111 / 283
第三章【イリュリア事変】
3-1.スラヴィアを出てイリュリアへ(1)
しおりを挟む翌朝、朝食のあとアルベルトはスズに乗って商工ギルドに出向き、改装の終わったアプローズ号を引き取って戻ってきた。
スズを単体で連れ回すのは念のためにラグシウムの衛兵隊に通告していたが、ここまでに幾度も街中で市民や観光客に目撃されていることもあってすっかり知れ渡っており何も問題がなかった。特に子供たちなどは恐れる風もなくわらわらと近寄ってきたほどだ。
いや君たち、学校どうしたのさ?
アプローズ号を回送して戻ってからは、各々手分けして衣服など荷物を積み込み、いつでも出発できる準備を整える。次の宿泊地までの所要時間なども考慮して、チェックアウトは昼前の朝の遅い時間にすることになった。
今日は雨こそ降っていないが曇り空で、再び旅の空に向かうにはやや残念な天候だが、こればかりは仕方ない。期限が切られているわけではないが悠長に構えていられるわけでもないので、晴れの日まで出立を延ばすこともできない。
というかまあそれを言うなら、世界の終末を遅らせるための蛇王封印の修正に向かう勇者一行としてはあり得ないぐらいに緊張感のない面々である。東方世界にたどり着くどころかまだスラヴィア地方からも出てさえいないのに今からガチガチに緊張されていても困りはするが、もうちょっとこう、世界の命運を背負っている自覚をですね…
「明日のことは、明日考えればいいのよっ」
ああそうですか。
さすがは黄加護の勇者サマ。
「今日の私たちに必要なのは、どうやってダイエットするかよねえ」
確かに。
「とりあえず次のディオクレア、そしてその次のティルカンまではどっちも特大七ぐらいかかる予定だから、それぞれで泊まるとすれば昼食の前後で少し時間は取れそうだけれどね」
「問題は天候たいねえ」
「それ…」
まあものぐさなクレアさんには雨の中車外に出ることさえ億劫でしょうけどね、貴女が一番運動不足なんですけどね?
とはいえ今日は雨は降っていない。今にも降り出しそうな空模様ではあるが降ってはいないのだ。だったら昼食の後にでも鍛錬の時間が取れるかも知れないし、空模様だってラグシウムを離れればもしかすると晴れてくるかも知れない。
というか竜骨回廊にだって時には獣や魔獣が出るのだから、そういうのがもし出てくればめっけものだ。
…まあ、出てきたところでレギーナのことだから一太刀で終わってしまうのだろうが。
まあそんなこんなで駄弁りつつ準備を終えた一行は、予定通り朝の遅い時間になってチェックアウトして、従業員総出で見送られながら宿を出た。次の目的地は竜骨回廊におけるスラヴィア最後の都市ディオクレアだ。
「そういえば、私たちラグシウム辺境伯に挨拶してないわね」
「挨拶状なら西門で衛士に渡したけれど、挨拶に行くようには言われなかったわね」
「挨拶状ば渡して、その上でお呼ばれもせんやったっちゃけんよかっちゃない?」
緊張感のない会話をしながら蒼薔薇騎士団の面々が次々にアプローズ号へ乗り込んでいく。いくら挨拶状を渡したとはいえ領主である辺境伯に目通りしてないことを今まで気にしていなかったというのは、それはそれで問題だと思うのだが。
というかそのあたりは本来、道先案内人を務めるアルベルトが管理すべき案件のはずだが。
「多分だけど、ラグシウム辺境伯は誰とも会わないよ」
「なしな?だいたいどこ行ったっちゃ領主は勇者に会いたがるばってんね?」
御者台に乗り込み腰を下ろしつつ、アルベルトは左手で海を指差した。
「ラグシウム辺境伯はあそこにいるんだ」
「どこな?」
「あそこ、ってどこよ?」
あそこ、がどこか分からなくてレギーナたちが御者台に顔を出す。
アルベルトが指差しているのはラグシウムの沖合、大小様々な島が浮かぶ中でひとつだけ本土近くにぽつんと浮かぶ、小さな島。
「あの島におんしゃると?」
「あれなんて島なの?」
「あれは…確かアクルメン島、だったかしら?」
「ラグシウム辺境伯は家族でもう10年もあの島に籠っていて、誰とも会わないんだ」
ラグシウム辺境伯は、約10年前の伝染病の大流行で溺愛していた一人息子を失った。失意にくれる辺境伯はそれ以上家族を失うことを恐れ、周囲の反対を押し切って当時無人島になっていたアクルメン島に渡り、そこに元々建てさせていた避暑用の別邸に引き籠もってしまったのだ。愛する妻と娘、それに最低限の使用人と護衛たちだけを連れて。
とはいえ彼は辺境伯の地位を捨てたわけでもラグシウムを見捨てたわけでもなかった。通信鏡を準備させて本土と連絡を取れるようにし、日用品や食料などを島に運ばせるついでに報告や執務書類なども頻繁に運ばせて、島で政務を執るようになったのだ。
ただ伝染病の恐怖からか、辺境伯は本土からそれ以上の上陸を決して許そうとしなかったし、自らも本土へ戻ろうとはしなかった。連れてきた使用人や護衛たちも別邸には住まわせず、島に元々住んでいた住人たちが残した家を修復させて住まわせる徹底ぶりだった。
数年して本土でも伝染病が完全に沈静化して人々が安心して暮らすようになったのを確認して、ようやく辺境伯は使用人の一部を別邸に住み込みさせるようになり、半ば無理やり家族と引き離した護衛たちにも家族を呼び寄せることを許可した。だがそこまでで、辺境伯は市外からやってくる観光客や来客を島に上げることは絶対にしない。数年に一度開かれるスラヴィア各地の辺境伯が集まる会合にも決して出席しようとしないのだ。
「そうなん。まあ気持ちは分からんでもないばってん」
「何なのよいつまでもうじうじして。情けない男ね」
「人はときに悲しみに耐えられないものよ。察してあげなさいな」
「かわいそう…」
四者四様の反応だが、彼女たちだってその伝染病のことならよく知っている。西方世界全土を数年にわたって席巻し、夥しい死者を出して猛威を奮った病だったからだ。
黒死病。
原因は不明、拡大する要因も不明、治療法も不明。そしてひとたび感染すれば3人のうち1人から2人は死に至る。感染すれば全身が黒ずんでいき、苦しみ悶えて死に至るのでこの名で呼ばれている。
研究とデータの蓄積によって、患者と同じ室内に長く留まっていたり患者の体液に触れたりすれば感染するのが判明していて、だから罹患したと分かれば即座に隔離される。だが分かっているのはそれだけだ。
感染の最初は都市の下水に棲む毒鼠と呼ばれる一般的なサイズの鼠だと言われていて、実際に毒鼠を放置した都市が過去に短期間で全滅した事例があって、それでどこの都市でも定期的に下水の清掃と毒鼠の駆除を冒険者ギルドが請け負っている。
ちなみに毒鼠というのは通称であって正式な種名ではない。ないが、誰もが毒鼠としか呼ばないので種名は学者ぐらいしか知るものがおらず、学校でさえ毒鼠と教えるほどである。さらに言えば黒死病を媒介するのは下水に棲む複数種類いる鼠の中でも一部に過ぎないが、一般市民は鼠の見分けなどできないのでどの鼠も全て“毒鼠”と呼ばれていたりする。
十数年から数十年おきに繰り返し流行するこの病は、突然に流行を始めて多くの人の命を奪い、そして唐突に終息する。魔術で治療しようにも[解癒]が効かないため毒や呪いの類ではなく、[治癒]も効かないため怪我の類でもない。黒属性の[回復]は効くが、体力を回復させるだけで根本要因の除去には至らず、結局衰弱して死に至る。
それでも[回復]を続ければ病魔への抵抗力をつけた身体が持ち直すことがあり、現状それが唯一と言っていい対処法になっている。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
141
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる