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第四章
(七)
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大役を恙なく果たした義利を駿府へと送り届けると、氏勝は再び名古屋へと戻った。この頃には普請助役たちの手で、熱田の湊と名古屋を繋ぐ、のちに堀川と呼ばれることになる水路も完成していた。この水路によって材木を舟で運搬することが可能になり、解体された清洲城は建材となって、続々と名古屋へと運ばれていった。そうしていよいよ、名古屋城天守閣の建造が本格的にはじまったのである。
氏勝も依然として多忙を極めていた。どうやら前田家のために加藤家と浅野家を動かし、家康との仲立ちをしたことが知れ渡り、前にも増して口利きを求める者が殺到したのである。
ただしそのほとんどは、大御所の手を煩わせるまでもない些末な揉め事ばかりであった。それで結局は氏勝自身が出張って行って、町奉行に掛け合ったり、または直接談判するしかなくなってしまう。そうして余計な手間ばかりが増えていく次第であった。
そんな多忙にかまけて、氏勝も京でのこともいつしか忘れていった。藤七が顔を見たという剣呑な忍びのことも、ただの杞憂に過ぎなかったと。
そうして名古屋に戻ってふた月ほど経った、ある夜のことである。仮屋敷に戻りひと息ついた氏勝の元に、伝右衛門がふらりと訪ねてきた。この前田家普請役は、あれ以来度々この仮屋敷を訪れるようになっていた。されど温厚なこの者にしては珍しく、その夜はひどく険しい顔をしていた。
「かような遅くにどうなされた、小野どの?」
尋ねると、伝右衛門はまだ信じられないというように小さく首を振り、低い声で告げてきた。
「加藤肥後守どのが身罷られたとのことにござる」
氏勝はその事実がすぐには理解できずに、ただぼんやりと「……今、何と申された?」と訊き返すのみであった。
「だから、肥後守どのが身罷られたのです。帰途の船中で倒れられて、そのまま目を覚まされなかったとのことで……こちらに残っている加藤家の人足たちも、急ぎ引き上げると申しておりました」
「まさか……いったい何の病で?」
「まだそこまではわからぬが……おそらくは、瘡毒(梅毒)ではないかとのこと」
氏勝は思わず、あり得ぬと大声を出していた。むろん、瘡毒は決して珍しくはない病だ。されど命を落とすほど重くなっていたとすれば、見た目にもはっきりとわかる徴が顕れるものである。ついふた月ほど前に京で顔を合わせたときには、清正の様子にさような徴はまったく見て取れなかった。
そうした肝心なときに限って藤七はなかなか現れず、ようやく屋敷の庭に音もなく姿を見せたのは、それから数日経ってからのことであった。その唐突な訪いようはいつも通りだったが、氏勝はもうそのことに文句を言うこともなく、待ちかねたようにそれを出迎えた。
「それで、肥後守さまはまことに身罷られたのか」
「六月二十四日のことであったそうです。亡骸はすぐに荼毘に付され、墓所に納められたとか」
「風聞では、瘡毒であったとのことだが?」
「そうなのですか。当地では、麻疹との話でございましたが……もっともそれも風聞の類、慥かなことはわかりませぬ」
「おぬしでもわからぬのか?」
そう重ねて尋ねると、藤七は首を振って「……相済みませぬ」と答える。別に責めているわけではない。つまりこの者でも突き止められぬほど、厳に秘されているということだ。
「仕物であるとも考えられるか?」
「それもわかりませぬ。わからぬということは、あり得ぬことではないということにございます」
「先だっておぬしが言っていた、鹿右衛門とか申す……かの者の手によるとも?」
「それも、あり得ぬことではない……としか」
籐七はそう言葉を濁す。そうとしか言えないことに、この者も口惜しく思っているらしい。
「京ではあの男の動向を探るよりも、山下さまとそのご一行をお守りすることに気を向けねばならなかったゆえ」
「わかっておる……それを責める気は毛頭ない」
「されどあの男が得意とするは毒……それも、ありとあらゆる毒に精通しておるとのこと。中には、ひと月ふた月掛けてじわじわと死んでゆく類のものもあると聞いておりまする。周りの者はもちろん、当の本人ですら仕物であったことに気付かぬとか……」
剣呑よの、と氏勝は忌々しげにつぶやいた。かような者には、狙われずに済むことを願うばかりだ。
「されどそうであるとすれば、いったい誰の命で動いていたかが問題よ。上さまか……あるいは大御所さまが?」
すでに民の間には、それを疑う声も上がりはじめていた。二条城での会見に於いて、清正は常に秀頼の傍に控えて護衛を務めていた。一対一で対面したかった家康に、退くように言われもしたが、頑としてその場を離れなかったともいう。豊臣を滅ぼしたい家康としては、その忠節ぶりを怖ろしく思ったのではないかと。
されど藤七は、「さて、それはいかがでございましょう」と口を挟んでくる。「肥後守が邪魔であったのは、決して幕府方ばかりではございますまい」
「それはどういうことだ……大坂方にとっては、肥後守さまは頼りになるお味方であろう」
「されど徳川にも恭順し、豊臣との橋渡しをしようともしております。その姿勢に不満を抱いていた者も少なくないかと」
むろん、内心ではそう思っておる者もいるであろう。それは氏勝もわかっていた。されど今更戦を仕掛けたところで、徳川に勝てると思っている者もいまい。豊臣の家を存続させるには、幕府とうまく付き合ってゆくしか道はないのだ。そのことは、誰しもわかっているはず。ならばなぜ。
そう訝ったところで、ふと脳裏に蘇ったものがあった。口惜しげに唇を噛み締め、俯く幼い横顔。この地はもう、我らのものではないのだぞ。そう吐き捨てるようにつぶやく声。
ああ、そうであった。氏勝もやっと思い出していた。あのときも結局は、若殿こそが正しかった。たとえ屈辱に耐えて膝を屈したところで、どうせ最後には内ヶ島も滅んだではないか。
「屈辱に耐えねばならぬくらいなら、いっそ潔い滅びを。そう思う者もいるということだな?」
「仕官先もなく浪々の身に甘んじている者。長き蟄居に腐されている者。また徳川の風下に立たされ、所領も大きく減らされた豊臣家中の者。そうした者らの目には、徳川から禄を貰い豊臣との橋渡しをしようとする肥後守は、許されざる表裏者に映るやもしれませぬ」
つまり戦を望んでいるのは、徳川よりむしろ豊臣方というわけか。戦をしても勝てるとは思えぬ。されど戦がなければ、どこまでも浮かばれぬままの屈辱が続く。それならば最後に大きな死に花を咲かせてやろうか。そうした心持ちは、氏勝にも理解できなくもなかった。
「されど肥後守さまがいなくなったとて、すぐに戦になるというものでもあるまい。むしろ豊臣としては、ますます仕掛けようがなくなったであろう」
「豊臣方はそうでございましょうな……されど徳川からすれば、これでずいぶんと攻め易くなり申した」
「されど大御所さまには、豊臣を攻め滅ぼす心積もりはなかろう。上さまは……どう考えておられるかわからぬが、もしあったとて大御所さまが止めるはずじゃ」
もしも家康に豊臣を攻め滅ぼす気があれば、これまでに何度も機会はあった。特に五年前、秀忠の将軍宣下に際しての上洛を秀頼が拒んだときなど、十分に攻める口実はあったのだ。されどその都度家康はおのれから折れてきた。それは決して、清正や幸長の存在あってのみではなかったはずである。
関ヶ原の大戦以来十余年、徳川は天下静謐を大義にして、幕府の元に体制固めを続けてきた。むろんすべては徳川の世を磐石とするためのお題目なのだが、それゆえに自ら反故にすることはできない。お題目も、お題目に過ぎぬと認めぬ限りは真実なのだ。
「もちろん、この一手ですぐに戦に向かうとも思えませぬ。されどこれが、単に布石のひとつに過ぎぬとしたら何とします?」
「つまり、まだ良からぬことが起きると申すか?」氏勝は、胸の裡にぞわりとしたものが広がるのを覚えた。「いったいどのような……」
「それこそわかりませぬよ……されど、何が起こっても不思議はございませぬ。どうかお覚悟めされませ、そして何が起きても動じぬよう」
そうして籐七はまた立ち上がり、闇の中に消えていった。あとにはただ、夜の中を飄々と風が吹いているだけだった。その風はいまだ七月も半ばでありながら、やけに冷たく感じられた。
※
同じ頃、高野山の麓の小さな村でも、ひとりの将がその生涯を閉じていた。将の名は真田安房守昌幸。武田の旧臣でありながら、主家滅亡後も権謀術数を駆使して織田・豊臣と泳ぎ渡り、太閤秀吉をして「表裏比興の者」と言わしめた梟雄であった。関が原戦の直前に徳川を裏切り石田方に付き、上田城にて秀忠の五万の軍勢を翻弄し、決戦に遅参させたことでも知られていたが、そのために戦後改易され、長き蟄居の身に甘んじていた。そしてその蟄居はついに解かれることなく、この地にて果てたというわけである。
そしてその報は徳川・豊臣方双方の将たちを、少なからず安堵させた。所領をすべて没収され、自由を奪われながらもなお、何をするかわからぬ怪物として、敵味方どちらからも恐れられていた男であったのだ。されど安堵するのはまだ早いということを、このときはまだ誰も気付かずにいた。
かつて老人がいつも腰を掛けていた庵の縁に、痩せこけた壮年の男が蹲り、足元の小さな送り火から立ち上る煙を目で追っていた。煙は夏にしてはひんやりとした風に煽られて、すぐに霧のように散ってゆく。
男はその煙に目を向けたまま、ぽつりとつぶやいた。「父上は身罷ったぞ。ひと足遅かったな、鹿右衛門」
夜闇の中には、煙と風にそよぐ木々の枝の他に動くものはなかった。されど声だけがどこからともなく降ってきた。
「殿には、才蔵という名をいただきました」
「ほう……わしには鹿右衛門のほうがよき名だと思えるがの」
壮年の男は微笑むと、ゆらりと立ち上がった。そしてしだらなく伸びた髭をゆっくりと撫でながら、闇の中に問いかける。
「して、才蔵よ。おぬしはどうするのだ。父上はもうおらぬ。それでもまだ、続けるというのか?」
されどその問いに、応えはなかった。それはつまり、答えるまでもなしということであった。
「止む無し、か。父上はこのわしに、偽りの安寧を突き崩し、世を再び混沌へと導く策を授けられた。ときは満ちた。今こそ立ち上がるべしとな。よいか?」
そう再び問うたとき、叢を割ってひとつの人影が進み出てきた。それは男のよく知る顔であった。
「……六郎か」
「はっ」と、影はその場に跪く。「海野六郎兵衛幸郷、罷り越しましてございます」
続けて風が鳴り、いくつもの影が闇の中に浮かび上がる。そのどれもが、同じように屈辱に耐え忍んできた父の家臣たちであった。男はその髭面を、苦々しげに顰める。
「愚か者どもよ……もっと利巧な生きようもあったろうに」
それでも満足げに、男……真田左衛門佐幸村はつぶやいた。
※
この二条城会見後の数年間、正確に言えば慶長十六年から十八年の間には、豊臣方・徳川方問わず著名な将たちの逝去が集中している。特に会見に関わった者の中でも、直後の十一年四月七日には常陸にて浅野弾正少弼長政。六月二十八日には熊本にて加藤肥後守清正。そして押し詰まった十二月三十日には、完成したばかりの名古屋城二の丸御殿にて、平岩主計頭親吉が息を引き取っている。さらには慶長十八年の一月三十一日には、同じく二条城に居合わせていた池田武蔵守輝政も姫路にて急逝した。むろんすでに高齢であった者もおり、そのすべてが不審であるとは言わぬが、やはり偶然というには重なり過ぎていることは否めない。
氏勝と義利にとって大きかったのは、やはり主計頭親吉の死であろう。何より徳川家中において最大の庇護者でもあり、若き附家老の山城守正信にとっては師とも言える存在であった。その親吉を喪ったことでいよいよ尾張徳川家は、庇護下から離れてひとり立ちしなければならなくなった。犬山城には成瀬隼人正が入り、親吉の所領のうち三万三千石を引き継いだ。そして正信と渡辺忠右衛門も名古屋入りし、義利を迎える準備も最終局面に入っていた。
されど慶長十八年八月、さらに氏勝らにとっては悪夢のような報が届く。祝言の支度が進む許嫁・春姫の父親であり、もうひとりの庇護者でもあった浅野紀伊守幸長が、和歌山城にて急死したのである。その齢まだ三十八歳という、あまりにも早すぎる最期であった。
氏勝も依然として多忙を極めていた。どうやら前田家のために加藤家と浅野家を動かし、家康との仲立ちをしたことが知れ渡り、前にも増して口利きを求める者が殺到したのである。
ただしそのほとんどは、大御所の手を煩わせるまでもない些末な揉め事ばかりであった。それで結局は氏勝自身が出張って行って、町奉行に掛け合ったり、または直接談判するしかなくなってしまう。そうして余計な手間ばかりが増えていく次第であった。
そんな多忙にかまけて、氏勝も京でのこともいつしか忘れていった。藤七が顔を見たという剣呑な忍びのことも、ただの杞憂に過ぎなかったと。
そうして名古屋に戻ってふた月ほど経った、ある夜のことである。仮屋敷に戻りひと息ついた氏勝の元に、伝右衛門がふらりと訪ねてきた。この前田家普請役は、あれ以来度々この仮屋敷を訪れるようになっていた。されど温厚なこの者にしては珍しく、その夜はひどく険しい顔をしていた。
「かような遅くにどうなされた、小野どの?」
尋ねると、伝右衛門はまだ信じられないというように小さく首を振り、低い声で告げてきた。
「加藤肥後守どのが身罷られたとのことにござる」
氏勝はその事実がすぐには理解できずに、ただぼんやりと「……今、何と申された?」と訊き返すのみであった。
「だから、肥後守どのが身罷られたのです。帰途の船中で倒れられて、そのまま目を覚まされなかったとのことで……こちらに残っている加藤家の人足たちも、急ぎ引き上げると申しておりました」
「まさか……いったい何の病で?」
「まだそこまではわからぬが……おそらくは、瘡毒(梅毒)ではないかとのこと」
氏勝は思わず、あり得ぬと大声を出していた。むろん、瘡毒は決して珍しくはない病だ。されど命を落とすほど重くなっていたとすれば、見た目にもはっきりとわかる徴が顕れるものである。ついふた月ほど前に京で顔を合わせたときには、清正の様子にさような徴はまったく見て取れなかった。
そうした肝心なときに限って藤七はなかなか現れず、ようやく屋敷の庭に音もなく姿を見せたのは、それから数日経ってからのことであった。その唐突な訪いようはいつも通りだったが、氏勝はもうそのことに文句を言うこともなく、待ちかねたようにそれを出迎えた。
「それで、肥後守さまはまことに身罷られたのか」
「六月二十四日のことであったそうです。亡骸はすぐに荼毘に付され、墓所に納められたとか」
「風聞では、瘡毒であったとのことだが?」
「そうなのですか。当地では、麻疹との話でございましたが……もっともそれも風聞の類、慥かなことはわかりませぬ」
「おぬしでもわからぬのか?」
そう重ねて尋ねると、藤七は首を振って「……相済みませぬ」と答える。別に責めているわけではない。つまりこの者でも突き止められぬほど、厳に秘されているということだ。
「仕物であるとも考えられるか?」
「それもわかりませぬ。わからぬということは、あり得ぬことではないということにございます」
「先だっておぬしが言っていた、鹿右衛門とか申す……かの者の手によるとも?」
「それも、あり得ぬことではない……としか」
籐七はそう言葉を濁す。そうとしか言えないことに、この者も口惜しく思っているらしい。
「京ではあの男の動向を探るよりも、山下さまとそのご一行をお守りすることに気を向けねばならなかったゆえ」
「わかっておる……それを責める気は毛頭ない」
「されどあの男が得意とするは毒……それも、ありとあらゆる毒に精通しておるとのこと。中には、ひと月ふた月掛けてじわじわと死んでゆく類のものもあると聞いておりまする。周りの者はもちろん、当の本人ですら仕物であったことに気付かぬとか……」
剣呑よの、と氏勝は忌々しげにつぶやいた。かような者には、狙われずに済むことを願うばかりだ。
「されどそうであるとすれば、いったい誰の命で動いていたかが問題よ。上さまか……あるいは大御所さまが?」
すでに民の間には、それを疑う声も上がりはじめていた。二条城での会見に於いて、清正は常に秀頼の傍に控えて護衛を務めていた。一対一で対面したかった家康に、退くように言われもしたが、頑としてその場を離れなかったともいう。豊臣を滅ぼしたい家康としては、その忠節ぶりを怖ろしく思ったのではないかと。
されど藤七は、「さて、それはいかがでございましょう」と口を挟んでくる。「肥後守が邪魔であったのは、決して幕府方ばかりではございますまい」
「それはどういうことだ……大坂方にとっては、肥後守さまは頼りになるお味方であろう」
「されど徳川にも恭順し、豊臣との橋渡しをしようともしております。その姿勢に不満を抱いていた者も少なくないかと」
むろん、内心ではそう思っておる者もいるであろう。それは氏勝もわかっていた。されど今更戦を仕掛けたところで、徳川に勝てると思っている者もいまい。豊臣の家を存続させるには、幕府とうまく付き合ってゆくしか道はないのだ。そのことは、誰しもわかっているはず。ならばなぜ。
そう訝ったところで、ふと脳裏に蘇ったものがあった。口惜しげに唇を噛み締め、俯く幼い横顔。この地はもう、我らのものではないのだぞ。そう吐き捨てるようにつぶやく声。
ああ、そうであった。氏勝もやっと思い出していた。あのときも結局は、若殿こそが正しかった。たとえ屈辱に耐えて膝を屈したところで、どうせ最後には内ヶ島も滅んだではないか。
「屈辱に耐えねばならぬくらいなら、いっそ潔い滅びを。そう思う者もいるということだな?」
「仕官先もなく浪々の身に甘んじている者。長き蟄居に腐されている者。また徳川の風下に立たされ、所領も大きく減らされた豊臣家中の者。そうした者らの目には、徳川から禄を貰い豊臣との橋渡しをしようとする肥後守は、許されざる表裏者に映るやもしれませぬ」
つまり戦を望んでいるのは、徳川よりむしろ豊臣方というわけか。戦をしても勝てるとは思えぬ。されど戦がなければ、どこまでも浮かばれぬままの屈辱が続く。それならば最後に大きな死に花を咲かせてやろうか。そうした心持ちは、氏勝にも理解できなくもなかった。
「されど肥後守さまがいなくなったとて、すぐに戦になるというものでもあるまい。むしろ豊臣としては、ますます仕掛けようがなくなったであろう」
「豊臣方はそうでございましょうな……されど徳川からすれば、これでずいぶんと攻め易くなり申した」
「されど大御所さまには、豊臣を攻め滅ぼす心積もりはなかろう。上さまは……どう考えておられるかわからぬが、もしあったとて大御所さまが止めるはずじゃ」
もしも家康に豊臣を攻め滅ぼす気があれば、これまでに何度も機会はあった。特に五年前、秀忠の将軍宣下に際しての上洛を秀頼が拒んだときなど、十分に攻める口実はあったのだ。されどその都度家康はおのれから折れてきた。それは決して、清正や幸長の存在あってのみではなかったはずである。
関ヶ原の大戦以来十余年、徳川は天下静謐を大義にして、幕府の元に体制固めを続けてきた。むろんすべては徳川の世を磐石とするためのお題目なのだが、それゆえに自ら反故にすることはできない。お題目も、お題目に過ぎぬと認めぬ限りは真実なのだ。
「もちろん、この一手ですぐに戦に向かうとも思えませぬ。されどこれが、単に布石のひとつに過ぎぬとしたら何とします?」
「つまり、まだ良からぬことが起きると申すか?」氏勝は、胸の裡にぞわりとしたものが広がるのを覚えた。「いったいどのような……」
「それこそわかりませぬよ……されど、何が起こっても不思議はございませぬ。どうかお覚悟めされませ、そして何が起きても動じぬよう」
そうして籐七はまた立ち上がり、闇の中に消えていった。あとにはただ、夜の中を飄々と風が吹いているだけだった。その風はいまだ七月も半ばでありながら、やけに冷たく感じられた。
※
同じ頃、高野山の麓の小さな村でも、ひとりの将がその生涯を閉じていた。将の名は真田安房守昌幸。武田の旧臣でありながら、主家滅亡後も権謀術数を駆使して織田・豊臣と泳ぎ渡り、太閤秀吉をして「表裏比興の者」と言わしめた梟雄であった。関が原戦の直前に徳川を裏切り石田方に付き、上田城にて秀忠の五万の軍勢を翻弄し、決戦に遅参させたことでも知られていたが、そのために戦後改易され、長き蟄居の身に甘んじていた。そしてその蟄居はついに解かれることなく、この地にて果てたというわけである。
そしてその報は徳川・豊臣方双方の将たちを、少なからず安堵させた。所領をすべて没収され、自由を奪われながらもなお、何をするかわからぬ怪物として、敵味方どちらからも恐れられていた男であったのだ。されど安堵するのはまだ早いということを、このときはまだ誰も気付かずにいた。
かつて老人がいつも腰を掛けていた庵の縁に、痩せこけた壮年の男が蹲り、足元の小さな送り火から立ち上る煙を目で追っていた。煙は夏にしてはひんやりとした風に煽られて、すぐに霧のように散ってゆく。
男はその煙に目を向けたまま、ぽつりとつぶやいた。「父上は身罷ったぞ。ひと足遅かったな、鹿右衛門」
夜闇の中には、煙と風にそよぐ木々の枝の他に動くものはなかった。されど声だけがどこからともなく降ってきた。
「殿には、才蔵という名をいただきました」
「ほう……わしには鹿右衛門のほうがよき名だと思えるがの」
壮年の男は微笑むと、ゆらりと立ち上がった。そしてしだらなく伸びた髭をゆっくりと撫でながら、闇の中に問いかける。
「して、才蔵よ。おぬしはどうするのだ。父上はもうおらぬ。それでもまだ、続けるというのか?」
されどその問いに、応えはなかった。それはつまり、答えるまでもなしということであった。
「止む無し、か。父上はこのわしに、偽りの安寧を突き崩し、世を再び混沌へと導く策を授けられた。ときは満ちた。今こそ立ち上がるべしとな。よいか?」
そう再び問うたとき、叢を割ってひとつの人影が進み出てきた。それは男のよく知る顔であった。
「……六郎か」
「はっ」と、影はその場に跪く。「海野六郎兵衛幸郷、罷り越しましてございます」
続けて風が鳴り、いくつもの影が闇の中に浮かび上がる。そのどれもが、同じように屈辱に耐え忍んできた父の家臣たちであった。男はその髭面を、苦々しげに顰める。
「愚か者どもよ……もっと利巧な生きようもあったろうに」
それでも満足げに、男……真田左衛門佐幸村はつぶやいた。
※
この二条城会見後の数年間、正確に言えば慶長十六年から十八年の間には、豊臣方・徳川方問わず著名な将たちの逝去が集中している。特に会見に関わった者の中でも、直後の十一年四月七日には常陸にて浅野弾正少弼長政。六月二十八日には熊本にて加藤肥後守清正。そして押し詰まった十二月三十日には、完成したばかりの名古屋城二の丸御殿にて、平岩主計頭親吉が息を引き取っている。さらには慶長十八年の一月三十一日には、同じく二条城に居合わせていた池田武蔵守輝政も姫路にて急逝した。むろんすでに高齢であった者もおり、そのすべてが不審であるとは言わぬが、やはり偶然というには重なり過ぎていることは否めない。
氏勝と義利にとって大きかったのは、やはり主計頭親吉の死であろう。何より徳川家中において最大の庇護者でもあり、若き附家老の山城守正信にとっては師とも言える存在であった。その親吉を喪ったことでいよいよ尾張徳川家は、庇護下から離れてひとり立ちしなければならなくなった。犬山城には成瀬隼人正が入り、親吉の所領のうち三万三千石を引き継いだ。そして正信と渡辺忠右衛門も名古屋入りし、義利を迎える準備も最終局面に入っていた。
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