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空席の重み
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アナスタシアが、幼馴染であるトルドー公爵令息ライナスの二十歳を祝う祝賀会に出席するため、ローゼンタール王国へと旅立ってから、ひと月が過ぎていた。
その頃、ローザリア王国の王宮では、重臣たちが揃って頭を抱えていた。
閣議の場に、重苦しい沈黙が落ちる。
沈黙を破ったのは、財務大臣だった。
「陛下……こちらの教育政策についてですが」
分厚い書類の束を手に、財務大臣は慎重に言葉を選んだ。
「アナスタシア様の指示書によりますと、『王都の平民を対象とした新校舎の設立費用は、貿易による差益を還元する形で賄う』、と明記されております」
そこで一度、言葉を切り、大きく息を吸った。
「しかし――ルナリア王国が関税を引き上げました。その影響で、当初見込んでいた歳入の確保が困難な状況となっております」
書類を伏せ、静かに問いを投げる。
「……この場合、どの予算を調整なさいますか?」
閣議の場に集う視線が、一斉に両陛下と王太子へと向けられた。
シリルは、思わず言葉を失った。
(――アナスタシアなら……)
彼女であれば、関税引き上げの背景を即座に分析し、代替となる財源を示しただろう。
あるいは、教育計画の優先順位を整理し、地方負担と王都予算の再配分を提案しただろうか。
だが、その名は、今この場にいない。
王妃セザンヌは、玉座の傍らで沈黙を守っていた。その表情は厳しく、そしてどこか苦い。
「……王太子殿下?」
財務大臣の声に促され、シリルはようやく口を開いた。
「……少し、時間をもらいたい」
その一言に、重臣たちの間を不安が走る。
“少し考える”ーー それは、これまでアナスタシアが決して口にしなかった言葉だった。
王宮の執務も、議会の閣議も、確かに動いている。
だが、歯車の中心が一つ欠けただけで、これほどまでに軋むとは――。
誰も、声には出さなかった。
だが、皆が同じことを思っていた。
――彼女は、いなくなって初めて、その重さを知らしめたのだ。
シリルは、机上に広げられた数枚の指示書に視線を落としたまま、黙り込んでいた。
そこに記された端正な文字は、迷いがなく、冷静で、そして――容赦がない。
(……なぜ、今ここにいないのか)
指示は正しい。今この状況でも、彼女ならば同じ結論を導いただろう。
だからこそ、苛立ちが募る。
理屈では理解できる。
だが、決断の重みを引き受ける者が、今は自分しかいない。
「……くそ」
小さく吐き捨てるように呟き、シリルは椅子の背にもたれた。
彼女がいないという事実そのものが、判断を鈍らせ、神経を逆撫でする。
( 君がいれば、こんな迷いは……)
思考が、無意識に彼女の姿を探してしまうことに、さらに苛立つ。
頼る資格など、もうないというのに。
翌日の閣議室には、重苦しい沈黙が落ちていた。
関税増加、予算不足、代替案――どれも机上では正しいが、決定打に欠ける。
重臣たちの視線が、自然と玉座の方へ集まる。
しかし、そこに“答え”はない。
――その時だった。
「……アナスタシア様なら」
ぽつり、と。
誰かが、考えるより先に口にしてしまった。
一瞬で、空気が凍りつく。
発言した本人は、はっとして口をつぐんだ。
だが、もう遅い。
誰もが、その名を“待っていた”ことを悟ってしまった。
「アナスタシア様なら、こう仰ったでしょうな」
老齢の文官が、観念したように続ける。
「短期の不足に囚われるな、と。
貿易差益が減るなら、国内循環を一時的に強めよ、と……」
別の重臣が、苦笑混じりにうなずく。
「ええ。教育投資は止めるな、とも」
「“人材は最も回収率の高い資本です”……でしたな」
言葉が、次々と重なっていく。
まるで彼女が、この場にいるかのように。
シリルは、黙ってそれを聞いていた。
やがて、ゆっくりと視線を落とし、机の引き出しから一冊の薄い書類の束を取り出す。
――アナスタシアの指示書。
端正な文字。
簡潔で、無駄がなく、それでいて温度のある文面。
シリルは、静かに一枚をめくった。
「……ここだ」
低く呟く。
「“外的要因で想定が崩れた場合、目的を見失わないこと。教育政策の目的は、次代の自立だ”」
指が、紙の端をきゅっとつかむ。
「……いなくなってなお、僕に決断を迫る。君は本当に、容赦がないな」
苦笑とも、嘆息ともつかない声。
彼女はここにいない。
だが――彼女の思考だけは、確かにこの場を支配していた。
シリルは顔を上げ、重臣たちを見渡す。
「方針は変えない。アナスタシアの案を基軸に、修正を加える」
誰も異を唱えなかった。
それが、最善だと――全員が、分かってしまったからだ。
沈黙を破ったのは、年かさの重臣だった。
「……せん越ながら、申し上げてもよろしいでしょうか」
誰もが、言葉を続けるべきか迷っていた。
だが、最初の重臣は、意を決したように続ける。
「……正直に申し上げます。あの方に、早急に戻ってきていただきたい」
その一言は、嘆願だった。
「国のため、というだけではありません。――我々が、あの方の判断力に、どれほど支えられていたか…… 失って、ようやく思い知りました」
シリルは、目を伏せたまま、何も言わなかった。
否定できなかった。誰よりも、その事実を突きつけられているのは、自分だったからだ。
わずかな不在の間でさえ、彼女は、この国の中枢に影を落とし続けている。その存在感は、今もなお、決断の場に静かに残り続けていた。
――失ったことそのものが、罰のように、重く胸にのしかかっていた。
______________
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その頃、ローザリア王国の王宮では、重臣たちが揃って頭を抱えていた。
閣議の場に、重苦しい沈黙が落ちる。
沈黙を破ったのは、財務大臣だった。
「陛下……こちらの教育政策についてですが」
分厚い書類の束を手に、財務大臣は慎重に言葉を選んだ。
「アナスタシア様の指示書によりますと、『王都の平民を対象とした新校舎の設立費用は、貿易による差益を還元する形で賄う』、と明記されております」
そこで一度、言葉を切り、大きく息を吸った。
「しかし――ルナリア王国が関税を引き上げました。その影響で、当初見込んでいた歳入の確保が困難な状況となっております」
書類を伏せ、静かに問いを投げる。
「……この場合、どの予算を調整なさいますか?」
閣議の場に集う視線が、一斉に両陛下と王太子へと向けられた。
シリルは、思わず言葉を失った。
(――アナスタシアなら……)
彼女であれば、関税引き上げの背景を即座に分析し、代替となる財源を示しただろう。
あるいは、教育計画の優先順位を整理し、地方負担と王都予算の再配分を提案しただろうか。
だが、その名は、今この場にいない。
王妃セザンヌは、玉座の傍らで沈黙を守っていた。その表情は厳しく、そしてどこか苦い。
「……王太子殿下?」
財務大臣の声に促され、シリルはようやく口を開いた。
「……少し、時間をもらいたい」
その一言に、重臣たちの間を不安が走る。
“少し考える”ーー それは、これまでアナスタシアが決して口にしなかった言葉だった。
王宮の執務も、議会の閣議も、確かに動いている。
だが、歯車の中心が一つ欠けただけで、これほどまでに軋むとは――。
誰も、声には出さなかった。
だが、皆が同じことを思っていた。
――彼女は、いなくなって初めて、その重さを知らしめたのだ。
シリルは、机上に広げられた数枚の指示書に視線を落としたまま、黙り込んでいた。
そこに記された端正な文字は、迷いがなく、冷静で、そして――容赦がない。
(……なぜ、今ここにいないのか)
指示は正しい。今この状況でも、彼女ならば同じ結論を導いただろう。
だからこそ、苛立ちが募る。
理屈では理解できる。
だが、決断の重みを引き受ける者が、今は自分しかいない。
「……くそ」
小さく吐き捨てるように呟き、シリルは椅子の背にもたれた。
彼女がいないという事実そのものが、判断を鈍らせ、神経を逆撫でする。
( 君がいれば、こんな迷いは……)
思考が、無意識に彼女の姿を探してしまうことに、さらに苛立つ。
頼る資格など、もうないというのに。
翌日の閣議室には、重苦しい沈黙が落ちていた。
関税増加、予算不足、代替案――どれも机上では正しいが、決定打に欠ける。
重臣たちの視線が、自然と玉座の方へ集まる。
しかし、そこに“答え”はない。
――その時だった。
「……アナスタシア様なら」
ぽつり、と。
誰かが、考えるより先に口にしてしまった。
一瞬で、空気が凍りつく。
発言した本人は、はっとして口をつぐんだ。
だが、もう遅い。
誰もが、その名を“待っていた”ことを悟ってしまった。
「アナスタシア様なら、こう仰ったでしょうな」
老齢の文官が、観念したように続ける。
「短期の不足に囚われるな、と。
貿易差益が減るなら、国内循環を一時的に強めよ、と……」
別の重臣が、苦笑混じりにうなずく。
「ええ。教育投資は止めるな、とも」
「“人材は最も回収率の高い資本です”……でしたな」
言葉が、次々と重なっていく。
まるで彼女が、この場にいるかのように。
シリルは、黙ってそれを聞いていた。
やがて、ゆっくりと視線を落とし、机の引き出しから一冊の薄い書類の束を取り出す。
――アナスタシアの指示書。
端正な文字。
簡潔で、無駄がなく、それでいて温度のある文面。
シリルは、静かに一枚をめくった。
「……ここだ」
低く呟く。
「“外的要因で想定が崩れた場合、目的を見失わないこと。教育政策の目的は、次代の自立だ”」
指が、紙の端をきゅっとつかむ。
「……いなくなってなお、僕に決断を迫る。君は本当に、容赦がないな」
苦笑とも、嘆息ともつかない声。
彼女はここにいない。
だが――彼女の思考だけは、確かにこの場を支配していた。
シリルは顔を上げ、重臣たちを見渡す。
「方針は変えない。アナスタシアの案を基軸に、修正を加える」
誰も異を唱えなかった。
それが、最善だと――全員が、分かってしまったからだ。
沈黙を破ったのは、年かさの重臣だった。
「……せん越ながら、申し上げてもよろしいでしょうか」
誰もが、言葉を続けるべきか迷っていた。
だが、最初の重臣は、意を決したように続ける。
「……正直に申し上げます。あの方に、早急に戻ってきていただきたい」
その一言は、嘆願だった。
「国のため、というだけではありません。――我々が、あの方の判断力に、どれほど支えられていたか…… 失って、ようやく思い知りました」
シリルは、目を伏せたまま、何も言わなかった。
否定できなかった。誰よりも、その事実を突きつけられているのは、自分だったからだ。
わずかな不在の間でさえ、彼女は、この国の中枢に影を落とし続けている。その存在感は、今もなお、決断の場に静かに残り続けていた。
――失ったことそのものが、罰のように、重く胸にのしかかっていた。
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