、そしてリンガー家を守るためなら、私が自分を犠牲にすることを確信しているのだ。
かつての彼は、私を抱きしめて「離したくない」と泣いた。
今の彼は、冷徹な筆跡で契約書を書き上げ、「離さない」と状況を固定した。
どちらが残酷なのだろうか。
その日の夕方、迎えの馬車がアマンド邸の前に現れた。降りてきたのは、完璧な貴公子の微笑を浮かべたシモンだった。
「迎えに来たよ、メルローズ。……少し、遊びが長すぎたね」
彼の声には、以前のような刺々しさはなかった。けれど、その穏やかさこそが、獲物を逃がさない自信に満ちた捕食者の余裕に見えた。
「シモン……貴方、なんてことを」
「なんてこと? 俺は正当な商談をしただけだよ。お前の価値に相応しい代価を払った。……それとも、アマンドの兄上が恋しいかい?」
シモンが私の隣に寄り添い、腰に手を回す。
かつてのように無理やり引き寄せるのではない。けれど、拒絶を許さない、絶対的な重圧。
「……っ」
「さあ、帰ろう。母上も、クロフォードも待っている。……俺たちの、本当の家へ」
馬車に乗り込む際、私は振り返ってノーマンお兄様を見た。彼は唇を噛み締め、やりきれない表情で私を見送っていた。
さようなら、お兄様。私の唯一の安らぎだった場所。私は再び、シモンという名の、目に見えない鉄格子の中へと戻ることになった。
ローデン邸に戻った最初の夜。部屋を訪ねてきたシモンは、私が座るソファの前に膝をついた。
「……怖がらなくていい、メルローズ。お前を無理に抱くようなことはしない。卒業まではな」
彼は私の手を取り、甲にそっと唇を寄せた。
「その代わり、分かっているな? お前は俺の婚約者だ。もう二度と、あのアマンドの小倅に会うことは許さない。もし隠れて会うようなことがあれば……リンガー領の葡萄畑がどうなるか、想像したくないだろう?」
私は彼を見つめた。美しく、完璧で、冷徹な私の幼馴染。
「……貴方は、私を愛しているの? それとも、ただ私を支配したいだけ?」
シモンはふっと目を細め、どこか悲しげに微笑んだ。
「愛しているさ。狂おしいほどにな。支配したいという欲求も、俺にとっては愛の一部だ。お前が俺を憎もうと、構わない。俺の腕の中で憎んでくれるなら、それでいい」
シモンの指が、以前彼が噛みついた首筋の跡を、愛おしそうになぞる。
「消えかかっているな。……卒業の夜、そこに、もっと深く、一生消えない俺の印を刻んでやる。楽しみにしていてくれ」
彼はそれだけ言うと、部屋を出て行った。
カチリ、と扉が閉まる音。それは、私の人生がシモン・ローデンという男のものになったことを告げる、終わりの鐘のようだった。
学園卒業まで、あと一年。
私はシモンの「完璧な婚約者」として振る舞いながら、彼の放蕩が終わったことを世間に知らしめるための道具として、彼に同伴し続けることになる。
けれど、シモン。貴方はまだ知らない。貴方が外で他の女を抱いていたという事実が、どれほど深く私の心を切り裂いたままなのかを。
貴方が「汚したくない」と守った私の清らかさは、貴方自身の過ちによって、もうとっくにボロボロになっているのだということを。
静かな部屋の中、私はシモンの香水の匂いが残る自分の手を、何度もなんども洗い続けた。けれど、どんなに洗っても、彼に縛られたという感覚だけは、どうしても消えなかった。
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