公女が死んだ、その後のこと

杜野秋人

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1巻

1-2

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   ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「……カストリア公女」

 王妃のサロンを辞して、今度こそ自分の執務室に戻って公務にかからねばと急ぎ足になっていたオフィーリアに、またしても声がかかった。
 見ると廊下の向こうに、第一王子のカリトンが立っている。
 この時間ならとっくに第一王子宮に戻っていて出くわすはずのない人物の姿に、オフィーリアはわずかに動揺した。だがそんな内心をあらわにすることなく、すぐさま淑女礼カーテシーあいさつする。

「ご機嫌うるわしゅう、第一王子殿下。はいえつたまわりましてこうじんに存じます」
「ご機嫌うるわしくはないけどね。公女も息災なようで何より」


 まあそうでしょうね、とオフィーリアは内心で応える。
 彼の居場所がこの王宮の何処どこにもないことくらい、オフィーリアもよく知っていることだ。そして、自分と顔を合わせるなと彼が強く命じられていることも。

「わたくしに会っていたと知られるのはよろしくありませんわ。早急に第一王子宮にお戻りになるべきかと存じます」
「うん。王宮書庫に長居してしまってね、これから戻るところだよ。公女は?」
「わたくしは、王妃殿下にお声がけをたまわりまして」
「……ああ、なるほど」

 彼は、それだけしか言わなかった。
 オフィーリアはそっと彼の姿を眺める。
 少し距離があるおかげで、全身がよく見える。
 第一王子カリトンは、第二王子ボアネルジェスと違ってほっそりしたやさおとこだ。柔らかな淡い桃色の髪と穏やかな空色の瞳に、柔和な人柄がよく出ている。ボアネルジェスとオフィーリアより二歳歳上の、今年十七歳になる青年だ。
 彼は第一王子、つまりバシレイオス王の長子に当たる。だが王位継承権は低く、弟であるボアネルジェスはもちろん、王弟一家よりも、なんなら過去に王家と血縁関係を結んだことのあるカストリア公爵家やアポロニア侯爵家の子女たちよりも下の順位しか与えられていない。単純な継承順位だけで言えば、曾祖母に当時の王妹を持つオフィーリアよりも下位である。
 というのも、彼は長子でありながら、バシレイオス王の庶子として扱われているからだ。
 彼の生母アーテーは、公的にはバシレイオス王の側妃ということになっている。だが実際には側妃としては扱われず、側妃の公務も一切果たさず、王城の外れにある北の離宮に閉じこもって出てこない。
 否、正確には閉じ込められて出てこられないのだ。


 王太子時代のバシレイオスには、幼い頃から政略で定められた婚約者がいた。それがテッサリア王国のアキレシオス公女エカテリーニである。彼女はマケダニア王国の次期王妃となるべく、マケダニア王宮に部屋を与えられ、彼女にとっては異郷の地で王妃教育にはげんだ。
 一方、子供時代のバシレイオスは分別の足らない王子だった。エカテリーニがどんな思いでマケダニア王宮にいるのかおもんぱかることもせず、『国に帰れ』、『たまになら遊びに来てもいいぞ』、などと言っていたという。そして、言葉の上では従う素振りを見せつつも一向に従おうとしないエカテリーニを、長じるにつれうとむようになっていった。
 そんなバシレイオスがミエザ学習院でめたのが、オリニ子爵家令嬢であったアーテーである。オリニ子爵の庶子だとも知らずに地方の田舎町で平民として育った彼女は、ミエザ学習院入院後も貴族令嬢らしからぬほんぽうな娘だった。それが物珍しかったのか、バシレイオスの目に留まり、いつしかふたりは院内で行動を共にするようになった。そうしてバシレイオスは、あろうことかアーテーを正妃として迎えたいと画策し、卒院記念パーティーでエカテリーニに婚約破棄を突き付けたのだ。
 当然、テッサリア王国を巻き込んだ騒動に発展してイリシャ連邦の本国であるアカエイア王国まで介入する事態となり、一時はバシレイオスの廃嫡さえ取り沙汰された。
 だが他ならぬエカテリーニが婚約継続の意思を示したことで、最終的に王太子をたぶらかした愚かな娘の処刑をもって幕引きとされることになった。
 そんなタイミングで、アーテーの妊娠が発覚したのである。
 彼女の罪は命をもってつぐなわねばならぬほど重いものだ。だが、王太子バシレイオスのたねごもっているとなればそうもいかない。
 イリシャ連邦王国には、古来よりれん綿めんと家系を繋いできた特別な一族が十二氏族存在する。連邦を構成する五ヶ国のうち、イリュリア王国を除く四ヶ国の王家はいずれもそれに該当していた。もちろん、マケダニアのヘーラクレイオス王家もそのひとつである。
 バシレイオスはそんな特別な家門の次期継承者であり、その血を受け継ぐ新たな命がアーテーの身に宿っていたのだ。それゆえ、母体はともかくはらの子は産ませるべきだと、マケダニア王家とアカエイア王家の見解が一致した。
 それで結局、表向きには側妃候補の地位が与えられ、王宮の北の離宮に住まうことを許されて、そこで彼女は男児を産んだ。
 生まれた子は確かにヘーラクレイオス王家の血を継ぐと魔術を用いた鑑定で証明され、その功により彼女は死一等を減ぜられて、バシレイオスとエカテリーニが婚姻を果たした翌年にひっそりと側妃に召し上げられた。その時生まれた子が、今オフィーリアの目の前に立っている第一王子カリトンなのだ。
 そんな出自を持つものだから、彼はオフィーリア以上に王宮に身の置きどころも味方もない。彼自身は何も悪くなどないが、彼の味方をしようものなら王妃ににらまれると分かりきっているのだから当然のことである。
 バシレイオスは自分の命運を首の皮一枚繋げてくれたエカテリーニに頭が上がらなくなり、彼女の望むままに婚姻して妃に迎えた。それでも彼は婚姻後もしばらく離宮に通っていたが、アーテーが王妃にする約束を果たせと主張して退かなかったらしく、やがて寄り付かなくなった。
 その後、エカテリーニにも王子ボアネルジェスが生まれた。
 王となったバシレイオスは心を入れ替えて王妃エカテリーニをいつくしみ、しんに王の責務を果たすようになったことで、マケダニア王宮には平穏が訪れている。カリトンが身をつつしみ、余計な主張をせず、王妃に逆らわぬ態度を見せている限りは、この平穏は保たれるだろう。
 王宮の使用人たちも廷臣たちも、かたくなにバシレイオスを求めて騒ぐだけの母も、そんな母もろとも自分を切り捨てたも同然の実の父親である国王ですらカリトンの味方ではない。
 だから彼は命じられるまでもなく、王妃の息子ボアネルジェスの婚約者であるオフィーリアに近付いてはならないのだ。それを王宮の誰かに見られでもして、彼女を手に入れようとしているなどと王や王妃に判断されれば、彼には破滅が待っている。
 オフィーリアもその点よくわきまえていて、彼と直接会うことを常日頃から避けている。それでもたまにこうして、ばったり出くわしてしまうことまで避けるのは難しいのだが。


 軽くしゃくして立ち去るカリトンの姿を頭を下げて見送り、オフィーリアはそっと息をつく。
 今日は大変な一日で、この後もまだ公務が残っていて終わりなど見えない。それでも思いがけず彼に会えたことで、実は少しだけ気分がこうようしている。
 十一歳でボアネルジェスの婚約者となり、王子妃教育を受けるようになったオフィーリアにとって、王宮で会える同年代はボアネルジェスとカリトンだけだった。そして乱暴で自分のことをじんも気にかけない婚約者より、常に物静かで読書を好むカリトンのほうが、実のところ好ましかった。
 会ってはならないとされるふたりだが、書庫で、庭園の隅のベンチで、あるいは廊下でと、少ないながらも顔を合わせ、わずかながら言葉も交わしてきた。そうした数少ない接点からオフィーリアが知ったことといえば、彼とは趣味が合い、好む場所が似ていて、そしてどちらも味方が少ないということ。

(どうか、カリトンさまのおんがこれからも平穏でありますように)

 廊下の向こうに消えていった彼の背を思い返しながら、オフィーリアはそう願わずにはいられない。せめて彼にだけは、自由と幸せを掴んでもらいたかった。
 そのためにもボアネルジェスの妻として王妃となり、彼の運命を左右できるだけの権限を身につけなければと、決意を新たにするオフィーリアである。



    2.オフィーリアとカストリア家


「何日も帰らずに、一体何処どこを遊び歩いておったのだ、このほうとう娘が」

 王都にあるカストリア公爵家公邸の玄関ホールで、数日ぶりに帰宅を果たしたオフィーリアに投げつけられた言葉がこれである。

「お父様……」

 投げつけたのは、父だ。
 アノエートス・レ・アンドロス・カストリア。オフィーリアの亡母アレサの婿むこである。

「本当に貴様は、次期カストリア公爵としての自覚があるのか。何日も帰らずに遊び歩いて、そんなことでえあるカストリア公爵家を、私の跡を継げると思っているのか」
「わたくしは遊び歩いてなどおりません。この数日は殿下の指示でご公務の補佐をしておりましたので、ずっと王宮におりました。そのことは伝令でわが家にも――」
「嘘ばかり申し立てるな!」
「……嘘、と申されましても」

 オフィーリアは父の後ろに控える家令と執事に目を向ける。ふたりとも沈痛な表情で頭を下げるだけだ。
 つまり、父はまた彼らの言葉に耳を貸さなかったのだろう。

「だいたい、殿下のご公務書類に貴様の名など一度も載ったことがないそうではないか!」

 それは事実、そのとおり。
 オフィーリアの仕事は全て第二王子ボアネルジェスの名義でなされていて、彼女が自分の名を出したことなど一度もない。第二王子の公務は全てボアネルジェス自身が処理していることになっていて、オフィーリアが担当するのは書類の清書のほか、連絡と調整だけ。彼の評価を下げるわけにはいかないため、そういうことにするしかないのだ。
 ボアネルジェス自身は公務の大半をオフィーリアに丸投げした上で、自分のやりたい軍務や社交だけをこなしている。必然的に彼が自分の執務室へ顔を出すことも少なく、今朝の閲兵式に関する書類のようなトラブルがまま起こる。
 そうした突発的なトラブルに毎回のように振り回されるから、オフィーリアは公邸に戻れずに王宮に与えられた自室で仮眠する日が多かった。今日だって各方面への謝罪と予定変更とその調整に追われ、ばんしょくの後は王妃に呼び出され、そのに予定していた公務を半分ほど片付けて、夜も更けわたった深夜になってようやくこうして帰ってきたのである。
 それでも、帰ってこられただけマシなのだ。せめて今日くらいは公邸にお戻り下さいと、執務室を追い出してくれた文官たちには感謝しかない。

「まったく、貴様のような貴族の風上にも置けんような奴が、なぜ未だに第二王子殿下の婚約者でいられるのか不思議でならんわ。いさぎよく身を引こうとは思わんのか」

 腕を組み、ごうぜんと胸を張ってたけだかしっせきする父親に、オフィーリアはため息しか出ない。
 だがもちろん実際に取った行動は、令嬢のたしなみとして扇を広げて口許を隠しただけである。

「なんだ、その態度は」
「わたくしと第二王子殿下との婚約は王家が取り決めたもの。わたくしが辞退することは叶いませぬ」
「陛下も貴様のほうとうぶりを知ったらお怒りになるだろう。そうなれば貴様は終わりだ」
「いいえ、そうはなりませんわ」

 オフィーリアに公務を手伝わせているのはボアネルジェス本人なのだ。そして、与えられた公務を全てこなしている割には執務室にこもることもなく、日々自由に振る舞いすぎる彼の様子は陛下とて承知されているだろう。オフィーリアはそう考えている。
 現時点で彼が陛下にけんせきされていないのは、自分の婚約者を上手く使って問題のない状態を維持できているからにすぎない。おそらくは、ただそれだけのことだ。

「余裕ぶっていられるのも今のうちだ。私が直接奏上致せば、陛下もお分かりになるだろう」
「おやめください、お父様」

 そんなことをしても、カストリア公爵家の名に傷がつくだけだ。本当にオフィーリアが遊び歩いていた場合でも、それがアノエートスのこうとうけいな妄想でしかなかった場合でも、どちらにしてもカストリア公爵家がちょうしょうされることになる。
 筆頭公爵家の醜聞スカンダロンなど、政敵であるサロニカ公爵の一派を利することにしかならないというのに、この父はそんなことにも気付かないのか。

「だいたい、貴様のような奴がえあるカストリア公爵家を継ぐなど、わがマケダニアの恥にしかならん。そのことも陛下に奏上して、廃嫡の手続きを進めるからそのつもりでおれ」
「それは不可能ですわ、お父様」

 特定の家系では直系血族が存在する限り、ぼうけいや血縁のどの人物も家名を継ぐことは叶わない。一般の貴族家は他家から取った養子に家名を継がせられる一方で、特定の家系ではいり婿むこや養子には家名を継承する権利がなく、正統な後継者がしゅうしゃくするまでの代理しか任せられない。これはイリシャの連邦法典で定められていることだ。
 そしてカストリア家はその特定の家系であり、オフィーリアがその直系なのだ。

「カストリア公爵たるこの私がそう決めたのだ! 不可能なことがあるものか!」

 つまりアノエートスはこの時点ですでに、連邦法典違反を犯している。つい局に突き出されないのはひとえにオフィーリアの温情でしかない。

「何度も申し上げておりますが、お父様がなんとおっしゃられてもわたくしが次期公爵です。そしてお父様は〝カストリア公爵〟ではありません」

 カストリア公爵だったのはオフィーリアの亡母アレサである。アノエートスは家門の配下の伯爵家から迎えたいり婿むこでしかない。
 そしてオフィーリアは慣例により、十八歳になればカストリア公爵位を継承する。現在の彼女はまだ十五歳で成人したばかりであり、建前上はこれから後継教育を始めて、三年かけて履修する予定になっている。まあ後継教育そのものはオフィーリアが十二歳の時に亡くなった母が、彼女が十歳の頃から計画を組んで少しずつほどこしていたため、実のところもう終わりが見えているが。
 今にして思えば、母にはある種の予感があったのだろう。自分の命が長くないこと、夫が信用ならないこと、そして年若いオフィーリアの立場がおびやかされかねないことなど、もろもろと。

「まだ言うか、貴様!」

 アノエートスは右腕を振り上げ、振り下ろした。
 頬を張られた小柄なオフィーリアが倒れ込み、即座に駆け寄った侍女たちに助け起こされる。

「……お父様」

 次期カストリア公爵にして、唯一の直系であるオフィーリアに手を上げればどうなるか、この愚かな父はそんなことにも気付かない。だって彼は、幸運にもうとましい妻が亡くなったことで、筆頭公爵家が自分のものになったと思い込んでいるのだから。
 だがそんな愚者でも、オフィーリアにとっては血の繋がった実の父である。できることなら穏便に済ませたい。だから基本的には父に従いつつも、曲げられぬことは曲げられぬと繰り返し伝えてきたはずなのに。
 オフィーリアを助け起こした侍女たちや、周囲にはべる家令や執事たちの怒りのこもった視線が突き刺さり、さすがに手を上げたのはやりすぎたと思ったのだろう。アノエートスは咳払いして、居心地悪そうに身を揺らす。

「……ふん、まあいい。そうやってたてけるのも今のうちだ。全てを失ってから泣いてびても許さんから覚悟しておけ。――オフィーリアに食事を供することは許さぬ。自室に軟禁しておけ」

 アノエートスは尊大に執事にそう命じてきびすを返し、玄関ホールから去っていく。その後に従うのは唯一家令のみで、ほかは誰もついじゅうしようとしない。その家令にしたって、公爵代理を野放しにできないから従っているだけだ。

「さあお嬢様、まずはお部屋にお戻りください」
「お嬢様、すぐにお食事をお部屋にお持ちいたします」
「湯浴みの準備も進めておりますから、お食事の後にでも」
「その前にお顔のお手当てをいたしませんと」

 侍女たちが次々と寄ってきて、口々にオフィーリアをいたわってくれる。使用人たちはみな母が存命の頃から公爵家に仕えている者ばかりで、父をはじめとしたオフィーリアをうとむ者たちから守ってくれているのだ。
 彼ら彼女らが解雇され、やしきを追い出されることはない。母の死後に父が不当に追い出した使用人のひとりが公的機関に訴え出た結果、代理公爵に人事権なしと司法院が認めて復職を許可したからである。それ以降、父はもちろん義母も使用人を入れ替えられずにいる。もちろん新規に雇うことも不可能だ。

「ありがとう。でもその前に執務室へ行くわ」

 心配する侍女たちにオフィーリアがそう言うと、彼女たちから声なき悲鳴が上がった。

「いけません、お嬢様。まずはゆっくりお休みになってくださいませ」
「領政執務でしたら明日にでも――」
「明日の朝になればミエザ学習院に登院して、昼からはまた王宮へ上がらなくてはならないわ。今夜しか時間がないのよ」
「で、ですが……!」
「……もう、分かったわ。では先に食事を頂こうかしら」
「――っ! はい、すぐに準備いたします!」
「簡単に食べられるものにしてね。あまり食欲がわかないの」

 力なく微笑ほほえむオフィーリアに侍女たちはみな悲痛な表情を浮かべたが、力なく微笑ほほえむオフィーリアに、誰ももう何も言えなかった。


 オフィーリアは自室で軽食をつまみ紅茶を一杯飲んだ後、着替えも湯浴みもせずに当主の執務室へ向かった。そこで待っていた家令から留守中の報告を受け取り、書類をよく読んで確認し、領主もしくはその代理の署名が必要なもののみを父の名義で署名してゆく。
 ここでも彼女は自分の名を一切用いなかった。自分の名で署名すれば、父が代理の仕事すら果たしていないことが明るみになってしまうからである。
 オフィーリアはなんとなしに、窓の向こうの暗闇に目を向けた。
 父は今頃自室に戻って、義母ヴァシリキとしとねを共にしているのだろう。公爵家の血を持たぬ父が連れ込んで公爵夫人だと称している、本来ならば許されざる愛人と。
 父は愛人を作っていただけでなく、娘まで産ませていた。そう、公爵家の娘はオフィーリアだけだが、オフィーリアの父には娘がふたりいるのだ。母アレサの死後早々に、父は彼女たちをこのやしきに招き入れた。そしてオフィーリアの反対を押し切って住まわせている。
 その異母妹は、玄関先に出てこなかった。深夜ということもあり、すでに自室で眠っているのだろう。あの子は人一倍美容に気を使っているから、睡眠不足は大敵だものね。オフィーリアはそう結論づけて、それ以上は考えなかった。


   ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 オフィーリアが執務室で必要な領主決裁をまとめて、自室に戻って簡単に湯浴みを済ませて就寝した、その翌朝。――と言っても、オフィーリアが眠っていたのは時間にしてわずかな間だけ。具体的には特大一、つまり一時間程度だ。
 数日ぶりに公邸へ帰ってこられたオフィーリアが私室のベッドを使えたのは、たったそれだけの時間だった。
 そうして熟睡する間もなく起床し、オフィーリアに合わせて動いてくれる侍女たちが用意した簡単な朝食を自室で食べる。そうして身なりを整えて、随従の侍女とともに登院しようと玄関ホールまで下りたところで、背後から声をかけられた。

「あらお義姉ねえ様、帰っていらしたの」

 階段の上から声をかけてきたのは、ひとつ歳下の異母妹テルマだ。
 美容に人一倍気を使う彼女は、健康と美容が密接に関係していることをよく分かっていて、早寝早起きだし好き嫌いせずになんでもよく食べる。そのおかげか年齢相応に成長しており、肌も髪も美しく、公爵家の娘と名乗るに相応ふさわしい容姿をしている。
 それはともかく、できれば会いたくなかった相手に見つかってしまったオフィーリアである。 

「何日も帰らなかったと思えば朝帰りですか。いいご身分ですわね、お義姉ねえ様」
「わたくしは今帰ったわけではないわ、テルマ。昨夜戻って、これから登院するところよ」
「まあ。今さらミエザ学習院に席があるとでも?」

 テルマは両親の言葉をみにしていて、常にこうしてオフィーリアに突っかかってくる。ただ今のは、入院を許可されなかった悔しさとねたみから来るものだろう。


 マケダニア王国の誇るミエザ学習院は、王侯貴族の子女しか入院を認められない。その受験を、テルマは許されなかった。つまり彼女は貴族子女ではないと判断されたことになる。
 もっとも、一年遅れで彼女も入院を許可され現在は一回生である。
 一度は却下された彼女がなぜ入院できたのかと言えば、彼女の母であるヴァシリキの出自が没落した子爵家であったからだ。
 義母ヴァシリキの実家は領地経営に失敗して多額の負債を抱え、爵位と領地を返上し平民に落ちていた。だからオフィーリアも最初はヴァシリキを平民だと思っていたのだが、それにしては教養や礼儀作法のへんりんが見えるのが気にかかり、人を使って調べさせたのだ。
 そうして元貴族という事実を突き止めた上で貴族の子女、直系二親等までミエザ学習院に入院できるようオフィーリアが法案を整備し、あわせて入院要綱も改正させたのである。
 爵位を返上したのはヴァシリキの父、そこから二親等なのでテルマまでなら受験資格が与えられる。つまりこれは、テルマを受験させるためのだった。
 なぜわざわざそんな便宜を図ってやったのかと言えば、受験を認められなかったテルマとその母ヴァシリキが、オフィーリアに対して公然と嫌がらせをしてきたからだ。
 呼ばれてもいない夜会や茶会に乗り込んで、オフィーリアがテルマに数々の冷酷な仕打ちを行っているなどとふいちょうされてはたまったものではない。カストリア家やオフィーリア自身の名誉もそんされるし、何より乗り込まれた夜会や茶会の主催者にも招待客にも迷惑この上ない。それをめさせるために、オフィーリアはわざわざテルマの望みを叶えてやる方向で動いたのだ。
 ちなみに法整備とミエザ学習院の要綱改正に関しては、婚約者の名前が大いに役立った。オフィーリアが自身でまとめた書類を第二王子の名義で処理して議会ブーレーに提出しただけで、勝手にそんたくした立法府の議員貴族たちが成立させてくれた。
 それでボアネルジェスは「没落貴族にも寛大な英明の君」などと評価が上がっているのだが、当の本人は全く気付いていない。署名だけはしてもらったが、他の書類にまぎれさせていたので、彼はろくに確認もせず署名したのだろう。
 マケダニア王国が属するイリシャ連邦を含むこの西方世界において、教育は非常に重視されている。多くの国では平民でも公的補助を得て、ほぼ無償に近い負担で初等教育から中等教育まで受けられる。
 教育を受けることは義務ではないものの、よほどの貧困層や孤児でもなければ、六歳から三年間かけて初等教育を、九歳から三年間かけて中等教育を、公的な教育機関で履修できる。
 貴族子女、特に伯爵家以上の家門であれば教育機関に通うのではなく、中等教育修了までは家庭教師をしょうへいして自邸で学ばせるのが一般的だ。
 ラティアースと呼ばれるこの世界は、森羅万象の全てが魔力マナを構成元素として成り立っている。人類はもちろん動植物も自然現象も、神々でさえも例外ではない。だから人間アースリングも、貴族や平民の別なく誰しもが魔力をその身に持っていて、学べば誰でも魔術を覚えられる。
 逆に、学ばなければ魔力のコントロールができずに魔力暴発などの事故を起こしかねない。そういった事故を未然に防ぎ、また倫理観を身に着けさせて犯罪を起こさせないために、教育をほどこすのだ。
 そして中等教育まで履修を終えた者たちが、より高いレベルの教育を受けることを希望して目指すのが高等教育機関、つまり〝大学〟である。そこでは一年間の受験勉強期間を置いて十三歳から三年間、より高度な魔術や各種の専門分野を学ぶことになる。
 マケダニア王国立ミエザ学習院はそんな大学のひとつで、貴族子女たちのための高等教育機関である。ちなみに平民向けの大学は別に存在していて、テルマはそちらになら入学できたのだが、それでは彼女のプライドが許さなかったようである。
 平民とは違い、王侯貴族子女は大なり小なり領地を持ち為政者の側に回らねばならない。そのため大学への入学と卒業が事実上、必須である。カストリア家の血を持たないテルマは大学へ通う必要はないが、自分を公爵令嬢だと思っている彼女は当然のように受験勉強に取り組み、受験さえ許されなかったことにふんがいして悔し涙を流していた。それが一転して認められたことで奮起し、見事に合格を勝ち取った。
 十一歳まで平民として育ってきたはずのテルマにも向上心やこっしんがしっかりとそなわっていた。それについてはオフィーリアも素直に感心している。無意識に彼女を平民だとあなどっていた自分を恥じたくらいだ。
 そしてそんなテルマは、入院要綱改正に一役買ったボアネルジェスのことを強く敬慕している。彼の婚約者がほかならぬオフィーリアだということで、向けられる敵意がなんら変わらなかったことだけが、オフィーリアの誤算だった。

かたくなにわたくしを公女だと認めないお義姉ねえ様には、お優しくてお強くて素晴らしいボアネルジェス殿下の隣に立つ資格などありませんわ! なぜ辞退しないの!?』

 顔を合わせる度に、テルマからそう言われるのは正直うんざりする。


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