眠らない世界で彼女は眠る

楠木 楓

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眠る少女も恋をする

5.願い

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「今日から消失期に入るぞ」

 朝礼を終えた一時間目、ホーリーのクラスは歴史の授業だった。
 歴史を担当しているリエトは小柄で細身であるがよく通る声を持っている。聞き取りやすい彼の声は、小難しい話でも集中して聞けてしまう、と生徒からの評判が非常に良い。

「今まで学んできた時代では、石や壁、一部木材等に彫られた絵や文字。
 保存状態の良い紙や布といったものに印刷、刺繍されたものが史料として残っていた。
 では、消失期のものは何故消えてしまったのか」

 中学一年生から今までにかけて、歴史の授業では史料が残っている時代について学んできた。年月と共に素材が劣化し、解読が困難になっているものも多いが、全てが失われているわけではない。修復や研究の末、復元できたものも多く、今となっては信じがたい時代の生活について知ることができている。
 今日から始まるのは、さらにほんのわずか、一端を知ることで精一杯になってしまった時代の話だ。

 リエトはスクリーンに「デジタル」という文字を映し出す。

「紙の質が変わってしまったことや、大きな争いというのも原因ではあるが、最も大きな理由はこれだろう、とされている」

 今現在の人間が使っている電子機器は寿命が非常に長く、余程荒い扱いでもしない限り壊れることはない。
 後世に伝える必要があるだろうと判断された情報に関しては、高度な自動修復機能を持ったものが使われており、半永久的に壊れることなく地球上に存在し続ける。

「昔のものが脆かったのなら、何度も媒体を変えて保存しなおせば良かったんじゃないんですか?」

 生徒の一人が手を挙げて質問をした。
 リエトは授業中の質問を歓迎しており、時には話が脱線したとしても問いへ答えを返してくれる。教科書通りに進まないとしても、その時、その時に生徒が抱いた興味関心を尊重してくれているのだ。

「本当に必要である、と判断されたものは今でも一部残されている。
 ただ、それが本当にわずかであることが問題なんだ」

 複雑な科学や思想に関する論文はいくつか残されているが、芸術や一般庶民の生活に関するものは優先度が低かったらしく、一握り程度も残されていない。
 中高生の教科書に載せることができるものなど、その一握り以下のほんの一部に過ぎなかった。
 名も無き市民が今へ歴史のひと欠片を残すには時代が悪すぎたことも、史料が少ない要因となっている。

「残された史料の中には、争いを厭うような文が見られるものも多い。
 我々の先祖は同じ人間同士が争うことの愚かさをよく知り、説いていた」

 努力はあったのだろう。数少ない史料の中にその痕跡が見られる程度には。
 悲しきは実を結ぶことがなかった、という点だ。

 国家間の争い。内乱。その他の細々とした争い。
 傷つけあうことを悪とし、平和を説く文章が残されている隣で、人の死についてのデータが積み上げられていく。無常な話だ。

「今の我々が平和を謳歌できているのは、それを願った先人達によるものが大きいのかもしれない」

 リエトは目を閉じ、過去に思いを馳せる。
 歴史が残されていない時代であったとしても、今に続く過去であったことに違いはない。連綿と続く時間の流れには意味があり、意義があったのだ。

「今は戦争なんてないもんね」
「犯罪者だって殆どいないし、平和だよね」
「人が人を殺したり、傷つけたりするなんて、そんな馬鹿らしいことしないよな」

 生徒達は口々に今、自分達が享受している平和について話し始める。
 人が争いを好んでいたのは遠い昔の話。今を生きる人間達には想像もつかないような世界の出来事だ。
 どの国も科学に満たされ、領土の大小に拘わらず同等の利益を得ることが可能になっている。否、同等である必要すらない。不足のない世界である以上、さらなるものを望む必要はない。

 最早、争う理由など人類には存在していないのだ。

「科学の進歩のおかげだな。
 昔は神頼みなんてものもあったらしいが、今となってはそれも失われた文化の一つとなった」

 二年に上がったばかりの頃、神と宗教についての話があった。
 教訓を物語に仕立て上げ、人の生き方を説き、心の拠り所として生み出された妄想上の存在。偶像に頼ったところで、何も生まれず、何も成さない。
 未熟な技術と文化が生んだものだ、と哀れみをひと匙混ぜた笑いへと発展していったことは記憶に新しい。

「……神様、か」

 ホーリーは虚空を見る。
 彼女は神も宗教も笑うことはなかった。

 かつて、神というものは様々な姿で描かれていたのだという。
 無形であったり有形であったり。何か一つを司っているものもいれば、森羅万象の全てを有するものもいた。多種多様な神の姿や物語は、人々がただ一つを信仰していたわけではなく、時代や民族、国による違いがあったことを想像させる。
 考古学者の中には、神という存在から消失期を探っていこうとする者もいるほどだ。

「いいなぁ」

 窓の外に流れる雲を見て、ホーリーはうっとりと言葉を零す。
 宗教も神も、失われてしまうには惜しい文化であったと思う。

 現代を生きる人々は恐れを抱くことがとても少ない。昼夜問わず外には光が溢れており、身の安全も保障されている。贅沢を望まなければ最低限の生活を送ることに不自由はなく、身も心も常に暖かな綿で包まれているような世界だ。
 悪いとは言わない。とても幸福で、優しい世界であることは疑いようのない事実である。

 しかし、それでいいのか、とも思う。

 人々は死すら恐れない。その先にあるのはただの無であり、そこに至るまでの苦痛は医学によって軽減、ないし無にされる。自身が失われてしまうことすら、いずれくると確定している事項である以上、足掻くことは無駄な労力に他ならない。人々は全てを受け入れ、静かに死という終わりを得る。
 どうしてなのだ。ホーリーはずっと不思議だった。

 満たされているはずだというのに未来を考えれば不安に陥る。週末に待つデートの結果すら恐ろしくなってしまうのだ。
 その先に待つ死、というものについて考えてしまえば、眠れぬ夜がやってくる程に恐ろしい。

 理論や科学では説明することのできぬこの恐怖を拭い去ってくれるのは人知を超えたものしかないのではないだろうか。この恐怖こそが、人を前へ突き動かす原動力と成り得るのではないか。
 答えは見えぬ。だからこそ、彼女は神へ言葉を捧げる。

「神様、どうか、デートが上手くいきますように」

 その行為を過去の人は祈りと呼び、神を想う気持ちを信仰、と呼んでいた。
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