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反撃の鐘が鳴る
その朝、王都の空は抜けるように青く澄んでいた。
ヤスミン男爵夫人の別邸で、最高級のシルクに包まれて目覚めたセバスチャンは、至福の充足感の中にいた。隣には幼いデボラが安らかな寝息を立て、数時間前まで共に杯を交わしたヤスミンの残り香が漂っている。
「……さて、戻るか。今日はミランダから『贈り物』が届く日だからな」
セバスチャンは鼻歌まじりに身支度を整えた。
有能で、完璧で、自分に尽くすためだけに存在しているような妻。彼女が病み上がりの顔で用意した「贈り物」は、一体どれほど高価なものだろうか。宝石か、それとも新たな領地への投資権利か。
彼は、何もかもを手に入れた「勝者」の足取りで、愛するデボラを別邸に残し、本邸へと馬車を走らせた。
だが、マレーネ子爵邸の正門をくぐった瞬間、セバスチャンは奇妙な違和感に襲われた。
いつもなら門番が即座に駆け寄り、庭師が忙しなく立ち働いているはずの庭が、不気味なほど静まり返っている。噴水の水は止まり、手入れの行き届いていたはずの花々は、まるで放置された墓標のように寒々しく見えた。
「どうした……? 皆、どこへ行ったんだ」
玄関を開けても、執事が迎えに来ることはなかった。
広大なホールには、セバスチャンの足音だけが虚しく響く。キッチンから漂うはずの朝食の匂いも、三歳のニコラスの元気な声も、一歳のエメリアの泣き声も。
すべてが、一夜にしてこの屋敷から「消失」していた。
「セバスチャン! セバスチャン、どこにいるの!!」
二階から、金切り声が聞こえてきた。義母のナタリーだ。
母は、寝巻きのまま、髪を振り乱して階段を駆け下りてきた。その手には、一枚の紙が握られている。
「どうしたんですか、母上。ミランダはどうした? 子供たちは?」
「ミランダなんて知らないわよ! あいつ、とんでもないことをしてくれたわ! 今朝、宝石商が来たのよ。注文していたあのネックレスを届けてくれると思ったのに……あいつらが持ってきたのは、宝石じゃなくて『差し押さえ通告書』だったのよ!!」
「……何ですって?」
「それだけじゃないわ! この屋敷の使用人たちが全員、荷物をまとめて消えたの! 『契約解除の合意書』と『退職金』はミランダ様からいただきましたって、書き置きだけ残して!」
セバスチャンの血の気が、一気に引いていった。彼は母を突き飛ばすようにして、ミランダの執務室へと駆け込んだ。
部屋は、完璧に整理されていた。
いつも彼女が座っていた机の上には、数通の封筒が整然と並べられている。
セバスチャンは震える手で、自分の名が書かれた封筒を破り捨てた。中から出てきたのは、彼が想像していた「贈り物」ではなかった。
『離縁状:不貞の証拠及び公金横領の資料を添えて』
『マレーネ子爵家への全融資、即時全額返済請求書:レーゲン伯爵家代行弁護士印』
『第三騎士団よりの召喚状:横領疑惑による即時停職命令』
膝から崩れ落ちそうになるセバスチャンの目に、ミランダの直筆で記された追伸が飛び込んできた。
『ねえ、騎士様。私の持参金で愛人を囲うのはどんな気分かしら?
あなたのおっしゃる通り、私は強い女ですわ。ですから、自分を害する「ゴミ」を掃除することに、一切の躊躇はありません。
あなたが愛したその「癒やし」と共に、更地になったマレーネ家で、心ゆくまで「息苦しくない人生」を楽しんでくださいな。
追伸。私の金で買ったその服、その靴、そしてその命の次に大切な「騎士の称号」。……すべて返していただきますわ。お掃除の時間ですもの』
「ああ……あああああ!!!」
セバスチャンは絶叫した。
その時、屋敷の外から重々しい馬車の音が聞こえてきた。ミランダが戻ってきたのか? 謝れば許してくれるのか?彼は希望に縋るように玄関へ飛び出した。
だが、そこにいたのはミランダではなかった。
漆黒の馬車から降りてきたのは、王国の「氷の麒麟児」と呼ばれるギルバート・レーゲン。そして、その隣には、軍服を完璧に着こなした外務補佐官、アーサー・エバンスが立っていた。
「……セバスチャン・マレーネ。公金横領、及びレーゲン伯爵家に対する詐欺罪の疑いで、同行を願う」
アーサーの声は、冷徹な死神の宣告のようだった。彼は一歩、セバスチャンに近づくと、その耳元で、獲物を屠る猛禽のような低い声で囁いた。
「……ミランダを、僕がどれほどの思いで諦めたと思っている。貴様のような寄生虫が、彼女を『息苦しい』と言って踏みにじった罪……。その命をかけても、償いきれると思うなよ」
アーサーの瞳に宿る、静かな、しかし凄まじい狂気。
セバスチャンは腰を抜かし、石畳の上に這いつくばった。
「待ってくれ! これは誤解だ! ミランダ! ミランダを出してくれ! 僕は彼女を愛しているんだ!」
「愛、だと? よくその口が回るな」
ギルバートが冷たく吐き捨てた。
「お前が愛人と笑い合っている間に、ミランダは子供たちを連れて、すでに我が家の領地へと発った。……お前との縁は、昨日の夜で完全に切れている」
「そんな……嘘だ……」
そこへ、一台の安っぽい馬車が到着した。中から現れたのは、泣き腫らした顔のデボラだった。
「セバスチャン様! 助けてください! 別邸に急に怖い人が来て、荷物を全部外に放り出されたんです! 『この家はもう子爵家の所有物ではない、伯爵家が回収した』って……!」
「デ、デボラ……」
さらに、追いかけるようにして豪華な……しかしどこか時代遅れの馬車が止まった。
ヤスミン男爵夫人が、蒼白な顔で降りてくる。
「セバスチャン様! 大変ですわ! 夫に……夫に、あなたとの関係がバレましたの! 匿名の密告状と、昨夜の密会の証拠写真が届いたって……私、離縁されるどころか、修道院へ送られるって……!」
阿鼻叫喚の地獄絵図。
かつて、ミランダの犠牲の上に築かれていた「偽りの幸福」は、柱を失った瞬間に、文字通り音を立てて崩壊していった。
数刻後。王都から遠く離れた、レーゲン伯爵家の美しい別邸。
ミランダは、陽光が差し込むテラスで、ニコラスとエメリアが芝生の上で遊ぶ姿を眺めていた。
その隣には、仕事を早々に切り上げ、彼女を追ってきたアーサーが、かつてないほど柔らかな表情で立っている。
「……ミランダ。もう、大丈夫ですよ。あの屋敷も、あの男も、あなたの世界から完全に消し去りました」
ミランダは、手にした紅茶を一口飲み、静かに微笑んだ。その微笑みは、心の底から湧き上がる、真の平穏だった。
「ええ、アーサー様。……本当に、お掃除を済ませたら、お部屋がこんなに広くて明るいことに気づきましたわ」
「これからは、僕があなたの部屋を、光と花だけで満たしてみせます。……あなたが二度と、息苦しいなんて感じないように」
アーサーは、ミランダの細い指先をそっと取り、誓いを立てるように唇を寄せた。
ミランダは拒まなかった。
遠いどこかで、すべてを失ったセバスチャンが、空っぽの屋敷で絶叫し続けていることだろう。だが、その声はもう、ミランダの耳には届かない。
ハッピーエンド
__________
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📢✨新連載【いつか捨てられる日のために――浮気者の婚約者に、さよならの準備をしています】
ヤスミン男爵夫人の別邸で、最高級のシルクに包まれて目覚めたセバスチャンは、至福の充足感の中にいた。隣には幼いデボラが安らかな寝息を立て、数時間前まで共に杯を交わしたヤスミンの残り香が漂っている。
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有能で、完璧で、自分に尽くすためだけに存在しているような妻。彼女が病み上がりの顔で用意した「贈り物」は、一体どれほど高価なものだろうか。宝石か、それとも新たな領地への投資権利か。
彼は、何もかもを手に入れた「勝者」の足取りで、愛するデボラを別邸に残し、本邸へと馬車を走らせた。
だが、マレーネ子爵邸の正門をくぐった瞬間、セバスチャンは奇妙な違和感に襲われた。
いつもなら門番が即座に駆け寄り、庭師が忙しなく立ち働いているはずの庭が、不気味なほど静まり返っている。噴水の水は止まり、手入れの行き届いていたはずの花々は、まるで放置された墓標のように寒々しく見えた。
「どうした……? 皆、どこへ行ったんだ」
玄関を開けても、執事が迎えに来ることはなかった。
広大なホールには、セバスチャンの足音だけが虚しく響く。キッチンから漂うはずの朝食の匂いも、三歳のニコラスの元気な声も、一歳のエメリアの泣き声も。
すべてが、一夜にしてこの屋敷から「消失」していた。
「セバスチャン! セバスチャン、どこにいるの!!」
二階から、金切り声が聞こえてきた。義母のナタリーだ。
母は、寝巻きのまま、髪を振り乱して階段を駆け下りてきた。その手には、一枚の紙が握られている。
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「ミランダなんて知らないわよ! あいつ、とんでもないことをしてくれたわ! 今朝、宝石商が来たのよ。注文していたあのネックレスを届けてくれると思ったのに……あいつらが持ってきたのは、宝石じゃなくて『差し押さえ通告書』だったのよ!!」
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部屋は、完璧に整理されていた。
いつも彼女が座っていた机の上には、数通の封筒が整然と並べられている。
セバスチャンは震える手で、自分の名が書かれた封筒を破り捨てた。中から出てきたのは、彼が想像していた「贈り物」ではなかった。
『離縁状:不貞の証拠及び公金横領の資料を添えて』
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「ああ……あああああ!!!」
セバスチャンは絶叫した。
その時、屋敷の外から重々しい馬車の音が聞こえてきた。ミランダが戻ってきたのか? 謝れば許してくれるのか?彼は希望に縋るように玄関へ飛び出した。
だが、そこにいたのはミランダではなかった。
漆黒の馬車から降りてきたのは、王国の「氷の麒麟児」と呼ばれるギルバート・レーゲン。そして、その隣には、軍服を完璧に着こなした外務補佐官、アーサー・エバンスが立っていた。
「……セバスチャン・マレーネ。公金横領、及びレーゲン伯爵家に対する詐欺罪の疑いで、同行を願う」
アーサーの声は、冷徹な死神の宣告のようだった。彼は一歩、セバスチャンに近づくと、その耳元で、獲物を屠る猛禽のような低い声で囁いた。
「……ミランダを、僕がどれほどの思いで諦めたと思っている。貴様のような寄生虫が、彼女を『息苦しい』と言って踏みにじった罪……。その命をかけても、償いきれると思うなよ」
アーサーの瞳に宿る、静かな、しかし凄まじい狂気。
セバスチャンは腰を抜かし、石畳の上に這いつくばった。
「待ってくれ! これは誤解だ! ミランダ! ミランダを出してくれ! 僕は彼女を愛しているんだ!」
「愛、だと? よくその口が回るな」
ギルバートが冷たく吐き捨てた。
「お前が愛人と笑い合っている間に、ミランダは子供たちを連れて、すでに我が家の領地へと発った。……お前との縁は、昨日の夜で完全に切れている」
「そんな……嘘だ……」
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かつて、ミランダの犠牲の上に築かれていた「偽りの幸福」は、柱を失った瞬間に、文字通り音を立てて崩壊していった。
数刻後。王都から遠く離れた、レーゲン伯爵家の美しい別邸。
ミランダは、陽光が差し込むテラスで、ニコラスとエメリアが芝生の上で遊ぶ姿を眺めていた。
その隣には、仕事を早々に切り上げ、彼女を追ってきたアーサーが、かつてないほど柔らかな表情で立っている。
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ミランダは、手にした紅茶を一口飲み、静かに微笑んだ。その微笑みは、心の底から湧き上がる、真の平穏だった。
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「これからは、僕があなたの部屋を、光と花だけで満たしてみせます。……あなたが二度と、息苦しいなんて感じないように」
アーサーは、ミランダの細い指先をそっと取り、誓いを立てるように唇を寄せた。
ミランダは拒まなかった。
遠いどこかで、すべてを失ったセバスチャンが、空っぽの屋敷で絶叫し続けていることだろう。だが、その声はもう、ミランダの耳には届かない。
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