政略結婚した浮気男が、今さら本気で愛を囁いてきます!

恋せよ恋

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ベルネール伯爵邸で過ごす夜

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 ベルネール伯爵邸の長い廊下が、まっすぐに延びていた。壁には季節の花の刺繍が飾られ、厚手の絨毯が足音を静かに包み込む。

「――こちらが、ロクサーヌ様のお部屋でございます」

 侍女長のクラリスが、静かに扉を開ける。磨き抜かれた真鍮のノブが、日差しを反射して柔らかく光った。

 中に足を踏み入れた瞬間、ロクサーヌは心地よい温かさを感じた。

 壁は落ち着いたアイボリー。窓辺ではレースのカーテンが揺れ、淡い金糸の刺繍がきらめいている。
 マホガニーのライティングデスクにはインクと便箋が整えられ、隣には猫脚のアームチェアと、季節の花を生けた陶器の花瓶。

――華美ではない。けれど、どこまでも上品で、心が安らぐ。

「まあ……素敵なお部屋ですわ」
 ロクサーヌが小さく微笑むと、クラリスは嬉しそうに頭を下げた。

「ありがとうございます。このお部屋は、もともと“将来の若奥様”をお迎えするために整えてございました。家具はすべて、アルベール様が学院をご卒業なさった際に新調されたものでございます」

「……アルベール様が?」

「ええ。『いずれ誰かを迎える時、きちんと気持ちよく過ごせるように』と」

 ロクサーヌは、ほんの少しだけ心が痛んだ。
(あの方には、学院時代に婚約者がいらしたはず……その方のためかしら)

 だが表情には出さず、ロクサーヌは微笑んでまっすぐクラリスを見る。
「そう……。ありがとう。……お名前を伺っても?」

「申し遅れました。私は侍女長のクラリスでございます」
「クラリスね。覚えたわ。これからよろしくお願いするわね」
 クラリスは穏やかに微笑み、深く頭を下げた。

(……昔の私なら、名を尋ねることすらしなかったでしょうね)

 ロクサーヌは、心の中で静かに呟く。

 五歳から十年。第三王子ニコラス殿下の王子妃を目指し、超一級の教育を受けてきた。
礼儀作法、外交術、詩学、舞踏、そして政治。一度聞いたことは忘れない――オッティ侯爵家の娘として叩き込まれた知識。

 けれど、この一年の謹慎で学んだ。

 高慢さは誇りではなく、鎧だったこと。そして、真の気高さとは――他者を見下ろすことではなく、敬う心を忘れないことなのだと。

____その時、ノックの音が響いた。

 「ロクサーヌ様。失礼いたします」

 クラリスが扉を開けると、そこに立っていたのは家令のエティエンヌ・バルモンだった。

「お部屋に不備はございませんか? お疲れでなければ、邸内のご案内を兼ねて、当家の使用人たちをご紹介させていただきたく存じます」
 穏やかな声で続け、家令は丁寧に頭を下げる。

「本日より、ロクサーヌ様を“若奥様”としてお迎えいたします。屋敷の使用人一同、アルベール様と同様、誠心誠意お仕えいたしますので――どうぞ、末永くよろしくお願いいたします」

 ロクサーヌは、思わず姿勢を正した。ベルネール伯爵家が本気で自分を“受け入れようとしている”ことを、言葉ではなく空気で悟る。

(……ああ。わたしは、ベルネール伯爵夫人となるのだわ)

 頭で理解するより先に、心が婚姻を受け入れていた。

「こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします。慣れるまではご迷惑をおかけするかもしれませんが、この家の一員として恥じぬよう努めますわ」

 その微笑みに、老家令は静かに目を細めた。

「……さすがは、かつて王子妃候補でいらした方。そのお言葉だけで、この屋敷の未来が明るくなったように感じます」

 クラリス侍女長は、そんな二人を見つめながら胸の内でそっと呟いた。

(ああ――これでようやく、アルベール坊ちゃんも落ち着かれるかもしれない)



「洗濯場はこちらです」
「ありがとう、クラリス侍女長。あなたの隣の方――お名前は?」

「え? …… ええと、ロッタと申します……」
「ロッタね。覚えたわ」

 使用人たちがざわめいた。この屋敷に来てまだ一時間も経っていないというのに、ロクサーヌはすでに十人以上の使用人の名前を正確に呼び分けていた。

 貴族は、良い生活の対価として義務を負う。それが――ノブレス・オブリージュ。平民は、国と領地を支える大切な存在。
 その信念が、今のロクサーヌを形作っていた。

 背筋を伸ばして歩く彼女の姿は、上品で、優雅で、気高い。けれど同時に、どこか柔らかく、温かい。

 その様子を、少し離れた場所から眺めていたアルベールは、思わず口笛を吹いた。
「……なるほど。これは、誰も敵わないな」

 美しくて、強くて、気高くて――それでいて、ちゃんと“人を見ている”。

 アルベールの胸の奥が、またひとつ、きゅんと鳴った。


 その夜。ベルネール伯爵邸の一室に、ランプの柔らかな灯りが揺れていた。

 ロクサーヌは、鏡の前に座っていた。髪をほどき、装飾を外し、昼間の「令嬢の顔」をすべて脱ぎ捨てた姿で。

 鏡に映るのは、見慣れたはずの自分――けれど、その瞳だけが、かつてと決定的に違っていた。

(私は……王子妃にはなれなかった)

 第三王子ニコラス殿下。幼き日から、人生の進路として疑いもしなかった未来。それを失った痛みは、今も確かに胸の奥に残っている。

 ロクサーヌは、そっと鏡の中の自分を見据えた。

(けれど、私は“何者にもなれなかった”わけではない)

 傲慢だった過去。誇りと呼んでいた、ただの驕り。王妃の褒賞を叩き落とした、取り返しのつかない愚行。

 すべてを思い出し、逃げずに受け止めて――それでも、ここに立っている。

 ベルネール伯爵家は、私を拒まなかった。
 アルベールという男性は、過去も噂も含めて、私を“人として”迎えようとしている。

(ならば)

 ロクサーヌは、背筋を伸ばした。それは誰に見せるでもない、自分自身への宣言だった。

(私は、この家の若奥様として生きる。逃げずに、腐らずに――今度は本物の誇りを築く)

 王子妃でなくともいい。誰かの理想でなくともいい。
 鏡の中のロクサーヌは、静かに、しかし確かに強い光を宿していた。

 ――これは、敗北の夜ではない。彼女が「選び直した」夜だった。
______________

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