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一切喋らないで

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 母が私に呪いをかけた。
「アラーラ。貴方は一切喋らないで。せめて結婚するまではおとなしくしていなさい」
 それは私が十歳の時だった。

 母は不思議な力を持っている女性で、時々彼女の放つ言葉は真実になった。
 そして私は声を失い、それからまもなく父が亡くなっても、その五年後に母が亡くなっても同じだった。
 声一つ出せない私を周囲はどう思ったのか。
 ヒソヒソと聞こえる悪口は、だがもっともなものだった。
 役立たず、陰気。真実なのだから反論する理由もなく、私はただ黙るしかない。
 跡継ぎの兄が成人するまで代行を勤めていた母が亡くなったせいで、男爵家は十七歳の兄が継いだ。親類にはまだ早いと言われたが兄は自分ならできると根拠のない自信を見せてその座に座った。
 母の残したマニュアルで、当分はなんとかなると思う。当主代行補佐すら私に押し付け、遊び歩いている兄が当主として仕事ができるのか、それが少し心配だったけれど本人にやる気があるのなら良いだろう。
 だけど私が思っていた以上に、兄は賢かったらしい。
「アラーラ。今日の仕事はこれだけか」
 頷く私の目の前に、兄は掴んだ書類を放り投げる。
「やっておけ。俺は社交に忙しいんでな」
 そう言ってそのまま執務室を出て行ってしまった。
 母が亡くなる直前まで代行補佐を勤めていた私は、仕事の殆どを理解している。長年母の傍で補佐をしていたのだから、領地の収穫量について歴代の統計、領民の嘆願書へ対する解答、王室から賜る俸禄についての収支や書状について把握していた。
 兄は私が「そう」であることをきちんと理解しているのだから、賢いと言わざるを得ない。
 母が私を「そう」使ったように、兄も私を使う事に決めたのだろう。
 本当に賢いと思う。私はそんな事を考えつきもせず、遊び歩く兄はただその生活を改めるとすら思っていたのだから。
 遊びと政務、両立させる方法を思いつくのだから、兄は本当に賢い。
 しかしそんな生活を一年ほど続けると、兄は突然私に宣言した。
「おまえは出しゃばりすぎだ。領民から俺に敵意が向いてるじゃないか。もっとうまくやれ」
 首を傾げた。
 でしゃばるなと言われても、以前は母がやっていた公の行事を行ってくれるはずの兄は遊び歩いているのだ。それならば私がやるしかないだろう。
 そう書いて渡すと、兄はフンと鼻を鳴らしその紙を破り捨てた。
 パラパラと散る紙片を眺めながら、私は絨毯に落ちた紙は拾うのが面倒くさいなどと考えていた。
「喜べアラーラ。お前の結婚を決めてきてやったぞ。声も出せない陰気な女を娶ってくれる家だ。感謝しろ」
 そう言って兄は粘ついた笑みを浮かべた。
「俺の結婚が決まったしな。嫁ぎ遅れの妹がいては、妻にも迷惑だろう」
 そちらが本音なのだろう。確かに私というお荷物がいては、兄の奥さんには迷惑かもしれない。それに今この家の家長は兄なのだ。私はただそれに従うしかない。
 こくりと頷く私に、兄は満足そうに腕を組んだ。

 それから二か月後、兄の結婚式が執り行われた。
 末端とはいえ貴族の結婚式、やろうと思えばこんなに急ピッチでできるものなのかというほど、準備は大変だった。もちろん兄の代わりにその手配のほとんどを私が行った。
 兄の奥さんは男爵の娘だった。我が家と同じ男爵だが一代貴族の娘で、つまり父親だけが男爵と呼ばれるが家族そのものは平民なのだ。ややこしいが、その父親が功績を上げた素晴らしい人だという事実がある。
 しかし身分など些末な問題だった。
 兄と支えあい、幸せになってくれるなら何者でも良かったのだが。
「アラーラ、貴方早くお嫁に行ってくれないかしら。新婚家庭に小姑がいちゃ迷惑なのよぉ?」
 義姉にとって私は迷惑な存在だったらしい。
 家はそれなりに広いし、会わないと決めたなら会わなくても過ごせる程度には使用人もいるのだが、義姉にすれば存在する事自体がうっとおしいらしい。
 今日もわざわざ執務室にまで足を運び、ソファにどっかりと腰を下ろし、メイドにお茶を淹れさせて、私に不満をぶつけるのだ。
 曰く、兄が遊び歩いて帰ってこない。
 曰く、私が陰気なのが気に食わない。
 曰く、食事が思っていたより貧相だ。
 曰く、ドレスがもっと欲しいんだから金を出せ。
 要約すればこんな感じだった。
 兄がフラフラしているのは結婚前、いや母が生きている時からだったし、私が陰気なのは母の呪いのせいだ。
 金が出せないのは昨年この領地が寒波に見舞われて作物の収穫量が減ったからだし、これは天候によるものだから仕方がない。
 使用人を解雇すれば資金が出るなどと言われても、その使用人だってここの領民であり、この家が雇用を生み出している。そんなに簡単に首を切る事などできない。
 丁寧に紙に書いて説明しても、義姉には読む気がないのか一瞬で紙は床に舞う。
 この夫婦は、やることがなんだか似ている。
 そんな事を私が考えているとはつゆ知らず、姉は「もういいわ」とソファを立った。
「どうせ貴方は一か月後ここからいなくなるんですもんね。それまでの辛抱よ」
 兄からは「妹が執務を譲らない。結婚まで仕方ないから預けている」と聞いているらしい。初耳だ。とりあえず兄にでも理解できるように、領地経営に関する書籍を取り寄せてマニュアルを書き残しているから問題ないはずだが、今この家に無駄遣いをする余裕はない。
 兄の結婚式も本人たちの希望を汲んで随分華やかにしてしまい、出費がかさんでいる今、できたら慎ましく暮して欲しいものだが。
「ねえ知ってる? 貴方の嫁入り先は商人の家なのよ。貴族と縁を持ちたいからって、随分あの人に支払ったらしいわよ。笑っちゃうわよね」
 コロコロと笑う義姉の言葉に驚いた。
 それは初耳だ。
 しかし確かに兄が取り付けてきたという結婚は、その後なんの進展も聞かなかった。結婚にはどうしても金が動くし、私が嫁ぐとなれば持参金が必要だ。だから何度も兄をせっついたが、一切教えてくれなかった。
「だから安心して。貴方は持参金も、ドレスも、メイドも、何も持っていかなくていいの。その身一つで嫁ぐから、お金がかからないどころかお金が入る金の卵って訳」
 驚愕にポカンと口を開く私に、義姉は勝ち誇ったような顔をした。
「一か月後って聞いているわ。それまでにせいぜい、貴族として最後の生活を楽しみなさい」
 そう言って彼女は執務室を後にした。
 噓でしょ。
 私は絶望するしかなかった。

 それからきっちり一か月後。
 義姉の情報通りに私の嫁入りの日となった。
 結局兄本人から情報を聞かされたのは、私が嫁入りする一週間前だった。
 だけど本当に身ひとつで良いと言われ、持っていく荷物はわずかなものだった。
 急かすように馬車に乗せられ、見送ってくれる人は一人もいない。
 それを寂しく思わなくもないけれど、兄も今日からはいよいよ執務に向き合わなければいけないし、義姉にもそれを支えてもらわないといけないのだ。
 私なぞを見送るよりも、そちらの方が最優先なのだからと納得した。
 ギイギイと車輪が鳴って馬車が動き出す。
 それが十六年暮した我が家と、最後の別れだった。
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