尾張名古屋の夢をみる

神尾 宥人

文字の大きさ
21 / 48
第三章

(四)

しおりを挟む
 お亀の言葉に、将軍家康は顔を顰めて考え込んだ。
「なるほど、浅野家のう……今となってはわしとしても、何も含むところはないのだが」
「されど、江戸では中納言さまに門前払いをされたと聞きました。かの大戦おおいくさの功労者に、それはあんまりではございませぬか?」
 家康の杯に酒を注ぎながら、お亀はなおも尋ねる。かの女がそこまで知っていることに、家康は少し驚いた顔を見せた。お亀とて戦のことなどよくは知らぬが、浅野家のこれまでの経緯については氏勝から子細に講釈を受けてきていた。
「あれもそこまで深い考えはなかったであろう。もしかするとまことに手が離せなかっただけやもしれぬ。それとも、わしの内心に考えを巡らせ過ぎたか……」
 もしも家康が弾正長政を赦していないのであれば、留守中に勝手に歓待するわけにもいかない。そう過剰に気を遣った可能性もあった。日頃から秀忠は、家康の顔色を窺ってばかりいる。まことにおのれが将軍の座を継げるのか、よほど不安なのであろうか。
「では中納言さまに、そのことをちゃんとお伝えくださいませ。その上でもう一度浅野さまに、江戸へ上られるようお命じになればよいのです」
「それはできぬ」家康は杯を呷りながら答えた。「含むところはない。されどまた、浅野を特別に扱う気もない」
「……何ゆえでございますか。それでは、浅野さまが可哀想ではありませぬか」
 そうしてお亀は声を潜め、氏勝から預かった焙烙ほうろく玉をひとつ、家康の耳元に投げ付けた。
「仕物(暗殺)云々などという話は……元より実のない言い掛かりであったのでございましょう?」
 家康はまたぎょっと目を見開いて、それからお亀を睨み付けてきた。それは今となっては明らかな、誰もがそうと知りつつ口には出せぬ、公然の秘密と言えた。暗殺計画などというものは最初からなく、上杉に対する言い掛かりと同じ、すべては石田治部少を炙り出すための謀であった。
 されどそれでも家康は怒ることなく、あくまでも閨での睦言のごとく、お亀の耳元に囁き返した。
「言い掛かりゆえ、今さら言い掛かりと認めることもできぬのだ。察せよ」
 なるほど、とお亀も奇妙に得心がいった。すべてが上手く運んだ今だからこそ、その絡繰りを明かすことはできぬということだ。上手く運んだからこそ、表向きの筋書きはすべて真ということにしておかねばならない。
「では、どうすれば浅野は救われまするか?」
「ずいぶんと浅野に肩入れするものよの?」
 そう問い返されても、お亀はあらかじめ氏勝が用意しておいた答えを返す。
「何しろわざわざ駿府まで足を運んで、五郎太にも礼を尽くしてくださったのです。出来ることがあれば、お力になって差し上げたいではありませぬか」
 ふむ、と家康はその真意を探るように、お亀の目を覗き込んだ。されどすぐに得心したのか、目を落としてしばし思案する。ややあって、低い声でゆっくりと言った。
「質が……足りぬかの」
「質、でございますか?」
「うむ。弾正がさらに身内を質に差し出すようであれば……こちらも、それには応じねばならぬであろう」
 
 
「……とのことでございました」
 説明を終えると、お亀は氏勝の顔を見ながら晴れ晴れと笑みを浮かべた。その骨折りに、氏勝も素直に「ありがとうございました、お方さま」と平伏する。
「礼には及びませぬ。これもすべて、五郎太のためなのでございましょう?」
 そう言いつつも、お亀の顔にははっきりと「これで借りは返しましたよ」と書いてあるかのようだった。まあ氏勝としても、そういうことにしてくれて構わない。
「しかし……質でございますか。それは少々、難題でございますね」
「そうなのでございますか。私にはさほど難しいこととも思えませんでしたが……」
「いえ……浅野家はすでに、弾正どののご正室を江戸に送っているのでございます。その上さらにとなりますと、紀伊守どのも同意してくださるかどうか」
 諸大名が家康の元に人質として身内を送ることをはじめたのも、奇しくも件の暗殺計画が切欠であった。弾正長政とともに首謀者として疑われた前田肥前守利長が、父大納言利家の未亡人にして生母の芳春院を、先んじて家康の元に人質として差し出したのである。それによって前田家は家康の勘気を鎮め、領地を守ることができた。
 それを見た長政も、同じように正室であるややの方を江戸に送ることで、おのが疑いを晴らそうとした。されどこうしたことは概して二度目からは効果が薄れてゆくもので、結局それでも長政は赦されず、蟄居と隠居を迫られることとなってしまった。つまり最初から家康は長政に対して、それでは足りぬと伝えていたのだ。されどそれ以上に人質を差し出すのは、長政もさすがに屈辱と感じたようだった。
 その上今の浅野家には、他に人質として差し出せる者がいないというのも実のところである。幸長の正室の麻阿まあの方は池田勝入恒興の娘であったが、すでに若くして亡くなっている。いまだ嫡男のいない幸長は、現在前田家と利家の娘である与免姫の輿入れを諮っているが、いまだ話はまとまっていないとのことだ。つまり幸長もおのが室を差し出そうにも、その室がいないのである。
「では、仕方がありませんね。何、上さまとて今すぐ浅野をどうこうしようというわけでもないでしょうし……」
 されど浅野の家中はこれからも、いつ徳川から改易されるか、あるいは大幅な減封を受けるかという不安の中で過ごさねばならない。そうなれば家康がこれより築こうとしている泰平の治世にとって、捨て置くことのできぬ火種ともなりうる。
「お方さま」と、氏勝は意を決して切り出した。「某に、ひとつ考えていることがあります。聞いていただけますか?」
「何ですか」と、お亀は眉を顰めながら尋ねてきた。「どうも、あまり良くない予感がするのですが」
「紀伊守さまにはいまだ嫡男はおられませぬが、二歳になったばかりの姫君がおりまする」
 春に生まれたゆえ、名は春姫と付けられたとか。されど難産であったがため、生母である麻阿の方はそれにより命を落としてしまった。それもあってか幸長は、この姫をたいそう可愛がっているらしい。
「して、その姫がどうかしましたか。さすがに上さまも、さように幼い姫を人質になどとは申されますまい?」
「そうではありませぬ。その姫を、五郎太丸さまのお相手といたすのはいかがでしょう」
 氏勝の突然の言葉に、お亀はぱちぱちと目を瞬かせた。その意味が、すぐには理解できなかったようだ。
「お相手と申すと……五郎太に嫁がせよということですか?」
 さよう、と氏勝は頷く。「むろん、祝言はまだ先で結構。今は許嫁いいなずけという形にいたしましょう。つまり将来、姫を質にいただく約定を交わすのでございます」
 武家の婚儀は政にして謀。臣下の者が姫を主家に嫁がせるとは、人質を差し出すのと同じである。されど将軍の一族の、それも正室としてであれば、十分に浅野家の顔も立つ。今すぐに姫を差し出さずともよい、ということで抵抗も少ないであろう。
「さすれば浅野家は徳川の縁戚となります。上さまとて無碍にはできますまい。浅野家は救われ、世もまたひとつ静謐に近付きまする」
 されどお亀はまだ複雑な顔をしていた。齢四つにして、息子の将来の伴侶を決めてしまうことに抵抗があるのか。おそらくはまるで、幼い我が子が政の道具にされているかのように感じているのであろう。
「三十七万石の姫君では、お相手に不足でしょうか?」
「そうではありません……ありません、が」
「すべては五郎太丸さまのためにございます。道具にしているのは、あくまでもこちらでございますぞ」
 決して五郎太丸を道具にしているのではない、五郎太丸が、浅野の姫君を道具にするのである。そう強く繰り返すと、ようやくお亀の方は弱々しく笑みを浮かべた。
「そなたが、あの子のことのみを思って言っているのはわかっております」そう言って、どこか眩しそうに目を細める。「いいでしょう。上さまにもそのように伝えておきます」
 
 
 そうして家康からの同意を得ると、氏勝はすぐに駿府を発った。
 紀伊守幸長は突然の来訪に驚きながらも、和歌山城にてみずからそれを出迎えた。そして春姫を正室として迎え入れたい旨を伝えると、いっそうの驚きを顔にありありと浮かべた。
「それは本気で申しておるのか、山下どの?」
「むろん本気にござる。紀伊守さまのご存念をお伺いしたく思います」
 幸長は険しい顔で腕を組み、しばし考え込んだ。ややあって、何か苦いものを噛み締めたかのような声で言った。
「それはお春を質として差し出せという謂に受け取ってよろしいか」
「この婚儀に、そうした側面もあることは認めまする」
 氏勝は顔を上げ、幸長の厳しい視線を真っすぐに受け止める。されど一歩も引かず、毅然として続けた。
「されど正室としてお招きするからには、我らがお方さま。何ひとつ不自由な思いはさせませぬ」
 そう言葉を重ねてみても、幸長の表情は晴れなかった。眉根に皺を寄せ、きつく口を引き結んだまま、またじっと黙り込む。答えを急くことではないので、氏勝も無言で待ち続けた。
「悪い話でないことはわかっておる」長い沈黙のあとで、幸長はようやく口を開いた。「ただ我らの本意は先に申した通り。徳川に膝を屈するも、すべては内府さまがためよ。もしも徳川と豊臣が一戦に及べば、我も命に代えて内府さまをお守りいたす所存。その場合、お春はどうなる?」
「そうならぬための婚儀にございます。先に千姫さまが豊臣に嫁がれたことと併せても、両家の誼はいっそう強きものとなるでしょう。天下はますます静謐、豊臣がためにも良きことかと」
 幸長はなおも詰るように言った。「この話、言い出したのは上さまか。あるいは御母堂か?」
それがしにございます」
 そう答えると、幸長はまた驚きを露わにした。「そなた、禄はいかほどだ」
「先の移封に伴い、千に加増していただきました」
端禄はろくではないか。徳川家ではたかが千石の者に、子息の婚儀を決めさせるのか」
 とはいえ、その声音に呆れの色はなかった。こちらの言葉を疑っている様子もない。ただただ、驚いていた。
「そなたはいったい何者なのだ……山下信濃守」
 問われても、答えは決まっていた。他に答えようもない。「五郎太丸さまの、傅役筆頭にございます」
 その返答に、幸長はようやくわずかに表情を和らげた。警戒は薄れ、むしろ氏勝に対する興味が湧いてきたようだった。
「では傅役どの、まことの狙いは何じゃ。そなたはいったい、何を欲しておる」
「こちらも先に申しました通り、我が主は五郎太丸さまただひとり。願うは、主の安寧と弥栄のみにございます」
「では問いを改めよう。この話、そなたの主にいったい何の利があるのじゃ」
「三十七万石が浅野家とのえにし、それが利にならぬと仰せで?」
 そうしてとうとう、幸長は相好を崩した。それでも氏勝は何が可笑しかったのかわからず、硬い表情のまま相対している。
「正直を申せば、我は戸惑っておるのじゃ。娘の相手として、五郎太丸さまは申し分ない。ただ良い話過ぎて、裏があるのかと穿ってしまうのよ」
「いかに申せば、裏などないと信じていただけましょうや?」
「そのためには腹を割ろうか、傅役どの。まことの言葉を聞かせてくれ」
 幸長が身を乗り出した。そしてじっと、氏勝の目を覗き込んでくる。
「五郎太丸さまのお立場は、さほどに危ういのか」
「さようなことはございません……今は」
「つまり、中納言さまの御代となったときを見越しているということか」
 それには答えない。答えずとも、通じると思ってのことだ。この若く闊達とした将、頭の回転も速い。
「上さま亡きあとのうしろ盾を我らに……いや、違うな。それには三十七万石でも足らぬ」
 不意に、幸長は目を見開いた。そうしてにんまりと口元を緩め、まるで秘め事を囁くように続ける。
「さてはそなた……たかが千石の身で、徳川と豊臣を手玉に取ろうとしておるか」
 それにも答えない。答えてはならぬことであるからだ。お亀の方にすら、決して気取られてはならぬ謀。ゆえ、静かに頭を垂れて言うだけであった。
「我らの求めるものは同じ。徳川と豊臣、手を携えての静謐。それこそが、互いが守りたきものを守れる道。どうかご理解いただけませぬか」
「なるほどの……どうやら思っていた以上に面白き男であったようだな、傅役どの……いや、信濃守どの」
 そうして幸長は乗り出していた身を引き、居住まいを正した。そうして両拳を突き、床しく頭を下げる。
「此度の縁談、ありがたくお受けいたそう。どうか我が娘、よしなに頼む」
 
 
 この二月後、浅野弾正長政と紀伊守幸長は再び江戸に上がり、将軍家康と対面した。会談は和やかなうちに終わり、長政はややの方のいる江戸に残って、家康に近侍することとなる。そして三年後の慶長十一年、隠居料として常陸真壁五万石を与えられ、その地で余生を送った。
 その後幸長は、江戸へと出仕する際は必ず駿府へと立ち寄った。のちに氏勝の言葉を書き遺した『山下氏書上』には、「其以後弾正少殿、紀伊守殿御両人、右兵衛督殿(五郎太丸)御部屋へ度々御出被成候、御取次仕候」とある。よほど将来の娘婿である五郎太丸が気に入ったのか、あるいは氏勝らと意気投合したのか。
 おそらくは、その両方であったと思われる。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜

かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。 徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。 堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる…… 豊臣家に味方する者はいない。 西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。 しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。 全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

日露戦争の真実

蔵屋
歴史・時代
 私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。 日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。  日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。  帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。  日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。 ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。  ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。  深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。  この物語の始まりです。 『神知りて 人の幸せ 祈るのみ 神の伝えし 愛善の道』 この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。 作家 蔵屋日唱

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

織田信長 -尾州払暁-

藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。 守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。 織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。 そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。 毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。 スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。 (2022.04.04) ※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。 ※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。

もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら

俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。 赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。 史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。 もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。

田や沼に龍は潜む

大澤伝兵衛
歴史・時代
 徳川吉宗が将軍として権勢を振るう時代、その嫡子である徳川家重の元に新たに小姓として仕える少年が現れた。  名を田沼龍助という。  足軽出身である父に厳しく育てられ武芸や学問に幼少から励んでおり、美少女かと見間違う程の美貌から受ける印象に反して、恐ろしく無骨な男である。  世間知らずで正義感の強い少年は、武家社会に蠢く様々な澱みに相対していく事になるのであった。

処理中です...