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三話 物盗られ妄想
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認知症にはいくつかの種類があるが、その中でもっとも有名なのがアルツハイマーだろう。よく知られているだけあって、認知症の中でも割合が高く、全認知症患者の約七割がこのアルツハイマーに罹患している、と言われている。
アルツハイマーの特徴としてあげられるのが、女性に多いこと、そして物盗られ妄想が発現しやすいことだ。
「私の財布が無い!」
不機嫌そうに声を荒げた岸本はアルツハイマーの典型とも言えた。
八十を超えてもなお自分の面倒は自分で見る、と凛とした雰囲気さえ持つ彼女だが、病は着実に脳を侵していた。
「どうしたんですか?」
「どうしたも何も、私の財布がないのよ。
盗まれたんだわ!」
無論、誰も盗んでいない。
岸本の家族は彼女へ現金を渡さないようにしているし、デイサービスに来るにあたっては最低限の着替えだけを持参してきている。
とはいえ、そんな真実を言ったところで岸本には通じない。
彼女にとって、外に出てきているのにお金を持っていない、というのはあり得ないことなのだ。
財布を入れた記憶がなくとも、必ず持ち歩くものが無くなっている。それも、金銭の類となれば、結論として盗まれた、が出てくるのはそう飛躍した思考でもないだろう。
ここで、家に置いてきたのかもしれない、となる利用者もいるのだが、そこは個々人の性格であったり、今までの環境が影響してくる。
「また始まったか……」
岸本と中島から少し離れた場所でスタッフがため息をつく。
病気なのだから仕方がないとはいえ、岸本は少なくとも日に一度、多ければ二度三度と自身の財布が盗まれたのだと主張する。暴れまわることがないだけマシと言えばマシなのだが、苛立った空気は周りに伝染し、他の利用者の気持ちを不安定にさせることがままあった。
優しい利用者であれば、スタッフに岸本を助けてあげてほしいと求め、気難しい利用者であれば騒がしい岸本を疎む。
十人以上いる利用者に対し、スタッフは五人程度。時間や曜日によっては入浴や送迎、休日などの兼ね合いによってフロアにいる人数が激減する。
そうなれば全ての利用者を落ち着かせるのにどれだけ時間がかかることか。
「そうなんだ。でも、今日は家に置いてきた、って言ってなかったっけ」
「絶対持ってきた。財布を置いてくるはずがないじゃない」
「うん、そうか。じゃあ、カバンのポッケとかに入ってない?」
人間の気分など一辺倒なものではなく、岸本もたまにはスタッフの言い分に是を返してくれる。
家に置いてきたのかな、となれば儲けものであるが、大抵の場合はこのように間髪入れぬ否定が紡がれる。
中島がうんうん、と肯定を返している間に他のスタッフは周囲の感情に敏感な利用者へとつく。
どうしたんだろうね、と同調する者、別のことに意識を向けさせるべくテレビについて話したり、個人のことについて話したり、利用者によって対応を変えていく。
「あ、岸本さん、これって何?」
「旦那」
「へー! 優しそうですね」
「そう? まあ、私のこと大切にしてくれてたわ」
カバンの中から出てきた一枚の写真。
映っているのは今よりも幾分か若い、けれどもう老年を迎えているであろう男女だ。
ふわりと笑っている彼らはとても幸せそうで、お似合いの夫婦であった。
「いいねぇ。お見合い?」
「父の部下の子どもだったの」
岸本は夫婦仲が良かったらしく、昔の話を聞いても必ず夫の話が出てきた。
未だ見込んである中島には少々酷なほどの惚気が毎度毎度展開され、スタッフ間でもよく話題に上がる。カバンから出てきた写真も、たまたま入り込んでいたわけではなく、彼女が肌身離さず持ち歩いているものだ。
悲しいといえばいいのか、統計的に考えれば当然ととらえればいいのか、岸本の夫は数年前に亡くなっており、彼女もそれを認識している。
当時は岸本も嘆き悲しんだのだろうけれど、戦争を潜り抜けてきた世代は伊達ではなく、深い人生経験のもと彼女はお迎えがくるまでは生きていなきゃね、とよく笑っていた。
「デートとかした?」
「そんな暇なかったわ。
あの人は兵隊さんになってたし、戦争の後も大変だったし」
「子どもが独り立ちしてからとか」
「どうだったかしらねぇ」
ふふ、と岸本は笑う。
中島はこっそりと安堵の息を漏らす。
他愛もない雑談であるが、これも一つの介護技術なのだ。
盗られた、と感じている人間に何を言ったところで通じない。かといって気が済むまで探させたとして、次に来るのは家に帰る、という言葉だ。
じゃあどうぞ、と言えるわけもない中、介護士にできることと言えば、気を逸らしてやることだけ。
言い方は悪いが、数分前のことを覚えていられないような人間が相手だ。
相手が話したいと思える話題を提供し、そのことに意識を集中させてしまえば、財布が無かったことすら忘れる。後は適当にタイミングを見て出したカバンの中身を戻すように誘導し、気持ちが落ち着くまで話を聞いてやれば事が済む。
一見すると単純かつ簡単なことのように思えるが、これすら時と場合によっては通じないことがあるし、優先順位が上位に来る利用者対応があった際などは限界ギリギリまで岸本を苛立たせたままにすることもある。
そうなれば単純な話題提供だけで終わるはずもなく、庭先やドライブに出て気持ちを切り替えてもらう必要があった。
これらすら機能しない場合は、一人で施設を抜けて帰ってしまうことを防ぐため、家族に説明をし送り届けることもある。
「素敵な人だったんですね」
「えぇ。自慢の人だったわ」
ひと段落ついたところで、中島は他の利用者との交流や業務のために席を外すべく立ち上がった。
「じゃあ岸本さん。素敵なお話、ありがとうございまし――」
「あら。私の財布どこ?」
エンドレスループ。
中島は上げたばかりの腰を下ろし、笑顔を浮かべる。
「そうだ。旦那さんって」
「ちょっと待って。それどころじゃないの」
直近二度目の同じ話題は通じないらしい。
アルツハイマーの特徴としてあげられるのが、女性に多いこと、そして物盗られ妄想が発現しやすいことだ。
「私の財布が無い!」
不機嫌そうに声を荒げた岸本はアルツハイマーの典型とも言えた。
八十を超えてもなお自分の面倒は自分で見る、と凛とした雰囲気さえ持つ彼女だが、病は着実に脳を侵していた。
「どうしたんですか?」
「どうしたも何も、私の財布がないのよ。
盗まれたんだわ!」
無論、誰も盗んでいない。
岸本の家族は彼女へ現金を渡さないようにしているし、デイサービスに来るにあたっては最低限の着替えだけを持参してきている。
とはいえ、そんな真実を言ったところで岸本には通じない。
彼女にとって、外に出てきているのにお金を持っていない、というのはあり得ないことなのだ。
財布を入れた記憶がなくとも、必ず持ち歩くものが無くなっている。それも、金銭の類となれば、結論として盗まれた、が出てくるのはそう飛躍した思考でもないだろう。
ここで、家に置いてきたのかもしれない、となる利用者もいるのだが、そこは個々人の性格であったり、今までの環境が影響してくる。
「また始まったか……」
岸本と中島から少し離れた場所でスタッフがため息をつく。
病気なのだから仕方がないとはいえ、岸本は少なくとも日に一度、多ければ二度三度と自身の財布が盗まれたのだと主張する。暴れまわることがないだけマシと言えばマシなのだが、苛立った空気は周りに伝染し、他の利用者の気持ちを不安定にさせることがままあった。
優しい利用者であれば、スタッフに岸本を助けてあげてほしいと求め、気難しい利用者であれば騒がしい岸本を疎む。
十人以上いる利用者に対し、スタッフは五人程度。時間や曜日によっては入浴や送迎、休日などの兼ね合いによってフロアにいる人数が激減する。
そうなれば全ての利用者を落ち着かせるのにどれだけ時間がかかることか。
「そうなんだ。でも、今日は家に置いてきた、って言ってなかったっけ」
「絶対持ってきた。財布を置いてくるはずがないじゃない」
「うん、そうか。じゃあ、カバンのポッケとかに入ってない?」
人間の気分など一辺倒なものではなく、岸本もたまにはスタッフの言い分に是を返してくれる。
家に置いてきたのかな、となれば儲けものであるが、大抵の場合はこのように間髪入れぬ否定が紡がれる。
中島がうんうん、と肯定を返している間に他のスタッフは周囲の感情に敏感な利用者へとつく。
どうしたんだろうね、と同調する者、別のことに意識を向けさせるべくテレビについて話したり、個人のことについて話したり、利用者によって対応を変えていく。
「あ、岸本さん、これって何?」
「旦那」
「へー! 優しそうですね」
「そう? まあ、私のこと大切にしてくれてたわ」
カバンの中から出てきた一枚の写真。
映っているのは今よりも幾分か若い、けれどもう老年を迎えているであろう男女だ。
ふわりと笑っている彼らはとても幸せそうで、お似合いの夫婦であった。
「いいねぇ。お見合い?」
「父の部下の子どもだったの」
岸本は夫婦仲が良かったらしく、昔の話を聞いても必ず夫の話が出てきた。
未だ見込んである中島には少々酷なほどの惚気が毎度毎度展開され、スタッフ間でもよく話題に上がる。カバンから出てきた写真も、たまたま入り込んでいたわけではなく、彼女が肌身離さず持ち歩いているものだ。
悲しいといえばいいのか、統計的に考えれば当然ととらえればいいのか、岸本の夫は数年前に亡くなっており、彼女もそれを認識している。
当時は岸本も嘆き悲しんだのだろうけれど、戦争を潜り抜けてきた世代は伊達ではなく、深い人生経験のもと彼女はお迎えがくるまでは生きていなきゃね、とよく笑っていた。
「デートとかした?」
「そんな暇なかったわ。
あの人は兵隊さんになってたし、戦争の後も大変だったし」
「子どもが独り立ちしてからとか」
「どうだったかしらねぇ」
ふふ、と岸本は笑う。
中島はこっそりと安堵の息を漏らす。
他愛もない雑談であるが、これも一つの介護技術なのだ。
盗られた、と感じている人間に何を言ったところで通じない。かといって気が済むまで探させたとして、次に来るのは家に帰る、という言葉だ。
じゃあどうぞ、と言えるわけもない中、介護士にできることと言えば、気を逸らしてやることだけ。
言い方は悪いが、数分前のことを覚えていられないような人間が相手だ。
相手が話したいと思える話題を提供し、そのことに意識を集中させてしまえば、財布が無かったことすら忘れる。後は適当にタイミングを見て出したカバンの中身を戻すように誘導し、気持ちが落ち着くまで話を聞いてやれば事が済む。
一見すると単純かつ簡単なことのように思えるが、これすら時と場合によっては通じないことがあるし、優先順位が上位に来る利用者対応があった際などは限界ギリギリまで岸本を苛立たせたままにすることもある。
そうなれば単純な話題提供だけで終わるはずもなく、庭先やドライブに出て気持ちを切り替えてもらう必要があった。
これらすら機能しない場合は、一人で施設を抜けて帰ってしまうことを防ぐため、家族に説明をし送り届けることもある。
「素敵な人だったんですね」
「えぇ。自慢の人だったわ」
ひと段落ついたところで、中島は他の利用者との交流や業務のために席を外すべく立ち上がった。
「じゃあ岸本さん。素敵なお話、ありがとうございまし――」
「あら。私の財布どこ?」
エンドレスループ。
中島は上げたばかりの腰を下ろし、笑顔を浮かべる。
「そうだ。旦那さんって」
「ちょっと待って。それどころじゃないの」
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