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沈黙という名の肯定
テラスを吹き抜ける夜風は、私の薄いドレスを容赦なく冷やしていく。けれど、背後から近づいてくるバーナード様の足音の方が、今の私にはずっと寒々しく感じられた。
振り返らなくてもわかる。彼は今、どんな顔をしているのだろう。いつもの冷徹な無表情か、あるいは、かつての想い人と再会した高揚を押し殺しているのか。
「……こんなところで何をしている。風邪を引くぞ」
隣に並んだバーナード様の手には、私のストールが握られていた。彼はそれを、まるで壊れ物を扱うような手つきで私の肩にかける。その指先がわずかに肌に触れただけで、私はひどく惨めな気持ちになった。
「ありがとうございます、閣下。……皆様のところに戻らなくてよろしいのですか? せっかくの、再会のお祝いの席でしたのに」
精一杯の皮肉を込めて言ったつもりだった。だが、声は思いのほか震えてしまい、ただの泣き言のように響く。
「再会? ……ああ、あの連中のたわ言か。勝手に言わせておけばいい。あいつらは、他人の不幸や色恋を肴に酒を飲むことしか能がないのだからな」
バーナード様は手すりに手をかけ、遠くの街明かりを見つめたまま、吐き捨てるように言った。
その態度は、いつもと変わらぬ「無視」であり、徹底した「傍観」だった。周囲がどれほど騒ごうと、自分には関係がない。そんな傲慢なまでの無関心。
けれど、今の私にとって、その沈黙はどんな言葉よりも残酷な「図星」として突き刺さった。
(……否定、してくださらないのね)
もし、ジャクリーン様に対して何の感情も残っていないのであれば。
「あれは過去のことで、今の妻はダニエラだ」と、たった一言でも、皆の前で宣言してくれればよかった。
それをしないのは、あるいはできないのは、彼の中にまだ、あの赤毛の美しい女性に対する「情熱の残り火」があるからではないのか。
パトリス様の顔が、脳裏をよぎる。
彼もまた、私の前では「良き夫」として振る舞い、周囲の噂を「馬鹿馬鹿しい」と笑って流していた。その裏で、愛人と愛を囁き合っていたというのに。
「……『勝手に言わせておく』というのは、否定をしないということと同義ではございませんか?」
気づけば、私は彼を真っ直ぐに見上げていた。視界が、溢れそうになる涙で微かに歪む。
「ジャクリーン様は、閣下を想ってお戻りになったと仰いました。皆様も、お二人の再燃を期待していらっしゃる。それなのに、閣下がそうして口を閉ざしたままでは、私だけが『居座っているだけの邪魔者』に見えてしまいます」
「ダニエラ。お前は考えすぎだ」
バーナード様がようやく私に視線を戻した。その瞳は、やはりどこまでも深く、何も読み取らせない。
「俺たちが交わした契約を忘れたか? 俺は公務を果たし、お前の生活と名誉を守る。お前はただ、侯爵夫人としてそこにいればいい。他人の噂など、俺たちの契約を揺るがす価値もないものだ」
「……契約、ですか」
その言葉が、私の心に冷や水を浴びせかける。
そうだ。私たちは、不倫に傷ついた者同士、利害が一致して結婚しただけなのだ。
彼に愛を求める方が間違っている。彼が過去の恋人を想っていようと、それは彼の自由であり、私が口を挟む領域ではない。
「左様でございますね。……失礼いたしました。私が、少し感傷的になりすぎていたようです」
私は、肩にかけられたストールを強く握りしめた。
彼は嘘を吐いていない。確かに、契約は守られている。彼は私を貶めたりはしないし、生活の不自由もさせない。けれど、それがどうしようもなく悲しい。
(結局、私はまた『二番目』なのね)
パトリス様にとっては、愛人の次の二番目。
バーナード様にとっては、忘れられない恋人の次の二番目。
いいえ、彼にとって私は「妻」という名の空席を埋めるための、単なる事務的な手続きの対象に過ぎないのかもしれない。
バーナード様は、それ以上何も言わなかった。
彼が沈黙を貫けば貫くほど、私の心の中では、ジャクリーン様の勝ち誇った笑い声が大きく反響する。
「勝手に言わせておけばいい」
それは、彼女との仲を否定できない男の、精一杯の逃避にしか聞こえなかった。
「……先に戻っておりますわ。あまり長く席を外しては、また別の噂を立てられてしまいますから」
私は彼を置き去りにして、足早にサロンへと戻った。
背中に突き刺さるバーナード様の視線を感じた気がしたが、振り返る勇気はなかった。
会場に戻ると、ジャクリーン様が王太子殿下たちと楽しげに笑っているのが見えた。その輪の中に、私の居場所はない。
「平穏に暮らしたい」
その願いが、いかに贅沢で、叶わぬ夢であるかを思い知らされる。
私の二度目の結婚生活は、まだ始まったばかりだ。
それなのに、私の心はすでに、あの日パトリス様を亡くした時と同じような、冷たい空虚さに支配されようとしていた。
____________
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振り返らなくてもわかる。彼は今、どんな顔をしているのだろう。いつもの冷徹な無表情か、あるいは、かつての想い人と再会した高揚を押し殺しているのか。
「……こんなところで何をしている。風邪を引くぞ」
隣に並んだバーナード様の手には、私のストールが握られていた。彼はそれを、まるで壊れ物を扱うような手つきで私の肩にかける。その指先がわずかに肌に触れただけで、私はひどく惨めな気持ちになった。
「ありがとうございます、閣下。……皆様のところに戻らなくてよろしいのですか? せっかくの、再会のお祝いの席でしたのに」
精一杯の皮肉を込めて言ったつもりだった。だが、声は思いのほか震えてしまい、ただの泣き言のように響く。
「再会? ……ああ、あの連中のたわ言か。勝手に言わせておけばいい。あいつらは、他人の不幸や色恋を肴に酒を飲むことしか能がないのだからな」
バーナード様は手すりに手をかけ、遠くの街明かりを見つめたまま、吐き捨てるように言った。
その態度は、いつもと変わらぬ「無視」であり、徹底した「傍観」だった。周囲がどれほど騒ごうと、自分には関係がない。そんな傲慢なまでの無関心。
けれど、今の私にとって、その沈黙はどんな言葉よりも残酷な「図星」として突き刺さった。
(……否定、してくださらないのね)
もし、ジャクリーン様に対して何の感情も残っていないのであれば。
「あれは過去のことで、今の妻はダニエラだ」と、たった一言でも、皆の前で宣言してくれればよかった。
それをしないのは、あるいはできないのは、彼の中にまだ、あの赤毛の美しい女性に対する「情熱の残り火」があるからではないのか。
パトリス様の顔が、脳裏をよぎる。
彼もまた、私の前では「良き夫」として振る舞い、周囲の噂を「馬鹿馬鹿しい」と笑って流していた。その裏で、愛人と愛を囁き合っていたというのに。
「……『勝手に言わせておく』というのは、否定をしないということと同義ではございませんか?」
気づけば、私は彼を真っ直ぐに見上げていた。視界が、溢れそうになる涙で微かに歪む。
「ジャクリーン様は、閣下を想ってお戻りになったと仰いました。皆様も、お二人の再燃を期待していらっしゃる。それなのに、閣下がそうして口を閉ざしたままでは、私だけが『居座っているだけの邪魔者』に見えてしまいます」
「ダニエラ。お前は考えすぎだ」
バーナード様がようやく私に視線を戻した。その瞳は、やはりどこまでも深く、何も読み取らせない。
「俺たちが交わした契約を忘れたか? 俺は公務を果たし、お前の生活と名誉を守る。お前はただ、侯爵夫人としてそこにいればいい。他人の噂など、俺たちの契約を揺るがす価値もないものだ」
「……契約、ですか」
その言葉が、私の心に冷や水を浴びせかける。
そうだ。私たちは、不倫に傷ついた者同士、利害が一致して結婚しただけなのだ。
彼に愛を求める方が間違っている。彼が過去の恋人を想っていようと、それは彼の自由であり、私が口を挟む領域ではない。
「左様でございますね。……失礼いたしました。私が、少し感傷的になりすぎていたようです」
私は、肩にかけられたストールを強く握りしめた。
彼は嘘を吐いていない。確かに、契約は守られている。彼は私を貶めたりはしないし、生活の不自由もさせない。けれど、それがどうしようもなく悲しい。
(結局、私はまた『二番目』なのね)
パトリス様にとっては、愛人の次の二番目。
バーナード様にとっては、忘れられない恋人の次の二番目。
いいえ、彼にとって私は「妻」という名の空席を埋めるための、単なる事務的な手続きの対象に過ぎないのかもしれない。
バーナード様は、それ以上何も言わなかった。
彼が沈黙を貫けば貫くほど、私の心の中では、ジャクリーン様の勝ち誇った笑い声が大きく反響する。
「勝手に言わせておけばいい」
それは、彼女との仲を否定できない男の、精一杯の逃避にしか聞こえなかった。
「……先に戻っておりますわ。あまり長く席を外しては、また別の噂を立てられてしまいますから」
私は彼を置き去りにして、足早にサロンへと戻った。
背中に突き刺さるバーナード様の視線を感じた気がしたが、振り返る勇気はなかった。
会場に戻ると、ジャクリーン様が王太子殿下たちと楽しげに笑っているのが見えた。その輪の中に、私の居場所はない。
「平穏に暮らしたい」
その願いが、いかに贅沢で、叶わぬ夢であるかを思い知らされる。
私の二度目の結婚生活は、まだ始まったばかりだ。
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