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【6】偽り聖女の変化
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リエーベルは息苦しさから逃れるように窓へと助けを求めた。差し伸べられる救いはないけれど、手の届かない空を眺め、遠い大地の緑へと意識を逸らす方がよほどいい。
「あ……」
リエーベルは生い茂る緑の中に小さな赤い粒を見つけた。それはかつて少女が好きだった――
「何を見ているの?」
「ひっ!?」
長椅子に腰かけていたはずのアロイスの声がとても近いことに驚いてリエーベルは悲鳴を上げる。驚きすぎて手を滑らせ、危うく塔から落ちてしまうところだった。
「危ない!」
未然に防がれたのはアロイスの逞しい腕のおかげである。瞬時に腹に回された腕がしっかりとリエーベルの身体を支え、背中に当たる彼の胸板は服の上からでも男を感じさせた。つまり、自分の柔らかで大して魅力のない体つきも感じられているのだろう。
「そんなに驚くとは思わなくて、ごめん……」
気まずそうに、アロイスの手が離れていく。リエーベルはばくばくとうるさい胸を落ち着かせるようにそのまま床へと座り込んだ。転落しそうになった恐怖に未だ足腰は震え、這うように壁へともたれる。するとあろうことかアロイスは視線を合わせようとしてきた。
「……公爵様?」
「何を見ていたの?」
まるで尋問のような視線に感じた。ならばおそらく、答えなければこの距離は回避できない。
「木苺が……」
「木苺?」
育ちの良いアロイスは知らないだろうと諦めにも似た感情で告げたけれど、やはりそのようだ。
「塔の外に、木になっている実です。綺麗に色が付いていて……美味しそうだなと」
「好きなの?」
こんなことを言っては馬鹿にされるのかもしれない。けれどもうとっくに馬鹿にされているはずだ。塔から落ちそうになる失態も見られたわけで、なるようになれとリエーベルは正直に答えた。
アロイスはやけに嬉しそうに頷きリエーベルの隣に腰を下ろす。
「こっ、公爵様!?」
隣に。しかも床にである。当然リエーベルは焦った。部屋には長椅子も、ベッドだって用意されているのに。
「何?」
「いえ、あの、何と申されても困るのですが……しいて言うのなら、あちらに椅子があります。公爵様に、床は相応しくありません」
リエーベルの発言にアロイスが機嫌を損ねた様子はない。それどころか柔らかな物腰で疑問に答えてくれた。
「俺は公爵としてここに来ているわけじゃないよ」
どういう意味だろう。アロイスは紛れもなく公爵であると自ら宣言していたと記憶している。
「まあ、公爵の身分があるからこそ、ここに出入りさせてもらえるという信頼が成り立っているわけで……複雑ではあるけど」
「……はあ……?」
「俺はここ、きみの隣がいいな。だってその方が、もっときみのことを知れる。ようやく一つ、きみのことを教えてもらえたんだ。ねえ、他には? 好きな食べ物、好きなこと、なんでもいいよ。聞かせて」
「ううっ……」
リエーベルは低く唸る。優雅な物腰に見えるアロイスだが、彼は意外と押しが強いことをリエーベルもその日知った。
「きみは……プレゼント、気に入らなかった?」
「そんなことは! ただ、その……」
「一応、妹に年頃の女性が喜びそうなものを聞いてきたんだけど」
「……妹さんが、いらっしゃるのですか?」
リエーベルが反応したことが意外だったのだろう。けれど昔、少女にも妹がいたのだ。どこへ行くにも後をついて回る無邪気な妹が。それでなんとなく、気になってしまったのだ。
「ああ、いるよ。口うるさくてお節介な妹がね」
同じ妹でも、少女の妹とは随分と違うらしかった。
「きみは?」
まるで試されているようだと思った。本当はいると答えたい。あの子のことを、忘れたくはないのに……
「いません。私に妹はおりません」
聖女リエーベルに妹はいない。彼女に家族はいない。そう答えることが正しいリエーベルなのだと教えられた。
「決して怒らないと約束するから、きみの本当の気持ちを教えてくれないか。情けないことに、俺は乙女心とやらに疎いみたいでね」
アロイスは真摯に訴えかける。この人なら少なくとも怒ることはしないだろうと信じられた。
「……気に入らないだとか、そのように贅沢なことを考えたことはありません」
リエーベルは己の気持ちを語る。そうして誰かの前で本音を零すことは随分と久しい。
「花は綺麗でした。髪飾りも、宝石も! とても、素敵な物ばかりです。本も、いつか読んでみたいと思います。ですが、おそれ多いのです。あの、私……もらってばかりいて。少し、あの、ですから……」
リエーベルは慎重に、それはそれは慎重に言葉を選んだ。
「気味が悪い、です。まるで懐柔されているようで……」
「なるほど」
「ケーキも、美味しそうでした。一人であんなに大きなケーキは食べきれませんけれど、きっと食べたら美味しいのだろうと思います。でも、一人で食べても……寂しいだけです」
たくさん食べられなくても誰かと分け合うほうが楽しかった。手にした木苺の量が少なくても独り占めしようとは思わなかった。妹と分け合って、美味しそうに食べる妹の姿を見ている方が幸せだった。温かな家庭で育ったリエーベルは孤独に慣れていないのだ。
「話してくれてありがとう。きみの本音が聞けてよかったよ。話し相手と名乗っておきながら、俺は失格だな。きみのことを何も知ろうとしなかった。きみ、意外と話せるんだね」
「なんですか、それは」
リエーベルは自身の表情が緩むのを感じていた。それは久しぶりの、心地良い感触だ。しかしアロイスにまでしっかりと見られていたことは計算外だった。
「笑ったところ、初めて見た。いいね。もっと笑ってほしいな」
「……そんなに簡単に、笑えません。楽しいこともないのに……あ!」
なんてことを言うのだろう。これではまるでお前といるのがつまらないと言っているみたいだ。
「ち、違うんです! 決して、そんなつもりで言ったのでは!」
「気にしていないよ。いつも押しかけて困らせているのは俺だからね」
リエーベルにとって貴族というものは高慢な印象だった。きっと平民である自分たちのことを見下している、そんな印象を受けていた。でも彼は違った。少なくとも、足繁く通われてお気ながら素っ気ない態度のリエーベルを責めることはしなかった。
悪戯に笑うアロイスに少しだけ距離が縮まった気がしていた。
「あ……」
リエーベルは生い茂る緑の中に小さな赤い粒を見つけた。それはかつて少女が好きだった――
「何を見ているの?」
「ひっ!?」
長椅子に腰かけていたはずのアロイスの声がとても近いことに驚いてリエーベルは悲鳴を上げる。驚きすぎて手を滑らせ、危うく塔から落ちてしまうところだった。
「危ない!」
未然に防がれたのはアロイスの逞しい腕のおかげである。瞬時に腹に回された腕がしっかりとリエーベルの身体を支え、背中に当たる彼の胸板は服の上からでも男を感じさせた。つまり、自分の柔らかで大して魅力のない体つきも感じられているのだろう。
「そんなに驚くとは思わなくて、ごめん……」
気まずそうに、アロイスの手が離れていく。リエーベルはばくばくとうるさい胸を落ち着かせるようにそのまま床へと座り込んだ。転落しそうになった恐怖に未だ足腰は震え、這うように壁へともたれる。するとあろうことかアロイスは視線を合わせようとしてきた。
「……公爵様?」
「何を見ていたの?」
まるで尋問のような視線に感じた。ならばおそらく、答えなければこの距離は回避できない。
「木苺が……」
「木苺?」
育ちの良いアロイスは知らないだろうと諦めにも似た感情で告げたけれど、やはりそのようだ。
「塔の外に、木になっている実です。綺麗に色が付いていて……美味しそうだなと」
「好きなの?」
こんなことを言っては馬鹿にされるのかもしれない。けれどもうとっくに馬鹿にされているはずだ。塔から落ちそうになる失態も見られたわけで、なるようになれとリエーベルは正直に答えた。
アロイスはやけに嬉しそうに頷きリエーベルの隣に腰を下ろす。
「こっ、公爵様!?」
隣に。しかも床にである。当然リエーベルは焦った。部屋には長椅子も、ベッドだって用意されているのに。
「何?」
「いえ、あの、何と申されても困るのですが……しいて言うのなら、あちらに椅子があります。公爵様に、床は相応しくありません」
リエーベルの発言にアロイスが機嫌を損ねた様子はない。それどころか柔らかな物腰で疑問に答えてくれた。
「俺は公爵としてここに来ているわけじゃないよ」
どういう意味だろう。アロイスは紛れもなく公爵であると自ら宣言していたと記憶している。
「まあ、公爵の身分があるからこそ、ここに出入りさせてもらえるという信頼が成り立っているわけで……複雑ではあるけど」
「……はあ……?」
「俺はここ、きみの隣がいいな。だってその方が、もっときみのことを知れる。ようやく一つ、きみのことを教えてもらえたんだ。ねえ、他には? 好きな食べ物、好きなこと、なんでもいいよ。聞かせて」
「ううっ……」
リエーベルは低く唸る。優雅な物腰に見えるアロイスだが、彼は意外と押しが強いことをリエーベルもその日知った。
「きみは……プレゼント、気に入らなかった?」
「そんなことは! ただ、その……」
「一応、妹に年頃の女性が喜びそうなものを聞いてきたんだけど」
「……妹さんが、いらっしゃるのですか?」
リエーベルが反応したことが意外だったのだろう。けれど昔、少女にも妹がいたのだ。どこへ行くにも後をついて回る無邪気な妹が。それでなんとなく、気になってしまったのだ。
「ああ、いるよ。口うるさくてお節介な妹がね」
同じ妹でも、少女の妹とは随分と違うらしかった。
「きみは?」
まるで試されているようだと思った。本当はいると答えたい。あの子のことを、忘れたくはないのに……
「いません。私に妹はおりません」
聖女リエーベルに妹はいない。彼女に家族はいない。そう答えることが正しいリエーベルなのだと教えられた。
「決して怒らないと約束するから、きみの本当の気持ちを教えてくれないか。情けないことに、俺は乙女心とやらに疎いみたいでね」
アロイスは真摯に訴えかける。この人なら少なくとも怒ることはしないだろうと信じられた。
「……気に入らないだとか、そのように贅沢なことを考えたことはありません」
リエーベルは己の気持ちを語る。そうして誰かの前で本音を零すことは随分と久しい。
「花は綺麗でした。髪飾りも、宝石も! とても、素敵な物ばかりです。本も、いつか読んでみたいと思います。ですが、おそれ多いのです。あの、私……もらってばかりいて。少し、あの、ですから……」
リエーベルは慎重に、それはそれは慎重に言葉を選んだ。
「気味が悪い、です。まるで懐柔されているようで……」
「なるほど」
「ケーキも、美味しそうでした。一人であんなに大きなケーキは食べきれませんけれど、きっと食べたら美味しいのだろうと思います。でも、一人で食べても……寂しいだけです」
たくさん食べられなくても誰かと分け合うほうが楽しかった。手にした木苺の量が少なくても独り占めしようとは思わなかった。妹と分け合って、美味しそうに食べる妹の姿を見ている方が幸せだった。温かな家庭で育ったリエーベルは孤独に慣れていないのだ。
「話してくれてありがとう。きみの本音が聞けてよかったよ。話し相手と名乗っておきながら、俺は失格だな。きみのことを何も知ろうとしなかった。きみ、意外と話せるんだね」
「なんですか、それは」
リエーベルは自身の表情が緩むのを感じていた。それは久しぶりの、心地良い感触だ。しかしアロイスにまでしっかりと見られていたことは計算外だった。
「笑ったところ、初めて見た。いいね。もっと笑ってほしいな」
「……そんなに簡単に、笑えません。楽しいこともないのに……あ!」
なんてことを言うのだろう。これではまるでお前といるのがつまらないと言っているみたいだ。
「ち、違うんです! 決して、そんなつもりで言ったのでは!」
「気にしていないよ。いつも押しかけて困らせているのは俺だからね」
リエーベルにとって貴族というものは高慢な印象だった。きっと平民である自分たちのことを見下している、そんな印象を受けていた。でも彼は違った。少なくとも、足繁く通われてお気ながら素っ気ない態度のリエーベルを責めることはしなかった。
悪戯に笑うアロイスに少しだけ距離が縮まった気がしていた。
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