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CHAPTER2
2
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捜査二課の刑事の手によって、石黒と吉川以外にも保原香澄の結婚詐欺被害に遭った男性が数名いることが判明した。その中で、当日、アリバイがない男性が二人いた。岡本直樹という三十九歳の横浜市在住の会社員と、小池文夫という四十二歳のIT企業経営者だ。何と、小池文夫に至っては、殺害された保原香澄と同じ『有明スカイタワー』に住んでいることらしい。しかも部屋は、被害者女性の直ぐ真下二十八階の二八八号室だった。
捜査本部が俄かに活気を帯びた。捜査の指揮を執る管理官の松原管理官は、
「この男に任同を掛けろ。拒否するようだったら別件で引っ張れ」
と私たち捜査員に命じた。
私がその連絡を受けたのは、『有明スカイタワー』を出て、保原香澄の男性関係を一から洗い直すため、嘗てこの女性と交際していた広域指定暴力団Y組の構成員中村雅英の許へ向かった直後だった。
中村は、Y組のフロント企業として芸能事務所『ナカムラプロダクション』を六本木の雑居ビルの三階で経営していた。
六本木へ向かう途中、港区麻布十番一丁目の交差点で信号待ちの停車中に、連絡用のスマートフォンがコンピューター音を奏でた。仕方なく私は、レディーススーツの内ポケット中からスマホを取り出し、助手席の立花君に渡した。
「出て」
「はい」
立花君は私からスマホを受け取り、電話に出た。
「えっ、本件の重要参考人が判明したって、はい、氏名はコイケフミオ、小さい池に、文法の文に夫の夫ですか。年齢は四十二歳、職業IT企業経営者、現住所は東京都江東区有明一丁目○‐○○『有明スカイタワー』二八八号室……てっ、被害者の部屋の真下じゃないですか。わかりましたすぐに本部へ戻ります」
一旦電話を切ると、立花君は運転席の私を見た。
スマホを私に返しながら訊ねる。
「どうしましょう?」
「どうしましょうって、本部に戻るに決まってるでしょっ」
芸能事務所『ナカムラプロダクション』へ向かうのを取り止め、私は覆面パトカーを捜査本が設置された東京湾岸中央署へ向けた。
午後一時過ぎ、東京湾岸中央署の四階刑組課の入ったフロアにある取調室で、重要参考人小池文夫の事情聴取が執り行われていた。午前中、任意同行を求められ、この冴えない四十路男が連れて来られて既に三時間近く経っているが、依然犯行は否認したままだ。
取り調べに当たる殺人班四係長沖警部警部が、スチール製の机を叩き、罵声を浴びせるが、小池は、自分は姦っていない、の一点張りだ。
私たち捜査員は、取調室の隣の部屋で、マジックミラー越しに取り調べの様子を窺っていた。
「どう思う?」
左隣に立つ松原管理官が訊ねてきた。
「逆に管理官はどう思いますか?」
私は質問を質問で返した。
「状況証拠はクロだ。だが、私の直感ではシロだ。あの男にあんな残忍な手法で人を殺すことは出来ない。奴の目は臆病者の目だ」
「同感です。私の勘では、犯人は猟奇的な手法を好む快楽殺人鬼サイコパス野郎だと思います」
私の勘は当たっていた。ほどなくして小池は取り調べから解放されることとなった。
この臆病者の男が主張するアリバイが証明されたのである。所謂彼はバイセクシャルだったのだ。
保原香澄が殺害された日の夜、小池は新宿二丁目のゲイバーで飲んでいた。以前から彼はこの界隈に顔を出し、足繁く通っていたのだ。警察から任意同行を求められた時、この話をしなかった理由は、自身がバイセクシャルであるということが世間に知れ渡ることを恐れてのことだった。
東京湾岸中央署を去る前、小池は自分がバイセクシャルであるという事実はくれぐれも内密にしてくれと念を押した。警察は守秘義務があるので、あなたの個人的な性癖が世間にバレることはありませんと、私と一緒に彼を玄関先まで送った桐畑班の結花子ちゃんは答えた。
捜査本部が設置された講堂に戻ると、
「結局、振り出しかよ」
扇子を扇ぎながら沖警部がぼやくようにいった言葉が耳に入ってきた。
同感だ。私は嘆息を吐いた。
「行こうか、立花君」
私は、冷めてしまったコーヒーを飲み干すと、講堂の後方の席で待機するそのキャリア警察官を誘った。
「どこへですか?」
「六本木の『ナカムラプロダクション』に決まってるでしょ。ああいうやくざ者の連中の中には、サイコパシー傾向を持った人間が少なくないのよね。刑事として私の勘では、犯人はマル害が嘗て交際していた男性の中にいる」
「そういうもんですかね」
呟くようにいって、立花君が席を立とうした瞬間、後方の引き戸が開いた。
切畑さんが講堂に入ってきた。
「お疲れ様です」
直の上司の顔を確認した結花子ちゃんが、地取りの聞き込み捜査から戻ってきた桐畑さんに労いの言葉を掛けた。
「どうだった?」
早速、桐畑さんは重要参考人とされた小池の事情聴取の成果を訊ねた。
「駄目でした。小池さんにはちゃんとしたアリバイがありました」
結花子ちゃんはかぶりを振った。
「そっか、残念だな。こっちも空振りだ。半日足を棒にして青海中歩いたが、事件解決に繫がるような手掛かりは得られなかった」
桐畑さんは、額に大粒の汗の掻きながらいった。
「おい藍原、そんなところでぼうと突っ立っていないで中へ入れ」
桐畑さんは振り向くと、引き戸の傍に立つ藍原さんに告げた。
「比嘉警部補殿が、キャリア様を引き連れてこれからお出掛けになられる。そこは入口だ。お前さんがそんなところに突っ立ってちゃ邪魔だろうが」
「相変わらず嫌味なことをいう男ね」
私は桐畑さんに毒を吐いた。
「それはお互い様だろ。さっさと出掛けろよ」
桐畑さんは、野良犬を追い払うように吐き捨てた。
「あっ気づきませんでした、済みません」
藍原さんは頭をさげると、身体を左に寄せた。
「私たちに気を使わなくていいのよ」
私は優しく声を掛け、藍原さんの横を擦り抜けて廊下へと出た。
後ろから追って来る立花君に、
「先に下りていて、私煙草吸ってくるから」
と顔も見ずに伝えた。
わかりましたと頷くと、立花君は私から譜面パトカーのキーを受け取り、エレベーターホールへ向かって歩き出した。
捜査本部が俄かに活気を帯びた。捜査の指揮を執る管理官の松原管理官は、
「この男に任同を掛けろ。拒否するようだったら別件で引っ張れ」
と私たち捜査員に命じた。
私がその連絡を受けたのは、『有明スカイタワー』を出て、保原香澄の男性関係を一から洗い直すため、嘗てこの女性と交際していた広域指定暴力団Y組の構成員中村雅英の許へ向かった直後だった。
中村は、Y組のフロント企業として芸能事務所『ナカムラプロダクション』を六本木の雑居ビルの三階で経営していた。
六本木へ向かう途中、港区麻布十番一丁目の交差点で信号待ちの停車中に、連絡用のスマートフォンがコンピューター音を奏でた。仕方なく私は、レディーススーツの内ポケット中からスマホを取り出し、助手席の立花君に渡した。
「出て」
「はい」
立花君は私からスマホを受け取り、電話に出た。
「えっ、本件の重要参考人が判明したって、はい、氏名はコイケフミオ、小さい池に、文法の文に夫の夫ですか。年齢は四十二歳、職業IT企業経営者、現住所は東京都江東区有明一丁目○‐○○『有明スカイタワー』二八八号室……てっ、被害者の部屋の真下じゃないですか。わかりましたすぐに本部へ戻ります」
一旦電話を切ると、立花君は運転席の私を見た。
スマホを私に返しながら訊ねる。
「どうしましょう?」
「どうしましょうって、本部に戻るに決まってるでしょっ」
芸能事務所『ナカムラプロダクション』へ向かうのを取り止め、私は覆面パトカーを捜査本が設置された東京湾岸中央署へ向けた。
午後一時過ぎ、東京湾岸中央署の四階刑組課の入ったフロアにある取調室で、重要参考人小池文夫の事情聴取が執り行われていた。午前中、任意同行を求められ、この冴えない四十路男が連れて来られて既に三時間近く経っているが、依然犯行は否認したままだ。
取り調べに当たる殺人班四係長沖警部警部が、スチール製の机を叩き、罵声を浴びせるが、小池は、自分は姦っていない、の一点張りだ。
私たち捜査員は、取調室の隣の部屋で、マジックミラー越しに取り調べの様子を窺っていた。
「どう思う?」
左隣に立つ松原管理官が訊ねてきた。
「逆に管理官はどう思いますか?」
私は質問を質問で返した。
「状況証拠はクロだ。だが、私の直感ではシロだ。あの男にあんな残忍な手法で人を殺すことは出来ない。奴の目は臆病者の目だ」
「同感です。私の勘では、犯人は猟奇的な手法を好む快楽殺人鬼サイコパス野郎だと思います」
私の勘は当たっていた。ほどなくして小池は取り調べから解放されることとなった。
この臆病者の男が主張するアリバイが証明されたのである。所謂彼はバイセクシャルだったのだ。
保原香澄が殺害された日の夜、小池は新宿二丁目のゲイバーで飲んでいた。以前から彼はこの界隈に顔を出し、足繁く通っていたのだ。警察から任意同行を求められた時、この話をしなかった理由は、自身がバイセクシャルであるということが世間に知れ渡ることを恐れてのことだった。
東京湾岸中央署を去る前、小池は自分がバイセクシャルであるという事実はくれぐれも内密にしてくれと念を押した。警察は守秘義務があるので、あなたの個人的な性癖が世間にバレることはありませんと、私と一緒に彼を玄関先まで送った桐畑班の結花子ちゃんは答えた。
捜査本部が設置された講堂に戻ると、
「結局、振り出しかよ」
扇子を扇ぎながら沖警部がぼやくようにいった言葉が耳に入ってきた。
同感だ。私は嘆息を吐いた。
「行こうか、立花君」
私は、冷めてしまったコーヒーを飲み干すと、講堂の後方の席で待機するそのキャリア警察官を誘った。
「どこへですか?」
「六本木の『ナカムラプロダクション』に決まってるでしょ。ああいうやくざ者の連中の中には、サイコパシー傾向を持った人間が少なくないのよね。刑事として私の勘では、犯人はマル害が嘗て交際していた男性の中にいる」
「そういうもんですかね」
呟くようにいって、立花君が席を立とうした瞬間、後方の引き戸が開いた。
切畑さんが講堂に入ってきた。
「お疲れ様です」
直の上司の顔を確認した結花子ちゃんが、地取りの聞き込み捜査から戻ってきた桐畑さんに労いの言葉を掛けた。
「どうだった?」
早速、桐畑さんは重要参考人とされた小池の事情聴取の成果を訊ねた。
「駄目でした。小池さんにはちゃんとしたアリバイがありました」
結花子ちゃんはかぶりを振った。
「そっか、残念だな。こっちも空振りだ。半日足を棒にして青海中歩いたが、事件解決に繫がるような手掛かりは得られなかった」
桐畑さんは、額に大粒の汗の掻きながらいった。
「おい藍原、そんなところでぼうと突っ立っていないで中へ入れ」
桐畑さんは振り向くと、引き戸の傍に立つ藍原さんに告げた。
「比嘉警部補殿が、キャリア様を引き連れてこれからお出掛けになられる。そこは入口だ。お前さんがそんなところに突っ立ってちゃ邪魔だろうが」
「相変わらず嫌味なことをいう男ね」
私は桐畑さんに毒を吐いた。
「それはお互い様だろ。さっさと出掛けろよ」
桐畑さんは、野良犬を追い払うように吐き捨てた。
「あっ気づきませんでした、済みません」
藍原さんは頭をさげると、身体を左に寄せた。
「私たちに気を使わなくていいのよ」
私は優しく声を掛け、藍原さんの横を擦り抜けて廊下へと出た。
後ろから追って来る立花君に、
「先に下りていて、私煙草吸ってくるから」
と顔も見ずに伝えた。
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