尾張名古屋の夢をみる

神尾 宥人

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第三章

(六)

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 元服したのちも、義利は駿府にて過ごした。家康もかの息子に目をかけ、情愛をもって教え育んだようである。されどその接し方は、ときには厳しくもあった。
 例えばこの頃、家康はよく義利を鷹狩りへと同行させている。そうしてひとしきり狩りを続けて木陰にて休憩をとった際、義利が女御衆から渡された弁当を広げると、家康はそれを叱責したという。
 理由もわからぬまま義利は食を摂らずに過ごし、草臥れ果てて夕刻を迎えた。家康の真意を伝えるのは、もっぱら氏勝の役目であった。
「さて……空腹ではありませぬか、殿」
 そう声をかけ、氏勝は懐から焼飯を取り出した。当時の焼飯とは、一度炊いた米を水分が飛ぶまで炒めて、保存がきくようにされた戦闘糧食である。
 されど義利は「……要らぬ」と首を振る。「父上は、食など摂るなと言われた」
「そうではありませぬぞ、殿」
 氏勝はそう言うと、義利の前で焼飯をぽりぽりと齧った。
「大御所さまは、この鷹狩りもまた戦であると捉えているのでございましょう。ならば戦場では、将も兵と同じときに、同じものを食さねばなりませぬ。それが、兵を率いる者の心得かと」
 しょげ返っていた義利が、ようやく姿勢を起こした。そうして何か言いたげに、ひとり焼飯を齧る氏勝を見上げる。
「これもまた苦からず。某は嫌いではありませぬぞ。いかがですか、殿」
 義利はごくりと唾を飲み込み、おずおずと手を伸ばしてきた。そしてよほど空腹だったのであろう、いかにも美味そうに頬張った。若き主はこのとき口にした焼飯がずいぶん気に入ったようで、以後鷹狩りのときはもちろん、城にあるときも好んで食すようになったという。
 むろん、厳しいばかりではなかった。そののち義利が感冒で倒れ、高熱で生死の境を彷徨った際には、家康はみずから漢方薬を調合して飲ませたと記録に残っている。そして間もなく快癒すると、お亀の方と泣きながら手を取り合って喜んだという。
 そうした周囲の愛情もあって、義利は若武者として順調に成長していった。ただ氏勝が気掛かりなのは、どうにも生真面目で固苦しく、笑顔も見せず気負っているように見えるところだった。駿府の将たちの間で流行している舞曲などにも興味を示さず、もっぱら書を好んで、城の書庫に入れば一日中そこで過ごしていたりもする。もう少し齢相応の溌剌さがあってもいいのではないかと思わないでもなかった。
「あのご気性は大御所さまとも、またお方さまとも違いますな。いったいどなたに似たものか……」
 そう漏らすと、お亀の方も女御衆もくすくすと笑った。かの女性たちには、義利が一心にこの無愛想な傅役の真似をしているのが丸わかりなのである。その懸命さはいっそ微笑ましくもあり、どうやら当の氏勝ひとりが気付いていないらしいのが、また可笑しみを誘うのであった。
 

 
 そうしてまた時は流れて慶長十二年(一六〇七年)三月。長い闘病の末に、尾張中将忠吉が清洲にて息を引き取った。享年二十八という、あまりに早過ぎる死であった。
 この四男の死は覚悟していたとはいえ、家康にも少なからぬ衝撃を与えた。それだけ、家康も忠吉のことを買っていたということである。武勇に優れ頭も回り、やや一本気になところもあったがそれゆえ人望も集めていた。おそらく将の器という点では、子らの中でも群を抜いていたであろう。このまま秀忠を傍で支え、万一のことあらば上に立つこともできる。忠吉がいればおのれも心置きなく隠居できると思ってもいた。されどその皮算用も、これでご破算である。
 とはいえ、家康には悲嘆に暮れている暇もなかった。忠吉に代わる尾張の国主を、早急に定めなければならなかったのである。誰でもいいというわけではない。東海道と中山道、さらには伊勢街道が交わり、江戸と京・大阪を同時に睨むことができる尾張は、まさしく日の本という扇の要とも言える地だからだ。
 それゆえあの石田治部少も、兵を挙げたのちはまず尾張を落とそうと躍起になった。それを許さなかったことが、あの天下分け目の大戦に勝ちを得た要因でもあったとも言える。さらに遡る長久手の合戦も、秀吉と家康による尾張の争奪戦であった。そこで一歩も引かなかったからこそ、わずか二万の兵で十万の羽柴勢と渡り合うことができたのだ。
 尾張とはそうした土地である。右府信長と太閤秀吉、ふたりの覇者を輩出したのも決して偶然ではないのだ。
 そしてもしまた豊臣を奉じ、幕府に牙を剥く者があれば、必ずや尾張を押さえにかかるであろう。そのとき万が一にも尾張を託した者が寝返れば、江戸は逆に喉元へ刃を突き付けられることとなる。戦は泥沼の長期戦となり、西国の各地で火の手が上がろうと手も足も出ない。ようやく築いた静謐もあえなく瓦解し、世は再び乱世へと逆戻りであろう。そんなことは決してあってはならなかった。
 ではその尾張を、誰に任せるか。それが難題であった。本多平八郎はすっかり老い、榊原式部も井伊兵部もすでにいない。それぞれの後継者たちは受け継いだ領地を守るので精一杯で、とても要を託せるだけの器ではなかった。といって伊達や上杉、前田や黒田も信ずるに能わない。
「お呼びでございますか、大御所さま」
 障子の向こうから声がした。忠吉の死を聞き付けて、駿府へと駆け付けてきた男の声だった。
「入るがよい、七之助。今さらわしに要らぬ気遣いをするな」
 そうして入ってきたのは腹心の中の腹心、平岩主計頭親吉であった。家康は行燈の火に照らし出されたその顔を見て、この男も老いたなと感慨に耽る。親吉もきっとおのれを見て、同じことを思っているであろう。
 されど家康が心の底から信を置ける相手は、もうこの者しか残っていなかった。盟友ということでは本多佐渡守もいまだ存命だが、あれは別の意味で信用できないところがある。
「右兵衛を尾張に封じることとした」
 前置きもなく家康は言った。親吉もそれに異を唱えることもなく、「さようでございますか」とだけ答える。
「おぬしには犬山城十万石を与える。倅をたすけてやってくれ」
 親吉は狭い部屋で膝をつき合わせるように座ると、静かに平伏して答えた。
「これが最後のお務めと心得、身命を尽くさせていただきます。どうぞお任せを」
「最後などと言うな。おぬしには右兵衛が一人前になるまで、まだまだ頑張ってもらわねばならぬのだからな」
 家康がそうぼやくと、ふたりは小さく声を合わせて乾いた笑いを漏らした。その笑い声は、まるで嗚咽のように響いた。
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