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【7】訪問
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「つまりこの中から一人、せめてお試しに付き合ってみてはどうかというのね。けどわたくしは……」
研究と仕事に夢中で恋愛に割く時間があるとは思えない。
「ええそうよ。これは言い訳。わたくしは誰も選びたくないのよ」
選ばれる喜びも、選ばれなかった苦しみも知っている。誰かに同じ気持ちを味わわせたくはないのだ。
試しに一番上の人物を開いてみるが、見なかったことにしようと掌を返した。
「ええ、ええ……それはそうよね。あの方も独身。加えて高貴な身分なのだから、わたくしと同じ境遇なのも頷けるわ」
引きが悪いのか運命の悪戯か……
ただでさえ苦手な相手を憂鬱な気分の時に見たくはない。
せめて目につかないところに追いやろうと、ディアナは山を持ち上げた。
ひらり――一
一枚の紙が宙に舞う。明らかに姿絵とは別の何かだ。
「何かしら」
拾い上げたディアナは目を見開く。それは今日中に提出しなければならない研究の申請書だった。
「今朝提出したとばかり……」
しかし記憶を探れば提出したのは封筒だ。内容を確認して、最後に大切な書類を入れ忘れていた可能性もある。
まとめ役の教師はとっくに帰宅している時間だ。明日から研究を始めたいのなら、直接上役のところへ提出しに行くしかないだろう。すなわち院長であるユアン・ランフォードの元へ向かわなければならない。
「あまり会いたい人ではないわ」
最悪だった出会いのせいで未だに苦手意識を持ち続けている。
同じ職場で働いてはいるが、同僚と認識できるほどの親しさはない。行事の挨拶などで姿を見ることはあっても、院長と研究員では有り難いことに所属が違い過ぎるため、普段は意識することのない相手だ。
「けれどこのままでは研究の予定が崩れてしまう」
ユアンのことは苦手だが、真面目なディアナは予定が崩れることを嫌う。
「どうせあの人はわたくしのことなんてとっくに忘れているはずよ」
他人に興味のないユアンは弟の婚約者ではなくなったディアナに興味はないだろう。いつまでも昔のことを引きずっている自分がこだわりすぎなのだ。
ディアナは書類を手に学舎へと戻る。寮に帰ってしたことが姿絵の確認だけというのが悲しい現実だ。
院長室の明かりは夜遅くまで消える事はない。これは学院内では共通の認識で、ディアナにはユアンが帰宅しているという不安はなかった。
「まさか姿絵で顔を見た後、本当に会うことになるなんて」
扉の前で停止したディアナは乱れた髪を直す。そして何事もなかったように、優雅に来訪を告げた。身嗜みも訪問態度も、ユアンの前ではせめて完璧でありたい。
少しの緊張と、苦手の感情を奥底に追いやり、ディアナは余裕の表情を用意する。
すぐに許可は下りたが、やはり僅かに躊躇いが生じたことは否めない。もちろん院長室に入るのは初めてのことだ。
「失礼します」
しかし扉を開けたディアナは別の意味で入室を躊躇った。何故ならその先に待ち構えていた光景はあまりにも悲惨だった。
無造作に積まれた本は床にまで侵食し、本棚は意味を成さない。堂々と床に散らばる書類まで我が物顔だ。長椅子には無造作にコートが投げ出されている。それなりの広さがあるはずなのに狭く感じてしまうのは物が散乱しているせいだ。
入室すればユアンは執務机から顔を上げる。こちらの机も悠々とした広さがあるというのに山積みにされた本と書類のせいで書き物をする場所がほとんどない。本人も窮屈そうに机に向かっている。立派な装いをしているが、この空間で仕事をしていると迫力に欠けるようだ。
ただし背筋を伸ばしてすらりと立ち上がろうものなら女性の視線は彼が攫うだろう。瞳はあの頃と変わらず、一見すると人当たりの良い青年だ。穏やかな雰囲気に笑顔の絶えない表情を浮かべている。
けれど実際はその容姿から繰り出されるのが毒だと知っている。かつてその毒に当てられたことのあるディアナにとっては近づきたくない相手だ。
「これは意外な来客だ。ようこそディアナ・フランセ研究員。ああ、ディアナ先生とお呼びした方が良かったかな?」
当たり前のように顔と名前を一致させたユアンには驚かされる。名前を憶えていたことは評価するが、そんなことで過去のことを水に流せるほど自分は出来た人間ではない。白々しいと、ディアナの機嫌は悪くなる一方だ。
「どちらでも構いませんわ。院長先生なのですから好きに呼べばいいのです」
上司にあたるのは誰がどう見てもユアンの方だ。普通に答えたつもりでいたが、どうしても言葉の節々には棘を感じていた。呼び名の確認から始めなければならないほど、成長した二人の関係は無に等しい。
「そうかい? それにしてもきみからの訪問なんて驚いたよ。こんな時間に、何か急ぎの案件かな?」
障害物を避けながら無言で進み、ディアナは書類を提出した。
「このような時間に申し訳ありません。申請書を一枚失念していました。ですが明日からの研究にどうしても必要なものです」
差し出された紙面を確認したユアンはへらりと笑う。それはとても気の抜ける表情だった。
「きみは真面目だなあ」
「これくらい当然のことです。提出期限も守れないような女だと思われたくはありません」
特にあなたにはと、自然と力が入っていたように思う。
「そういうところが真面目なんだよ。僕とは大違い」
それはこの部屋の惨状を見ればわかる。ディアナはうんざりとしながら室内へと目を走らせた。
「けど、きみの研究は多くの人達から求められ、必要とされていることは確かだ。僕も真面目なきみに誠意をもって対応しないといけないよね。ええと、ペンはどこだったかな……」
早急にサインをしたため受理してくれるらしい。
しかしいくら待っても一向にペンが見つからない。本当にユアンはペンを探しているのだろうか。
「院長先生。ペンはまだ見つからないのですか?」
急かすように問いかければ、どんびりとした答えが返る。
「そのようだね」
腕組みしたディアナは何分立ち尽くしている事だろう。
「ええと……」
「いっそわたくしがペンを取って来た方が早いのではありませんか?」
「そうかなぁ……でも確か……ああ! ようやく見つけた」
「え、ちょっとま――!」
ディアナが止める間もなく、勢いよく身を起こしたことで傍にあった山が崩れてしまう。
どさ――
ばさっ――
重たい音を立てて惨状は拡大した。
「ははっ、大事件だね」
「何をのんきなことを……。手伝います」
「いいよ。放っておけば」
放っておく? ただでさえぐちゃぐちゃだった部屋を? さらに荒れたのに? いよいよ足の踏み場さえ怪しいのに?
「いいえ。手伝います!」
片付けを怠ったユアンが悪いが、引き金を引いたのは自分かもしれない。たとえ少しでもユアンに対して後ろめたい感情は残しておきたくないというのがディアナの経験談だ。
研究と仕事に夢中で恋愛に割く時間があるとは思えない。
「ええそうよ。これは言い訳。わたくしは誰も選びたくないのよ」
選ばれる喜びも、選ばれなかった苦しみも知っている。誰かに同じ気持ちを味わわせたくはないのだ。
試しに一番上の人物を開いてみるが、見なかったことにしようと掌を返した。
「ええ、ええ……それはそうよね。あの方も独身。加えて高貴な身分なのだから、わたくしと同じ境遇なのも頷けるわ」
引きが悪いのか運命の悪戯か……
ただでさえ苦手な相手を憂鬱な気分の時に見たくはない。
せめて目につかないところに追いやろうと、ディアナは山を持ち上げた。
ひらり――一
一枚の紙が宙に舞う。明らかに姿絵とは別の何かだ。
「何かしら」
拾い上げたディアナは目を見開く。それは今日中に提出しなければならない研究の申請書だった。
「今朝提出したとばかり……」
しかし記憶を探れば提出したのは封筒だ。内容を確認して、最後に大切な書類を入れ忘れていた可能性もある。
まとめ役の教師はとっくに帰宅している時間だ。明日から研究を始めたいのなら、直接上役のところへ提出しに行くしかないだろう。すなわち院長であるユアン・ランフォードの元へ向かわなければならない。
「あまり会いたい人ではないわ」
最悪だった出会いのせいで未だに苦手意識を持ち続けている。
同じ職場で働いてはいるが、同僚と認識できるほどの親しさはない。行事の挨拶などで姿を見ることはあっても、院長と研究員では有り難いことに所属が違い過ぎるため、普段は意識することのない相手だ。
「けれどこのままでは研究の予定が崩れてしまう」
ユアンのことは苦手だが、真面目なディアナは予定が崩れることを嫌う。
「どうせあの人はわたくしのことなんてとっくに忘れているはずよ」
他人に興味のないユアンは弟の婚約者ではなくなったディアナに興味はないだろう。いつまでも昔のことを引きずっている自分がこだわりすぎなのだ。
ディアナは書類を手に学舎へと戻る。寮に帰ってしたことが姿絵の確認だけというのが悲しい現実だ。
院長室の明かりは夜遅くまで消える事はない。これは学院内では共通の認識で、ディアナにはユアンが帰宅しているという不安はなかった。
「まさか姿絵で顔を見た後、本当に会うことになるなんて」
扉の前で停止したディアナは乱れた髪を直す。そして何事もなかったように、優雅に来訪を告げた。身嗜みも訪問態度も、ユアンの前ではせめて完璧でありたい。
少しの緊張と、苦手の感情を奥底に追いやり、ディアナは余裕の表情を用意する。
すぐに許可は下りたが、やはり僅かに躊躇いが生じたことは否めない。もちろん院長室に入るのは初めてのことだ。
「失礼します」
しかし扉を開けたディアナは別の意味で入室を躊躇った。何故ならその先に待ち構えていた光景はあまりにも悲惨だった。
無造作に積まれた本は床にまで侵食し、本棚は意味を成さない。堂々と床に散らばる書類まで我が物顔だ。長椅子には無造作にコートが投げ出されている。それなりの広さがあるはずなのに狭く感じてしまうのは物が散乱しているせいだ。
入室すればユアンは執務机から顔を上げる。こちらの机も悠々とした広さがあるというのに山積みにされた本と書類のせいで書き物をする場所がほとんどない。本人も窮屈そうに机に向かっている。立派な装いをしているが、この空間で仕事をしていると迫力に欠けるようだ。
ただし背筋を伸ばしてすらりと立ち上がろうものなら女性の視線は彼が攫うだろう。瞳はあの頃と変わらず、一見すると人当たりの良い青年だ。穏やかな雰囲気に笑顔の絶えない表情を浮かべている。
けれど実際はその容姿から繰り出されるのが毒だと知っている。かつてその毒に当てられたことのあるディアナにとっては近づきたくない相手だ。
「これは意外な来客だ。ようこそディアナ・フランセ研究員。ああ、ディアナ先生とお呼びした方が良かったかな?」
当たり前のように顔と名前を一致させたユアンには驚かされる。名前を憶えていたことは評価するが、そんなことで過去のことを水に流せるほど自分は出来た人間ではない。白々しいと、ディアナの機嫌は悪くなる一方だ。
「どちらでも構いませんわ。院長先生なのですから好きに呼べばいいのです」
上司にあたるのは誰がどう見てもユアンの方だ。普通に答えたつもりでいたが、どうしても言葉の節々には棘を感じていた。呼び名の確認から始めなければならないほど、成長した二人の関係は無に等しい。
「そうかい? それにしてもきみからの訪問なんて驚いたよ。こんな時間に、何か急ぎの案件かな?」
障害物を避けながら無言で進み、ディアナは書類を提出した。
「このような時間に申し訳ありません。申請書を一枚失念していました。ですが明日からの研究にどうしても必要なものです」
差し出された紙面を確認したユアンはへらりと笑う。それはとても気の抜ける表情だった。
「きみは真面目だなあ」
「これくらい当然のことです。提出期限も守れないような女だと思われたくはありません」
特にあなたにはと、自然と力が入っていたように思う。
「そういうところが真面目なんだよ。僕とは大違い」
それはこの部屋の惨状を見ればわかる。ディアナはうんざりとしながら室内へと目を走らせた。
「けど、きみの研究は多くの人達から求められ、必要とされていることは確かだ。僕も真面目なきみに誠意をもって対応しないといけないよね。ええと、ペンはどこだったかな……」
早急にサインをしたため受理してくれるらしい。
しかしいくら待っても一向にペンが見つからない。本当にユアンはペンを探しているのだろうか。
「院長先生。ペンはまだ見つからないのですか?」
急かすように問いかければ、どんびりとした答えが返る。
「そのようだね」
腕組みしたディアナは何分立ち尽くしている事だろう。
「ええと……」
「いっそわたくしがペンを取って来た方が早いのではありませんか?」
「そうかなぁ……でも確か……ああ! ようやく見つけた」
「え、ちょっとま――!」
ディアナが止める間もなく、勢いよく身を起こしたことで傍にあった山が崩れてしまう。
どさ――
ばさっ――
重たい音を立てて惨状は拡大した。
「ははっ、大事件だね」
「何をのんきなことを……。手伝います」
「いいよ。放っておけば」
放っておく? ただでさえぐちゃぐちゃだった部屋を? さらに荒れたのに? いよいよ足の踏み場さえ怪しいのに?
「いいえ。手伝います!」
片付けを怠ったユアンが悪いが、引き金を引いたのは自分かもしれない。たとえ少しでもユアンに対して後ろめたい感情は残しておきたくないというのがディアナの経験談だ。
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