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第三章 偽の恋人
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クラウス王子の声を聞くだけで、胸の鼓動が跳ね上がる。すぐ隣に立つ彼を意識して、手まで震えてしまう。もしかして彼は今、私を助けてくれたの?
「はて、私は何か言いかけましたかな?」
デリウス公爵がとぼけると、周りの男性達が首をぶんぶん横に振る。娘、エルゼの取り巻きよりも統制が取れているらしい。でもさすがは親子、ぞろぞろ連れ歩くところなんかはそっくりだ。
「きっと勘違いでしょう。クラウス殿下におかれましては、本日もご機嫌麗しく……」
「公爵も息災のようだな。大勢で言い寄り、ご婦人を困らせるくらいには」
「いえ、決して言い寄ってなど」
「そうか、それなら何を?」
「何って……世間話を。そう、猫の話をしておりました」
「ほう? 公爵は相当の猫好きと見える。飼うのは気まぐれな一匹だけで十分だと思うがな」
クラウス王子はたぶん、エルゼのことを言っている。思い至った公爵は悔しそうに歯ぎしりしていた。でも公爵なら「自分の娘は血統書付きだ。他と一緒にするな!」と威張るかもしれない。
「公爵、時間はいいのか? この後は会議のはずだが」
「そう、そうでした。議場に向かわなければいけませんので、失礼します」
頭を下げた公爵は、お付きの人々と逃げるように去って行く。目下の者には強気でも、クラウス王子のことは苦手なようだ。けれど「若造が」と苦々し気に吐き捨てるのが、ここまでしっかり聞こえてきた。放っておいていいのかしら?
そう思ってクラウス王子を見上げると、彼もこちらを見ていた。王子は私の腕を取り、柱の陰に引っ張って行く。私の護衛――マルクとテオはどうしていいかわからずに、その場で待機していた。まあ、告白されそうになったら大声を上げるから、駆け付けてくれればありがたい。
気が付くと私は、柱に背中を預ける形に。クラウス王子は柱に片手をつくと、至近距離から私の顔を覗き込んできた。
弟のアウロス王子を好きだと宣言した私。それなのに、クラウス王子の青い瞳に見つめられると、どうしようもなく嬉しいと感じてしまう。もちろん彼のため息や、心配そうに掠れた声の全てに心を奪われる。
「ディア、どうしてアウロスに送らせなかった? 何かあってからでは遅いんだ」
「いいえ。今まで何ともなかったし、護衛もいるので大丈夫かと」
「護衛では公爵に逆らえないだろう? 危険を顧みず、なぜ君は……。いつの間に弟とそんな仲に?」
レースで隠しているのに、私は表情を読まれたくないととっさに顔を伏せた。アウロス王子ではなく、本当は貴方のために来たの……正直に心の内を告げることはできない。
悪女の演技を続けよう。再び顔を上げた私は、わざと偉そうに腕を組む。つらくて心が痛いけど、仕方がないのだ。
「私達のことがクラウス様に何の関係があって? 双子だからって全てを共有する必要はないでしょう?」
「ディア、俺は……」
口ごもる王子を見て、頭の中に警戒用アラームが鳴り響く。今までと同じ間違いを冒すわけにはいかなかった。ここで人生終わりでは、あまりにも虚しい。
私はわざとため息をつき、迷惑そうに言い放つ。
「用件がそれだけなら、放して下さい。貴方も会議にご出席なさるのでは? 王太子でない貴方には、何の魅力も感じません」
もちろん違う。王太子であってもなくても、王子でさえなくても、私はあの時やっぱり貴方の手を取っていた。
だけど今、私がここにいるのはアウロス王子に協力し、クラウス王子を守るため。彼が国王の後継ぎにならなければ、意味がないのだ。
「君も、なのか? 君も地位が目当てだと?」
「さあ、どうかしら。そもそもどなたと比べているの? いずれにせよ、私には関わりのないことですね」
わざと突っぱねるように言ってみた。レースのおかげで、私の表情は見えない。
「ディア、会わない間に何が……以前の君はどこへ行った?」
「以前? ああ、商談をしていた時ですか。いやですわ。少しでも有利に運ぶため、猫を被るに決まっているでしょう?」
首を傾げて、喉の奥で笑う。
クラウス王子の表情がどんどん曇っていく。
「こっちが本来の姿だと?」
「ええ、そう。田舎にいるのもおとなしくしているのも飽きちゃった。その点アウロス……とは、色々楽しめそうだし」
楽しみなのは茶畑だけど、それはこの際黙っておこう。クラウス王子に嫌われた方が、身の安全は保てる。アウロス王子とも遊びだと、それとなく匂わせておく。
「そんなに弟がいいのか。持って生まれた良さを消してまで、あいつの側にいたいと?」
違う、私が好きなのは貴方よ。本当は貴方の側にいたいの。
「そうだとして、貴方に何の関係があるのかしら」
「関係がある……と、言ったら?」
「聞きたくないわね。いえ、お願いだから聞かせないでちょうだい」
「……わかった。君がこんな人だとは」
「私も同じ言葉を返すわ。強引なのは商談だけで十分よ」
「そう、か。余計な真似をして悪かった。次からはアウロスに助けてもらうといい」
「もちろんそうしますわ」
私は頷き、彼の手の下をくぐり抜けた。そのまま振り向きおどけたように挨拶すると、出口に向かって足を進める。顔の前にレースがあって良かった……噛み締めた唇や滲む涙は、誰に見られてもいけない。
好きになってはいけないと思うほど、好きになるのはどうしてだろう? もう一度、優しい笑顔を見たいと願うのは、そんなにいけないこと? 我ながら不思議だけれど、彼を初めて目にした時から何となく気になり、人柄を知るにつれどんどん惹かれていった。
思えば私は、今までの生で自分から好意を抱いたことはない。いつもどこかで線を引き、男性と心を通わせないようにしていたのだ。クラウス王子の想いを受け入れれば、一瞬でも満たされるの?
でも今の世界は居心地が良く、失いたくないものが多過ぎる。長生きしたいと願う私にとって、恋心など邪魔なだけ。
「愛より老後を、望んでいたはずよね?」
一時の感情に流されてはいけない。本心を隠して今さえ無事に乗り切れば、楽しい隠居生活が待っているのだ。
それから何日か後、角を曲がるなりエルゼの取り巻き達にばったり会った。向こうもびっくりしたようだけど、当然のごとく私を罵る。
「ああら、どなたかと思えば男好きの伯爵令嬢じゃない」
「相変わらず顔を隠して、嫌味なこと」
「エルゼ様のお気持ちも考えず……ご心痛で私達にも会われないのよ」
私が男好きだというのは、アウロス王子にも失礼な気が。それにエルゼが会いたくないのは、貴女達を疎ましく思っているせいだとすると、私に関係ないのでは?
けれど無駄な言い合いに意味を見出せず、私は言葉を飲み込む。
「何よ、言葉も出ないってわけ?」
「美し……可愛らしいエルゼ様を傷つけて、謝罪の言葉もないの?」
「いい気になるのも今だけよ。正妃どころか側室にだってなれるかどうか」
いえ、全くその気はありません。
期間限定の割り切った恋人役だもの。茶畑と国賓用のワインが約束されているため、私にとっては仕事の一環だ。そろそろ行かないと、約束の時間に遅れてしまう。
「用件はそれだけですか? アウロス……が待っているので、ごめんあそばせ」
彼女達の言い分を軽く流して脇を通り過ぎようとしたところ、フィリスがわざとらしく体当たりを仕掛けてきた。私は当然華麗に避ける。
「わっ」
「ちょっと、やめてよ!」
「ええっ、ひどい」
振り向いて確認したところ、彼女達がバランスを崩してよろめくのが見えた。転びそうになったフィリスがとっさに隣の令嬢の袖を掴み、その令嬢がさらに横にいた令嬢のドレスを持ったため、フリルを引き裂いたようだ。
「信じられない」
「これ、高いのに……」
「覚えてなさいよ!」
口々に勝手なことを言って去って行く。スッキリしたけれど、そのせいで別の者に被害が及ぶ。
「きゃっ」
「ボーっと立っているなんて邪魔よ!」
彼女達にぶつかられた料理人の女性が転び、持っていた板を落とした。巻き込まれただけなのに、誰も助けようとはしない。板の上の白い塊が床に転がる。
「ああっ」
私は見兼ねて近づくと、膝をつき料理人の女性を助け起こした。当の三人はとっくに見えなくなっている。
するとそこに別の女性が護衛と共に通りかかった。年上で名のある貴族の奥方らしく、着ているものも上品だ。彼女は私達を見るなり足を止める。
「貴女が噂の人?」
会うなりいきなり聞いて来た。もしかして、エルゼのお母様? だったら今日は厄日だろうか?
「はて、私は何か言いかけましたかな?」
デリウス公爵がとぼけると、周りの男性達が首をぶんぶん横に振る。娘、エルゼの取り巻きよりも統制が取れているらしい。でもさすがは親子、ぞろぞろ連れ歩くところなんかはそっくりだ。
「きっと勘違いでしょう。クラウス殿下におかれましては、本日もご機嫌麗しく……」
「公爵も息災のようだな。大勢で言い寄り、ご婦人を困らせるくらいには」
「いえ、決して言い寄ってなど」
「そうか、それなら何を?」
「何って……世間話を。そう、猫の話をしておりました」
「ほう? 公爵は相当の猫好きと見える。飼うのは気まぐれな一匹だけで十分だと思うがな」
クラウス王子はたぶん、エルゼのことを言っている。思い至った公爵は悔しそうに歯ぎしりしていた。でも公爵なら「自分の娘は血統書付きだ。他と一緒にするな!」と威張るかもしれない。
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「そう、そうでした。議場に向かわなければいけませんので、失礼します」
頭を下げた公爵は、お付きの人々と逃げるように去って行く。目下の者には強気でも、クラウス王子のことは苦手なようだ。けれど「若造が」と苦々し気に吐き捨てるのが、ここまでしっかり聞こえてきた。放っておいていいのかしら?
そう思ってクラウス王子を見上げると、彼もこちらを見ていた。王子は私の腕を取り、柱の陰に引っ張って行く。私の護衛――マルクとテオはどうしていいかわからずに、その場で待機していた。まあ、告白されそうになったら大声を上げるから、駆け付けてくれればありがたい。
気が付くと私は、柱に背中を預ける形に。クラウス王子は柱に片手をつくと、至近距離から私の顔を覗き込んできた。
弟のアウロス王子を好きだと宣言した私。それなのに、クラウス王子の青い瞳に見つめられると、どうしようもなく嬉しいと感じてしまう。もちろん彼のため息や、心配そうに掠れた声の全てに心を奪われる。
「ディア、どうしてアウロスに送らせなかった? 何かあってからでは遅いんだ」
「いいえ。今まで何ともなかったし、護衛もいるので大丈夫かと」
「護衛では公爵に逆らえないだろう? 危険を顧みず、なぜ君は……。いつの間に弟とそんな仲に?」
レースで隠しているのに、私は表情を読まれたくないととっさに顔を伏せた。アウロス王子ではなく、本当は貴方のために来たの……正直に心の内を告げることはできない。
悪女の演技を続けよう。再び顔を上げた私は、わざと偉そうに腕を組む。つらくて心が痛いけど、仕方がないのだ。
「私達のことがクラウス様に何の関係があって? 双子だからって全てを共有する必要はないでしょう?」
「ディア、俺は……」
口ごもる王子を見て、頭の中に警戒用アラームが鳴り響く。今までと同じ間違いを冒すわけにはいかなかった。ここで人生終わりでは、あまりにも虚しい。
私はわざとため息をつき、迷惑そうに言い放つ。
「用件がそれだけなら、放して下さい。貴方も会議にご出席なさるのでは? 王太子でない貴方には、何の魅力も感じません」
もちろん違う。王太子であってもなくても、王子でさえなくても、私はあの時やっぱり貴方の手を取っていた。
だけど今、私がここにいるのはアウロス王子に協力し、クラウス王子を守るため。彼が国王の後継ぎにならなければ、意味がないのだ。
「君も、なのか? 君も地位が目当てだと?」
「さあ、どうかしら。そもそもどなたと比べているの? いずれにせよ、私には関わりのないことですね」
わざと突っぱねるように言ってみた。レースのおかげで、私の表情は見えない。
「ディア、会わない間に何が……以前の君はどこへ行った?」
「以前? ああ、商談をしていた時ですか。いやですわ。少しでも有利に運ぶため、猫を被るに決まっているでしょう?」
首を傾げて、喉の奥で笑う。
クラウス王子の表情がどんどん曇っていく。
「こっちが本来の姿だと?」
「ええ、そう。田舎にいるのもおとなしくしているのも飽きちゃった。その点アウロス……とは、色々楽しめそうだし」
楽しみなのは茶畑だけど、それはこの際黙っておこう。クラウス王子に嫌われた方が、身の安全は保てる。アウロス王子とも遊びだと、それとなく匂わせておく。
「そんなに弟がいいのか。持って生まれた良さを消してまで、あいつの側にいたいと?」
違う、私が好きなのは貴方よ。本当は貴方の側にいたいの。
「そうだとして、貴方に何の関係があるのかしら」
「関係がある……と、言ったら?」
「聞きたくないわね。いえ、お願いだから聞かせないでちょうだい」
「……わかった。君がこんな人だとは」
「私も同じ言葉を返すわ。強引なのは商談だけで十分よ」
「そう、か。余計な真似をして悪かった。次からはアウロスに助けてもらうといい」
「もちろんそうしますわ」
私は頷き、彼の手の下をくぐり抜けた。そのまま振り向きおどけたように挨拶すると、出口に向かって足を進める。顔の前にレースがあって良かった……噛み締めた唇や滲む涙は、誰に見られてもいけない。
好きになってはいけないと思うほど、好きになるのはどうしてだろう? もう一度、優しい笑顔を見たいと願うのは、そんなにいけないこと? 我ながら不思議だけれど、彼を初めて目にした時から何となく気になり、人柄を知るにつれどんどん惹かれていった。
思えば私は、今までの生で自分から好意を抱いたことはない。いつもどこかで線を引き、男性と心を通わせないようにしていたのだ。クラウス王子の想いを受け入れれば、一瞬でも満たされるの?
でも今の世界は居心地が良く、失いたくないものが多過ぎる。長生きしたいと願う私にとって、恋心など邪魔なだけ。
「愛より老後を、望んでいたはずよね?」
一時の感情に流されてはいけない。本心を隠して今さえ無事に乗り切れば、楽しい隠居生活が待っているのだ。
それから何日か後、角を曲がるなりエルゼの取り巻き達にばったり会った。向こうもびっくりしたようだけど、当然のごとく私を罵る。
「ああら、どなたかと思えば男好きの伯爵令嬢じゃない」
「相変わらず顔を隠して、嫌味なこと」
「エルゼ様のお気持ちも考えず……ご心痛で私達にも会われないのよ」
私が男好きだというのは、アウロス王子にも失礼な気が。それにエルゼが会いたくないのは、貴女達を疎ましく思っているせいだとすると、私に関係ないのでは?
けれど無駄な言い合いに意味を見出せず、私は言葉を飲み込む。
「何よ、言葉も出ないってわけ?」
「美し……可愛らしいエルゼ様を傷つけて、謝罪の言葉もないの?」
「いい気になるのも今だけよ。正妃どころか側室にだってなれるかどうか」
いえ、全くその気はありません。
期間限定の割り切った恋人役だもの。茶畑と国賓用のワインが約束されているため、私にとっては仕事の一環だ。そろそろ行かないと、約束の時間に遅れてしまう。
「用件はそれだけですか? アウロス……が待っているので、ごめんあそばせ」
彼女達の言い分を軽く流して脇を通り過ぎようとしたところ、フィリスがわざとらしく体当たりを仕掛けてきた。私は当然華麗に避ける。
「わっ」
「ちょっと、やめてよ!」
「ええっ、ひどい」
振り向いて確認したところ、彼女達がバランスを崩してよろめくのが見えた。転びそうになったフィリスがとっさに隣の令嬢の袖を掴み、その令嬢がさらに横にいた令嬢のドレスを持ったため、フリルを引き裂いたようだ。
「信じられない」
「これ、高いのに……」
「覚えてなさいよ!」
口々に勝手なことを言って去って行く。スッキリしたけれど、そのせいで別の者に被害が及ぶ。
「きゃっ」
「ボーっと立っているなんて邪魔よ!」
彼女達にぶつかられた料理人の女性が転び、持っていた板を落とした。巻き込まれただけなのに、誰も助けようとはしない。板の上の白い塊が床に転がる。
「ああっ」
私は見兼ねて近づくと、膝をつき料理人の女性を助け起こした。当の三人はとっくに見えなくなっている。
するとそこに別の女性が護衛と共に通りかかった。年上で名のある貴族の奥方らしく、着ているものも上品だ。彼女は私達を見るなり足を止める。
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