婚約破棄された王宮女官―人違いの媚薬の夜から、側近公爵令息の執着が始まりました

恋せよ恋

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拒まれなかった、その距離

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 時は緩やかに過ぎ、あの夜から一年の年月が経った――。

「オレーリア、ノーフォーク伯爵領の小麦の生産量は右肩上がりだ。不作の年に備えた備蓄も、すでに整っている。小麦を使った加工品の出荷も増産傾向だが……できれば、もう一手、何か欲しいところだな」

「そうですね……クッキー以外にも、日持ちのするものがあればよいのですが……。王都に到着するまで一週間。何か良い案はありませんでしょうか?」

 オレーリアは、手元の報告書から視線を上げ、静かに考え込んだ。

 ――小麦はある。
 ――加工技術もある。
 ――問題は「時間」と「輸送」だ。

 焼き菓子は人気がある。だが、湿気に弱く、長旅には向かない。塩蔵は保存が利くが、嗜好品としては弱い。

「……“乾かす”のではなく、“閉じ込める”という手は?」

 ぽつりと漏れた独り言に、エドワードが眉を上げた。

「閉じ込める?」

「ええ。水分を飛ばすのではなく、空気を遮断するのです。油、あるいは蜜。小麦を粉にして焼いたあと、完全に冷ましてから、油脂で包む……」

 オレーリアは指先で机を軽く叩きながら、思考を組み立てていく。

「例えば――硬く焼いた小麦菓子を、澄ましバターで密封する。空気に触れなければ、カビも進みにくい。味も落ちにくく、腹持ちも良い」

「……保存食でありながら、嗜好品にもなる、か」

 エドワードは小さく唸った。

「はい。兵の携行食にもなりますし、街道の商人にも売れます。王都に届くまで一週間……十分、持ちます」

 そして、オレーリアは一拍置いて、視線を上げた。

「さらに言えば――“ノーフォークの保存菓子”として名を売れます。無言で信を積み上げていく品になります」

 エドワードは、その言葉の意味を即座に理解した。

 飢饉の年でも届く。
 戦の後でも配れる。
 そして、「あの伯爵領は備えがある」と知らしめる象徴になる。

「……なるほどな」

 口元に、わずかな笑みが浮かぶ。

「小麦は武器にならんが、保存食は武器になる、というわけだ」

「ええ。剣より静かで、けれど確実に効きます」

 その夜、ノーフォーク伯爵領では、試作第一号の保存菓子が焼かれた。




 エドワードは、この一年、オレーリアとの距離を詰めあぐねていた。

 かつて自分が犯した過ち――名を与えぬまま胸の底に沈め続けてきた“罪”が、今もなお、彼の一歩を縛っている。

 罪悪感と執着が絡み合った感情は、いつしか恋情と独占欲へと姿を変えていた。

 それでも最近、オレーリアの表情から、かつての強張りは消えている。肩に入っていた力も抜け、すれ違いざまに視線が合うことが増えた。

 ほんの一瞬――彼を確かめるように向けられるその眼差しに、エドワードは思わず息を詰める。

 彼の言葉に、小さく笑い返してくれることもある。そのたびに、胸の奥に沈めてきた“あの夜”の記憶が、鈍く疼いた。

 王宮ですれ違うか、月に一度のノーフォーク領の報告会と、その後のお茶会。
 二人の接点は、それだけだ。

 テーブル越しに向けられる穏やかな微笑み。
 カップを置く指先の動き。
 何気ない仕草のひとつひとつが、彼の理性を少しずつ削っていく。

 正直なところ、エドワードは焦れていた。もう一歩、関係を進めたい。手を伸ばせば届く距離に、彼女はいる。

――だが、その手で触れていいのか。かつて、自分が傷つけた相手に。

 その迷いは今も、彼の胸の奥で、静かに息をしている。

◇◇◇

 その夜、エドワードの胸を占めていたのは、ウィリアムの名だった。

 談笑する二人の姿。オレーリアが見せた、あの無防備な微笑み――自分のものではない、と突きつけられたような感覚が、理性を削った。

 王宮で割り当てられた部屋へ戻る回廊で、エドワードが足を止めたのは、ほとんど衝動だった。

 偶然を装うには、あまりに拙い間だった。それでも、彼は声をかけてしまった。

「……オレーリア」

 彼女は驚いたように瞬きをしたが、拒まなかった。

 扉が閉まる。
 それだけで、逃げ道は消える。

 エドワードは何も言わなかった。言えば、壊れてしまう気がしたからだ。

 ただ、そっと手を伸ばす。触れた肩は強張らず、振り払われることもない。

 ――同意は、沈黙の中にあった。

 彼は乱暴にはしなかった。確かめるように、壊さぬように、指先で距離を詰めていく。

 オレーリアもまた、言葉を発さなかった。視線を伏せたまま、逃げることも、応えることもせず、ただ受け入れている。

 口づけは、なかった。
 名を呼ぶことも、会話も。

 それでも、二人の距離は戻れないところまで近づいていた。

 それが愛なのか、嫉妬の延長なのか、それとも贖罪のつもりだったのか――答えは、どこにもなかった。

 ただ、静かに夜が更け、朝になれば、何事もなかった顔で向き合わねばならない関係だけが、そこに残った。




 翌日の報告会の間、エドワードは一度もオレーリアを正面から見なかった。

 見れば、壊れる。
 見れば、昨夜の沈黙が、すべて言葉を持って蘇る。

(……俺は、何をした)

 衝動だった。ウィリアムの存在に、胸の奥を抉られた瞬間、理性が遅れた。
 拒まれなかったことが、救いであり、同時に罪だった。
 もし、あのとき彼女が一言でも拒んでいたら。あるいは、名を呼んでいたら。

 ――どれほど、楽だっただろう。

 彼女は何も言わなかった。だからこそ、エドワードは奪った側になった。

(優しくした、だと?)

 そんな言い訳が、通じるはずもない。優しさは、免罪符にはならない。それでも。ウィリアムが彼女の隣に立った瞬間、胸の奥で、はっきりと黒い感情が蠢いた。

(……触れるな)

 理不尽だと、わかっている。昨夜、自分は何も約束していない。関係を定義する言葉すら、口にしていない。

 それなのに。彼女が自分以外に向けて微笑むことが、耐え難い。

(独占したい)

 そう思ってしまった時点で、もう遅かった。後悔と、欲望と、過去の罪が絡まり合い、エドワードは初めて悟る。

――昨夜の行為よりも、この感情のほうが、よほど取り返しがつかない、と。




 エドワードと別れ、部屋に戻ってから、オレーリアは何度も深呼吸をした。

(落ち着いて。考えましょう)

――優しかった。
――視線を逸らしていた。
――何も言わなかった。

 事実だけを並べれば、感情は切り離せるはずだった。なぜ、胸の奥が、こんなにも静かに熱いのか。

 嫌悪は、なかった。恐怖も、怒りも。

 あるのは、触れられた記憶と、それを否定しきれない自分自身。

(違う)

 オレーリアは、強く首を振った。

(私は――)

 彼に傷つけられた過去がある。忘れたふりをしてきただけで、消えたわけではない。なのに、『好意』という言葉が、何度も、思考の縁に浮かんでは消える。

(この想いが育ってしまったら、どうするの)

 それは、自分を裏切ることだ。過去の自分を、軽んじることだ。この気持ちを整理しようとすればするほど、感情は形を持ち始めてしまう。

 ――エドワード様が……好き?

 結論を出すには、心が、あまりにも正直すぎた。

 そのとき、ふと、ウィリアムの声が脳裏をよぎる。

『お前を傷つけた男で、いいのか?』

 答えは、まだ出ない。ただ一つだけ、はっきりしていることがあった。――このままでは、何もなかった顔で、エドワード様と向き合うことは、もうできない。

________________

エドワードが嫌いな方、ごめんなさい🙏
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📣 新連載スタート!
【口づけした同期の騎士が、
慕っていた女の先輩と一線を越えていました。
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