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砂の城が崩れる音
その懐中時計は、去年のシモン様の十六歳の誕生日に、私が一年がかりで職人に特注したものだった。
パルマン侯爵家の象徴である「獅子」と、私の瞳の色である「オリーブ」をあしらった細工。蓋の裏には、目立たないように二人のイニシャルを刻んでもらった。
――『セシリア、これは僕の宝物だ。時を刻むたびに、君のことを思い出すよ』。
あの日、照れくさそうに笑って時計を胸ポケットに収めた彼の姿を、私は今でも鮮明に覚えている。その言葉を信じていた自分を、今の私は、憐れみすら覚えるほどの愚か者だと思う。
パルマン侯爵邸の廊下で、私は立ち止まった。
今日は、父から託された公式な「婚約解消の意志を示す書面」を届けに来た。シモン様が「今はそんな場合じゃない」と逃げ続けるため、もはや公文書として突きつけるしかなかったのだ。
ふと、図書室の扉が半開きになっているのが見えた。
そこから漏れ聞こえてくるのは、いつものように甘ったるい、けれどどこか焦りを含んだヘンリエッタ様の声だった。
「……シモン様。わたくし、不安で指先が震えてしまうの。何か、貴方の体温を感じられるものを、わたくしに預けてはいただけないかしら。お守り代わりに……」
「ヘンリエッタ様……。君は本当に、僕がいないとダメな人だね」
シモン様の、蕩けるような甘い声。
次の瞬間、私の耳に届いたのは、カチリ、というあの懐中時計独特の蓋の開閉音だった。
「これを持っていて。僕が大切にしていた時計だ。これを眺めて、僕がいつも君のことを考えていると、そう信じて待っていてほしい」
「まあ……! なんて美しい細工。これをわたくしに? 本当にいいの……?」
「ああ。君に安らぎを与えられるなら、時計の一つくらい安いものだ」
――安いもの。
私が、彼のために職人の元へ何度も足を運び、図案を練り、貯めた小遣いを注ぎ込んだあの日々。彼が「宝物だ」と誓ったあの誓い。
そのすべてが、今、私の目の前で「安いもの」として別の女性の手に渡された。
(……ああ。終わったのね)
心の中で、何かが「プツン」と切れる音がした。
それは悲鳴ですらなく、ただ、張り詰めていた糸が力なく千切れたような、あまりにも静かな音だった。
私は、扉を叩くことすらせず、その場を離れた。
怒りはなかった。涙も出なかった。ただ、自分の中の「シモン」という存在が、形を失って崩れ落ち、ただの醜い泥の塊に変わっていくのを感じていた。
それから数刻後。
パルマン侯爵邸の広間に、沈痛な空気が満ちた。
隣国の沿岸警備隊から派遣された使いが、テーブルの上に一つの布包みを置いた。
「……沈没地点から数十マイル離れた岩場で、これを発見いたしました」
震える手でそれを開いたパルマン侯爵が、絶句して顔を覆った。
そこにあったのは、血と海水に汚れ、無惨に歪んだパスカル様のカフスボタンと――彼が常に肌身離さず持っていた、家督継承者の証である印章の指輪だった。
「そんな……。兄上が、本当に……」
シモン様がよろめき、傍らの椅子に縋り付く。
遺体こそ見つかっていないが、この指輪が岩場に残されているということは、生存の望みが絶望的であることを意味していた。
その時だった。
それまで静かに泣いていたヘンリエッタ様が、突然、狂ったような悲鳴を上げてシモン様の胸に飛び込んだ。
「嫌よ! 嘘だわ! パスカル様が死んでしまうなんて……。そんなの、わたくし、もう生きていけない! シモン様、お願い、わたくしを今すぐ殺して! あの人のいない世界で独りぼっちにされるくらいなら、いっそ……!」
彼女はシモン様の服を掴み、激しく泣き崩れた。
その瞳の奥には、確かに絶望があった。――だが、それは愛する人を失った絶望ではない。
「婚約者」という絶対的な後ろ盾を失い、侯爵夫人の座が永遠に手の届かない場所へ消えたことへの、執着ゆえの絶望。
シモン様は、そんな彼女の本性に気づくはずもなく、感極まった表情で彼女を強く抱きしめた。
「ヘンリエッタ様! 死ぬなんて言わないでください! 兄上は……兄上は不幸だったが、君には僕がいる! 僕が君を、一生離さない! 君の人生も、君の心も、すべて僕が背負うから!」
嫡男を失ったばかりの侯爵邸で、二人は「悲劇の恋人たち」を演じ、陶酔し、互いの温もりに逃げ込んだ。
パルマン侯爵でさえ、目の前の凄惨な遺留品に打ちひしがれ、息子たちの無作法を咎める気力さえ失っている。
私は、広間の隅でその光景を眺めていた。
シモン様。
あなたが今、その腕で温めているのは、私の真心を踏みにじって譲った懐中時計と、兄を裏切った背徳感から逃げるための虚像ですわ。
そしてヘンリエッタ様。
あなたが「生きていけない」と縋り付くその男は、あなたが最も欲しがっている「侯爵」の座を、もう二度とあなたに与えることはできません。
なぜなら。
私は、テーブルの上に置かれた「遺留品」を、誰にも気づかれないように観察した。
カフスボタンの裏側、微かに残る不自然な傷跡。それは、かつてパスカル様が「もしもの時」の合図として私に教えてくれた、特定の暗号の形に似ていた。
(――『潮が満ちた。網を引け』)
この遺留品は、パスカル様が放った「餌」だ。
偽りの死をもって、彼は自分を裏切り、見捨てた者たちの本性を焙り出そうとしている。
私は、二人の睦まじい姿に背を向けた。私の中のシモン様への恋心は、もう塵一つ残っていない。
あるのは、冷酷なまでに冴え渡った頭脳と、自分を蔑んだ者たちへの容赦ない断罪の意志。
「……お幸せに、シモン様。あなたが望んだ通り、私は一人で、強く生きていきますわ」
私は、誰にも聞こえない声で呟いた。
さあ、パスカル様。
あなたが仕掛けたこの残酷な舞台、私が最後の一幕まで、完璧に演じきって差し上げましょう。
パルマン侯爵邸を出ると、夜風は驚くほど冷たかった。
けれど、私の足取りは、三年間の呪縛から解き放たれたように、かつてないほど軽やかだった。
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パルマン侯爵家の象徴である「獅子」と、私の瞳の色である「オリーブ」をあしらった細工。蓋の裏には、目立たないように二人のイニシャルを刻んでもらった。
――『セシリア、これは僕の宝物だ。時を刻むたびに、君のことを思い出すよ』。
あの日、照れくさそうに笑って時計を胸ポケットに収めた彼の姿を、私は今でも鮮明に覚えている。その言葉を信じていた自分を、今の私は、憐れみすら覚えるほどの愚か者だと思う。
パルマン侯爵邸の廊下で、私は立ち止まった。
今日は、父から託された公式な「婚約解消の意志を示す書面」を届けに来た。シモン様が「今はそんな場合じゃない」と逃げ続けるため、もはや公文書として突きつけるしかなかったのだ。
ふと、図書室の扉が半開きになっているのが見えた。
そこから漏れ聞こえてくるのは、いつものように甘ったるい、けれどどこか焦りを含んだヘンリエッタ様の声だった。
「……シモン様。わたくし、不安で指先が震えてしまうの。何か、貴方の体温を感じられるものを、わたくしに預けてはいただけないかしら。お守り代わりに……」
「ヘンリエッタ様……。君は本当に、僕がいないとダメな人だね」
シモン様の、蕩けるような甘い声。
次の瞬間、私の耳に届いたのは、カチリ、というあの懐中時計独特の蓋の開閉音だった。
「これを持っていて。僕が大切にしていた時計だ。これを眺めて、僕がいつも君のことを考えていると、そう信じて待っていてほしい」
「まあ……! なんて美しい細工。これをわたくしに? 本当にいいの……?」
「ああ。君に安らぎを与えられるなら、時計の一つくらい安いものだ」
――安いもの。
私が、彼のために職人の元へ何度も足を運び、図案を練り、貯めた小遣いを注ぎ込んだあの日々。彼が「宝物だ」と誓ったあの誓い。
そのすべてが、今、私の目の前で「安いもの」として別の女性の手に渡された。
(……ああ。終わったのね)
心の中で、何かが「プツン」と切れる音がした。
それは悲鳴ですらなく、ただ、張り詰めていた糸が力なく千切れたような、あまりにも静かな音だった。
私は、扉を叩くことすらせず、その場を離れた。
怒りはなかった。涙も出なかった。ただ、自分の中の「シモン」という存在が、形を失って崩れ落ち、ただの醜い泥の塊に変わっていくのを感じていた。
それから数刻後。
パルマン侯爵邸の広間に、沈痛な空気が満ちた。
隣国の沿岸警備隊から派遣された使いが、テーブルの上に一つの布包みを置いた。
「……沈没地点から数十マイル離れた岩場で、これを発見いたしました」
震える手でそれを開いたパルマン侯爵が、絶句して顔を覆った。
そこにあったのは、血と海水に汚れ、無惨に歪んだパスカル様のカフスボタンと――彼が常に肌身離さず持っていた、家督継承者の証である印章の指輪だった。
「そんな……。兄上が、本当に……」
シモン様がよろめき、傍らの椅子に縋り付く。
遺体こそ見つかっていないが、この指輪が岩場に残されているということは、生存の望みが絶望的であることを意味していた。
その時だった。
それまで静かに泣いていたヘンリエッタ様が、突然、狂ったような悲鳴を上げてシモン様の胸に飛び込んだ。
「嫌よ! 嘘だわ! パスカル様が死んでしまうなんて……。そんなの、わたくし、もう生きていけない! シモン様、お願い、わたくしを今すぐ殺して! あの人のいない世界で独りぼっちにされるくらいなら、いっそ……!」
彼女はシモン様の服を掴み、激しく泣き崩れた。
その瞳の奥には、確かに絶望があった。――だが、それは愛する人を失った絶望ではない。
「婚約者」という絶対的な後ろ盾を失い、侯爵夫人の座が永遠に手の届かない場所へ消えたことへの、執着ゆえの絶望。
シモン様は、そんな彼女の本性に気づくはずもなく、感極まった表情で彼女を強く抱きしめた。
「ヘンリエッタ様! 死ぬなんて言わないでください! 兄上は……兄上は不幸だったが、君には僕がいる! 僕が君を、一生離さない! 君の人生も、君の心も、すべて僕が背負うから!」
嫡男を失ったばかりの侯爵邸で、二人は「悲劇の恋人たち」を演じ、陶酔し、互いの温もりに逃げ込んだ。
パルマン侯爵でさえ、目の前の凄惨な遺留品に打ちひしがれ、息子たちの無作法を咎める気力さえ失っている。
私は、広間の隅でその光景を眺めていた。
シモン様。
あなたが今、その腕で温めているのは、私の真心を踏みにじって譲った懐中時計と、兄を裏切った背徳感から逃げるための虚像ですわ。
そしてヘンリエッタ様。
あなたが「生きていけない」と縋り付くその男は、あなたが最も欲しがっている「侯爵」の座を、もう二度とあなたに与えることはできません。
なぜなら。
私は、テーブルの上に置かれた「遺留品」を、誰にも気づかれないように観察した。
カフスボタンの裏側、微かに残る不自然な傷跡。それは、かつてパスカル様が「もしもの時」の合図として私に教えてくれた、特定の暗号の形に似ていた。
(――『潮が満ちた。網を引け』)
この遺留品は、パスカル様が放った「餌」だ。
偽りの死をもって、彼は自分を裏切り、見捨てた者たちの本性を焙り出そうとしている。
私は、二人の睦まじい姿に背を向けた。私の中のシモン様への恋心は、もう塵一つ残っていない。
あるのは、冷酷なまでに冴え渡った頭脳と、自分を蔑んだ者たちへの容赦ない断罪の意志。
「……お幸せに、シモン様。あなたが望んだ通り、私は一人で、強く生きていきますわ」
私は、誰にも聞こえない声で呟いた。
さあ、パスカル様。
あなたが仕掛けたこの残酷な舞台、私が最後の一幕まで、完璧に演じきって差し上げましょう。
パルマン侯爵邸を出ると、夜風は驚くほど冷たかった。
けれど、私の足取りは、三年間の呪縛から解き放たれたように、かつてないほど軽やかだった。
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