ねえ、騎士様。妻の持参金で愛人を囲うのはどんな気分かしら?

恋せよ恋

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彼女を想う男の怒り

  翌朝、マレーネ子爵邸の執務室には、いつも通り、いや、いつも以上に規則正しいペンの音が響いていた。

「奥様、顔色がよろしいようで安心いたしました。ですが、まだ病み上がりなのですから、あまりご無理は……」

「いいえ、いいのよマリア。溜まった汚れは、早いうちに片付けてしまいたいから」

 ミランダは侍女のマリアに微笑みかけた。その微笑みは、かつての慈愛に満ちたものではなく、冷徹なまでに研ぎ澄まされた刃の輝きを帯びている。

 ミランダの手元には、数冊の帳簿が並んでいた。

 一つは、表向きの子爵家の帳簿。

 もう一つは、ミランダが個人的に管理している「伯爵家からの融資及び持参金の運用記録」。

 そして最後の一つは、ここ数年、義母ナタリーが私的に流用した資金と、セバスチャンが「騎士団の交際費」という名目で、別邸の女・デボラに注ぎ込んだ金の明細だ。

「……ふふ。本当に、私のお金を湯水のように使ってくださったのね」

 ミランダは、淡々と作業を進める。

 まず、レーゲン伯爵家の名義で子爵家に貸し付けていた低金利の融資、そのすべての「即時返還」を求めるための通告書を作成した。契約書には、ミランダが倒れるなどの「管理不備」や「不貞による信頼失墜」があった場合、一括返済を求めることができるという条項を、彼女自身がひっそりと忍ばせておいたのだ。

 さらに、彼女は家政の鍵を握る使用人たちのうち、信頼できる者たちにだけ、密かに「退職金」と「次の職場」を提示した。

「この家は、まもなく空っぽになります。私と一緒に来るか、伯爵家が用意する別の屋敷へ移るか……選びなさい」

 彼らは二つ返事でミランダに忠誠を誓った。横暴な義母と、愛人にうつつを抜かす当主に愛想を尽かしていたのは、彼女だけではなかったのだ。

「さあ、外堀は埋まったわ。あとは……『彼』が動いてくれるのを待つだけ」

 ミランダは、窓の外を眺めた。彼女のSOSを受け取った「最強の味方」が待っているはずだ。


  一方、王宮の一角にある外務補佐官室。

 そこは、通常の執務室とは比較にならないほどの冷気に包まれていた。

「……アーサー、お前、顔が怖いぞ」

 親友のギルバートが声をかけるが、アーサー・エバンスは手元の書類から目を離さない。彼の瞳は、獲物を屠る直前の猛禽類のように鋭く、静かな怒りに燃えていた。

「ギル。マレーネ子爵が、赴任先で平民の女を囲っていた件だが、証拠はすべて揃った。彼は騎士団の公費を、その女との逢瀬のための旅費として改ざんしている。これは立派な『公金横領』だ」

「さすがは外務補佐官様だな。仕事が早い」

 アーサーは、デスクの上に山積みになった調査資料を、慈しむように……いや、呪うように撫でた。
 
 彼にとって、ミランダは聖域だった。

 学園時代、彼女の凛とした美しさと、誰に対しても誠実な姿に一目惚れした。しかし、彼女はセバスチャンという男を選んだ。アーサーは、彼女が「幸せになる」と信じたからこそ、自分の恋心に何重もの鍵をかけ、激務という名の檻に自分を閉じ込めてきたのだ。

 それなのに。
 
「僕が、どれだけの思いで彼女を諦めたと思っているんだ……。あんな、恩知らずの寄生虫に、彼女を泣かせる権利などない」

 アーサーの低い声が室内に響く。

 彼はすでに、外務補佐官としての権限をフルに活用していた。

 セバスチャンが所属する第三騎士団の上層部へ、彼の不祥事に関する「匿名」の『裏付け付き告発状』を送付済み。

 さらに、セバスチャンの浮気相手・デボラの実家が、マレーネ家からの金で不当に土地を買い上げている事実を掴み、税務当局に査察を入れさせた。

 アーサーの復讐は、単なる離縁では終わらない。

 セバスチャン・マレーネという男の、社会的地位、名誉、財産、そして「騎士」というプライド――そのすべてを、塵ひとつ残さず焼き尽くすつもりだった。

「ギル、ミランダ嬢の子供たちの件だが。……もし彼女が望むなら、僕が養子として迎え、嫡男として教育する準備もできている。エバンス家の爵位は僕が継ぐことにした。兄上には、別の領地を用意して納得させたよ」

「おいおい、アーサー……お前、本気か? 独身を貫いていたのは、この時のためだったのか?」

「当たり前だ。彼女が、僕の手の届かないところで幸せなら、僕は一生影で良かった。だが、彼女が泥を投げつけられているというのなら、僕はその泥ごと彼女を抱きしめて、僕の隣に座らせるまでだ」

 アーサーは、ミランダから届いた手紙のコピーにそっと指先を触れた。

 『お掃除の時間ですわ』

 その一言が、どれほどの絶望と決意の中で綴られたか。それを思うだけで、胸が張り裂けそうになる。

「待っていてください、ミランダ。……今度こそ、僕があなたを、本当の意味で『守られるべき場所』へ連れて行く」

 アーサーの瞳には、狂気にも似た深い愛が宿っていた。

 マレーネ子爵邸では、何も知らないセバスチャンが、義母ナタリーと軽快な会話を交わしていた。

「母上、ミランダがすっかり元気になって、またバリバリ働いていますよ。やっぱり彼女は、ああして帳簿を睨んでいるのが性に合っているんだ。デボラも『奥様は立派な方ですね』と感心していましたよ」

「ふん、当然よ。私の宝石の代金も、明日には振り込めるわ。あの子、私に『心に残る贈り物をする』なんて言っていたわよ。ようやく私への敬意を覚えたのかしらね」

 笑い合う母子。

 彼らの足元で、マレーネ子爵家という土台がすでに「消滅」していることに気づく者は、まだ誰もいなかった。
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