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01.ローグ
しおりを挟むその男には、名前がなかった。
だからただ“ローグ”と呼ばれていた。
本当の名前はきっとあるのだろうが、本人さえもがそれを知らなかった。それどころか生まれた場所も、いつ生まれたのかも、実家の景色も、両親の顔すら男は知らなかった。
だって男は、物心ついた時にはたった独りで、スラムで汚物を啜って生きていたから。
生きていくのに金など要らぬ。だが食い物と飲み物は必要だ。だから男は幼い時分にはスラムにほど近い下町の飯屋の裏に出てくる残飯を漁り、スラムと下町を区切るように流れるドブ川の水を飲んで生命をつないだ。
そのうちにどうにか成長して、自由に駆け回る手足が育ちごく僅かな知恵をつけた男は、金というモノと物を買うという概念を覚えた。
買い物とやらをするためには金が要るらしい。だがその金をどうやって作ればいいのか男には分からない。
だから男は、同じスラムの歳上の餓鬼どもの真似をした。そう、盗みを覚えたのである。
ひとつの悪事を覚えれば、あとは坂道を転がり下るだけだ。最初は他人の懐から摩り取るだけだったが、やがて人を襲って殴り脅して奪うようになり、そのうちに仲間を集めて数の力で強奪するようになり、挙げ句の果てには人を拐って身代金をせしめるまでに成長した。
そうして得た金で豪勢な飯を腹一杯食い、美味い酒をたらふく飲み、襤褸ではない上等な衣服を身に着け、女を覚えてからは美しい女も金で買った。
一方で生きるために、盗みだけでなく殺しにも手を染めた。殺せばそいつの持ち物は金も物も服も全て手に入る上に、恨まれたり逆襲されることもなかったから、いっそ進んで殺すようになった。幾度も官憲に追われたが、スラムにさえ逃げ込めば捕まることはついに無かった。
男には倫理観などあろうはずがない。自分だけが全てで、あとの何もかもがどうでもよかった。だから、時には仲間さえ売り渡した。自分の普段の行いが人倫に悖ることだと理解らない男は、ただ自分に襲い来る危険を排除しただけだ。
そうして青年と呼べるほどに成長した頃には、男は街を守る騎士たちにも劣らない強靭な体躯と、自分が一番強くて偉いと驕る自尊心を持ち合わせ、近隣で逆らう者もないほどにのし上がっていた。人々は男を恐れ、彼を“悪漢”と呼んだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
その夜は陰神の充ちる明るい夜だった。なんとなく寝付けなかった男は、奪って住んでいる棲家を出て、酒でも盗もうかとスラムから下町へと歩いて行った。
スラムと下町の間にはドブ川が流れていて、橋を渡らねばならない。夜間にはその橋は封鎖され、スラムの住人が街に出てこないよう衛兵が見張りについている。
「オイ、そこ通せ」
「あっ、ローグさん」
衛兵どもはローグの恐ろしさが骨身に染みているから、ローグを遮るようなことはしない。彼の言うことを聞いてさえいれば少なくとも彼は害意を向けてこないのだから、大人しく従って何も見なかった事にした方が身のためだと知っているのだ。
だからその夜も、衛兵どもは素直に道を開け、ローグを下町に送り出した。
ローグはしばらくドブ川沿いを歩いた。深夜とはいえ真っ直ぐ繁華街へ向かってしまうと人目につくから、下町でもスラムと大差のない寂れた路地裏を回って狙いの飲み屋の裏手へ出るつもりだった。
「……あァん?」
だがその川沿いに、それまで見たこともなかったものを見つけて、思わずローグは声を上げた。
女がひとり、佇んでいたのだ。
初めて見る顔だった。白く清楚なワンピースドレスを身に纏い、漆黒の艷やかな長い髪を陰神から静かに降り注ぐ銀光に晒して、女はただそこに立っていた。目鼻立ちは整っていて、白皙の肌は透き通るように美しく、血管さえも透けて見えそうだ。
ローグが今までに見たどんな女よりも美しく、そして艶めかしかった。だが不思議なことに、時々通る人の誰もが、女に気付いた様子もなく通り過ぎてゆく。これほどの女がそこにいるというのに、まるでそこに誰も居ないかのように。
「オイ。見ねえ顔だな」
当然のように、ローグは女に声をかけた。安酒なんぞかっ食らうよりも女を抱いた方がいい。彼の思考ではそうなるのも当然だった。
だってこの女はまだ手に入れてないのだから。そして見つけたからには、もう俺のものだ。
声をかけられた女は、やや俯いていた顔をバッと上げて真紅の美しい瞳を見開いた。まるで、声をかけられると思っていなかったかのようだ。
「貴方は……私が視えるのですか?」
そして女は不思議なことを言った。
鈴を転がすような、軽やかな美しい声で。
「そんな目立つとこに立ってりゃア、誰だって見えるだろうがよ」
「そうですか……視えるのですね」
そう言って女は、不意に笑顔を向けてきた。それがあまりに美しくて、ローグは思わず息を呑んだ。
「貴方にお願いがあるのです」
すすす、と近付きつつ女は言った。
「わたくしを、貴方の妻にして下さいませんか」
そう言い終えた時にはもう、女はローグの左腕に抱きついている。
今までに見たこともないほどの美女。下町どころかおそらくこの街でも一、二を争う上玉のはずだ。それが自分から進んで身を捧げてきたことに、ローグは有頂天になった。
どうだ、やはり俺は凄い男だろう。なんたってこんな佳い女まで進んで俺のものになりたがるんだからな!
「おう、イイぜ」
有頂天のニヤケ顔を隠そうともしないで、ローグは承諾した。そして女の腰を抱いて、そのままスラムの棲家へと取って返した。
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