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05.その女は
しおりを挟む「女を連れて来い」
そう命じられた騎士隊長が地下の隠し部屋から連れ出して来たのは、この世のものとも思えないほどの絶世の美女だ。透き通るような白皙の肌に、漆黒の美しい長い髪。そしてえも言われぬ真紅の瞳。
命じた男は美女のその姿を眺め回して、満足そうに鼻を鳴らした。その男はと言えば、身なりこそ上品に整えてはいるものの容姿も体躯も平凡で、若さ以外に魅力を感じさせる部分など皆無である。
「噂通りのいい女じゃないか」
「は。坊っちゃんに相応しき上物でございます」
連れて来られたのはフィオーラだった。彼女は連行されるままに上階のこの部屋までやって来て、そして自分を愛する夫の元から拐かした男を無言のままじっと見ている。
フィオーラの噂を聞いて召し出すよう命じたのは領主の子息であった。一応は嫡男で、次期侯爵ということにはなっているが、現在のところはただの放蕩息子でしかない。だが容姿も性格も父によく似ていると、領地でも社交界でももっぱらの噂だった。
領主の息子は甘やかされて我儘放題に育ち、欲しいと思ったものは全て手に入れなければ気が済まない性分だった。ことに女癖が悪く、実家の権力と財力にものを言わせて、他人の妻であろうとお構いなしに多くの美女たちを奪って邸で飼っていた。そうして集めた美女たちを侍らせ、自分に奉仕させるのを何よりも好んでいたのだ。
そんな男が、フィオーラの噂を聞いたのだ。領都のスラムに誰よりも美しい女がいると。そして聞いたからには、直接見たこともないのに欲しくて堪らなくなった。だから彼は父親に甘えて、国家の騎士団まで動かした挙げ句にその女を攫ってきたのだ。
夜になるまでは人目があるからさすがに無茶なことはできなかった。だが深夜に、使用人たちも下がらせた後ならば誰に見咎められることもない。
そうして夜になり、ついにお愉しみの時間がやって来た。今夜はすでに人払いがされ、女を連れてきた護衛役の騎士隊長が扉の外で侍する以外に誰も近付く者はない。
それでは、ごゆっくりお愉しみなさいませ。そう言って騎士隊長が退出してしまえば、もう誰も守るものはない。だがその騎士隊長は騎士隊長で、領主の子息が愉しんだ後の夜明け前に女を監禁部屋に戻す際に自分も犯そうと心中企んでいたのだが、そんな事に気付く者もあるはずがない。
「さあ、こっちへ来い」
子息はだらしなく鼻の下を伸ばしつつ、フィオーラの腕を掴んで寝室に連れ込もうとした。
その手を、それまで大人しく従っていたはずの女がパシリと払い退けた。
「触るでないわ、下郎」
「なっ……!?」
抵抗されるなど思いもよらなかった子息は驚愕を顔に張り付かせ、そして次の瞬間には激高した。
「貴様!大人しくしておれば可愛がってやったものを!」
そして腕を振り上げて、その頬を叩き飛ばそうと振り下ろす。
だがその腕は、不自然な位置で止められた。
誰にも、何処にも触れられていないのに。
「それはこちらの台詞というものよ。大人しくしておれば、死なずに済んだものを」
それまでの清楚で華奢でたおやかな女は、そこにはもう居なかった。漆黒の髪を不自然に蠢かせ、ニチャリと口角を上げて、禍々しく嗤うナニカがそこに居た。
その黯黒の眼に浮かんだ血の色の瞳が、子息の視線とぶつかった。
「ひ……!」
子息は放蕩息子とはいえ腐っても侯爵家の跡取りであるため、それ相応の教育を施されていた。ろくに身についてもいなかったが、興味を引かれて覚えた数少ない知識の中に、目の前の女の姿に該当するものがあった。
「おま、お前……まさか……!」
子息は最後まで言葉を紡げなかった。女の細指がぶよぶよの喉にがっしりと食い込んだことで、恐怖に言葉が止まったのだ。
「おや、妾の正体に気付くとはの。であれば尚更、生かしてはおけぬのう」
「そんな、まさか……血霊だと……!」
血霊。
それは吸血魔の一種とされる。陰神の充ちる夜に美しい女の姿で現れて、深夜の街で男に声をかけては一夜の愉しみと引き換えにその血と生命を啜り、犠牲者を生み出し続ける魔物である。
地中深くに在るとされる“深淵”から、地表に漏れ出てくる悪しき魔力を瘴気と呼ぶ。その瘴気は様々な闇の眷属をこの世に生み出し、世を混沌に陥れるのだ。
人や獣や植物が瘴気に侵されると魔獣になるが、瘴気それ自体も具現化し実体を得て魔物となる。その魔物の中でも人類最大の脅威となるのが“魔王”で、吸血魔はそれに次ぐ災厄の申し子なのだ。
吸血魔の中でも“血祖”や“血鬼”と呼ばれる高位の存在は、それこそ魔王に伍するほどの力を持つ存在であるがゆえに、勇者やその候補となれるほどの実力ある冒険者でなければ太刀打ちすらできぬという。血霊はそこまで高位の存在でもないが、それでも一般の騎士程度は歯牙にもかけぬという。
正規の訓練を受けた騎士でさえ歯が立たぬ強力な魔物に、訓練も受けていないただの貴族子息が抗うことさえ不可能である。
「口に出してしまうとは、どこまでも粗忽者よの」
「ま、まて、やめ」
ゴキリという鈍い音が、子息の言葉を遮った。黙り込んだ子息は首を掴まれたまま脱力し、下半身から糞尿を漏らして着衣を汚した。
「……ふん。貴様ごとき、牙を立てるのも汚らわしいわ」
忌々しそうに呟く女の口元には、確かに鋭く伸びた牙が上下二対見えていた。
動かなくなった屍体を放り出して、血霊は廊下に通じる扉に近寄ると、無造作にガチャリと開く。扉が開いたことで振り返ろうとした騎士隊長は、襟首を掴まれて言葉も発せないまま部屋の中に引きずり込まれた。
閉じられた部屋の扉はそれきり開かれることはなく、中からなんの物音も聞こえはしなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
不意に屋外から物音が聞こえてきて、血霊はその細指からふたつめの屍体を放り捨てた。
「…………旦那様!?」
そう口走った瞬間には、禍々しかった顔はフィオーラに戻っている。
フィオーラはそのまま窓に駆け寄り、開いて身を乗り出し虚空にその身を踊らせた。
屋外、それも裏門そばの壁際から聞こえてきたのは人の争う物音と叫び声、そして人が斬られる肉の音。その騒ぎの中に、フィオーラは確かに愛する夫の存在を感じていた。
血霊であるフィオーラの身体能力も五感も人のそれとは全く異なる。瘴気が実体化した存在である吸血魔は生物ですらなく、その五感は何よりも魔力と瘴気を鋭敏に感じ取る。
そして魔力とは、この世の森羅万象すべての根源要素であり、人体もまた魔力で構成されている。当然ながら、ローグの身体もまた魔力から成るのだ。
魔力を察知する能力に長けたフィオーラが、ローグの身を構成する魔力を見誤るはずがない。間違いなく、あそこには彼がいる。邸に侵入して、そして邸の警護の任に就いていた騎士たちに発見されたのだ。
フィオーラはひらりと地に降り立ち、そのまま風のように駆けた。三階から飛び降りたことも地を風のように駆けることも人の身では考えられないが、血霊には造作もない。ただそれでも邸の敷地は広大で、庭の隅は遠かった。一瞬でたどり着くはずもなく、フィオーラがローグの目に留まる位置まで駆けるのにいくばくかの時間を要した。
「旦那様!」
「フィオーラ!」
ほぼ同時に、ふたりは互いの姿を目に写した。
そして次の瞬間、フィオーラに意識を向けたローグの左肩から右脇にかけて、騎士の剣が袈裟斬りに切り裂いた。
絶叫と悲鳴と。
ふたつの叫びが陰神の見つめる夜空に響く。
崩れ落ちる男の身体を、女の細腕が抱き留めた。
「旦那様!ああ、どうして、旦那様!」
「フィオーラ……よかった……ぶじか……」
「わたくしは必ず戻ると言ったでしょう!?何故待っていては下さらなかったのですか!」
「むかえにきた……かえろう……」
抱き留めたまま座り込んだ女は、その純白のワンピースドレスを真っ赤に染めながらもしっかりとその胸に愛する男の身体をかき抱く。その腕の中で力なく笑みを浮かべる男の唇に、女は何度も口づけを落とした。
「き、貴様!なぜここに!?」
「坊っちゃんの元からどうやって!?」
「隊長は!?他の護衛たちは何をやっている!?」
周りの雑音は、もはやふたりの耳には届かない。
「⸺ええい!こうなれば女もろとも殺せ!」
「ですが、しかし!」
この場の上位者らしき騎士が命ずるも、主君たる子息の愛玩物を勝手に斬り捨てて良いものか騎士たちには判断がつかない。
「帰りましょう、旦那様。⸺ですが、今少しだけお待ち下さいな」
女はそう言って、力の抜けてしまった男の身体をそっと地面に横たえた。
「わたくしの旦那様を、わたくしが人間になるための真実の愛を、奪ったお前たちは絶対に赦さない」
そう言いながら立ち上がった時には、もうすでに彼女はフィオーラではなく禍々しい血霊の姿になっている。
「な……!貴様は、血霊!?」
「で、では坊っちゃんは!?隊長は!?」
「ええい!こうなれば討ち倒すのみ!」
騎士たちが血霊とローグを取り囲む。ローグとともに壁を越えて侵入した手下たちもすでに全員が斬り倒されていて、あとは忌々しき血霊さえ倒せば邸の平穏と安寧は守られる。数的優位と武装の優位を得て、騎士たちは勝利を疑わなかった。
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