公女が死んだ、その後のこと

杜野秋人

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1巻

1-3

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 オフィーリアだって別に望んでなどいないし、辞退できるものなら辞退したい。そもそもこの婚約は、王家が無理にねじ込んできたものだ。本来なら次期カストリア公爵たる自分が次期王妃に選ばれるなど、あり得なかったのに。
 だが辞退してしまうと王妃にはなれないし、なれなければ不遇の第一王子カリトンの運命も変えてやれない。だからこそ、ボアネルジェスにうとまれようともテルマにしっされようとも彼の婚約者を降りるつもりはない。
 というか、なぜテルマが第二王子の名を親しげに呼んでいるのか気になって仕方ないオフィーリアである。まあそれを一度ただした時におおに泣かれて父にとうされてからは、えて素知らぬフリをしているが。

「ミエザ学習院に入学して間もないわたくしですら知っているのよ。お義姉ねえ様が院内でなんと呼ばれているのか」

 どうやらテルマは、ざわりな異母姉を攻撃する新たな口実を得たようだ。
 だが正直、オフィーリアにとってはどうでもいいことだ。
 ボアネルジェスと同じまなで過ごすためにとわざわざ選んだミエザ学習院だったのに、ふたを開けてみれば登下院も昼食も昼休みも第二王子に近づけず、それどころか学生会長の彼に命じられて本来あり得ない学生会長代理などやらされる始末。淑女科での授業内容は後継教育と王子妃教育以上のものではなかったし、正直通う意味などなかった。
 つまりオフィーリアが最終学年の今年まで律儀に通っているのは、ほぼ卒院資格取得と学生会長代理の業務のためでしかない。
 年が明ければ、およそ一ヶ月ほどで卒院である。そうすれば本格的にボアネルジェスとの婚姻の準備が動き出すし、婚姻すれば彼は立太子され、オフィーリアも王太子妃となる。
 そこまで我慢すれば少なくとも学生会の業務からは解放されるし、正式に王宮に移ることで父や異母妹とも顔を合わせずに済むようになる。
 なおこの世界では、誕生日とは別に年明けとともに一律で加齢するのが慣例なので、その頃にはオフィーリアもボアネルジェスも十六歳になっている。

「――『真実の愛を妨げるわがまま公女』」

 現実から目をそむけて将来に想いをはじめたオフィーリアのを、テルマの声が殴り付けた。

「…………なんですって?」

 一瞬、言われたことが理解できずに、思わずオフィーリアは聞き返した。

「何度でも言ってやりますわ。お義姉ねえ様は『真実の愛を妨げるわがまま公女』だと、同窓の皆様から大層嫌われてるんですってね? 院内では下級生たちですら知っていることよ」

 ニヤニヤとわらうテルマの顔をまじまじと見返しても、何を言われているのか分からない。
 真実の愛? わがまま公女?

「まあ、とぼけるつもりなのね。夜な夜な遊び歩いてボアネルジェス殿下にさんざん迷惑をかけている上に院内でも付きまとって、相当嫌われてるって聞いたわ!」

 夜遊びなどしていないし、テルマは父の言葉をみにしているだけだ。そしてミエザ学習院でボアネルジェスに付きまとったおぼえもない。まあ学生会業務で会長の決裁が必要なものだけは、毎回頼み込んでサインしてもらっているが。そしてその度に「だからそなたがよきに計らえと何度言ったら分かるのだ!」としっせきされてはいるが。
 ――ああ、なるほど。人目のある場所でしっせきされることもあるから、はたには付きまとっているように見えるのかもしれない。
 だが、学生会長決裁の代筆は無理なので仕方ないのだ。公務書類であれば文官おとなたちが察して上手く呑み込んでくれるが、まだ学生の身で、学生会役員ですらないオフィーリアに学生会業務を丸投げしていたなどと知られれば、ボアネルジェスの今後の評判に関わるのだから。
 そう、実は学生会長代理などという役職は学生会にはない。入院直後、選挙時期でもないのに学生会長に立候補して無投票選任されたボアネルジェスが、勝手に設定した役職にすぎない。彼はオフィーリアを、教職員にも黙認させた上で、自らの婚約者だというだけの理由で選任したのだ。業務を押し付けるために。
 それでオフィーリアは仕方なくこの二年半もの間、彼の業務を肩代わりするしかなかった。けれどもそんな事実を公的に残すわけにはいかないため、学生会長の署名だけはボアネルジェス自身にやってもらわなくてはならなかったのだ。
 いや、それよりも気になるのはその前段である。

「真実の愛、とは?」
「まあ! それさえとぼけるんですの? 院内では知らぬ者もないというのに!」

 と言われても、院内にも院外にも友人のいないオフィーリアには注進してくれるような取り巻きもおらず、情報源がないから知りようがない。同学年の高位貴族子女には第二王子の婚約者の地位をねたまれ、下級生の子女にはせんぼうから遠巻きにされている。
 公爵家配下の家門の子女たちには、いつでもどうとでも態度を変えられるように自分にはなるべく近付くなと、オフィーリアは普段からそれとなく人を介して忠告していた。
 だから彼女は自分に関する噂でさえ、知る機会がなかった。
 卒院すれば王太子妃となるのは既定路線だし、多少の噂程度は障害にもならない。王太子妃ともなれば社交もせねばならないから、それからゆっくり誤解を解けばいいとオフィーリアは考えていた。というか、そうなってからでなければ対応する時間が取れない。物理的に不可能である。

「……その様子だと、本当に何も知らないみたいですわね。まあいいですわ、その時になって恥をさらすのはお義姉ねえ様ですもの。今から楽しみだわあ!」

 いぶかしげに眉をひそめた後、急に愉しそうに口を開け声を上げて笑い始めたテルマに、オフィーリアも眉根を寄せる。
 貴族令嬢を名乗りたいのなら、もう少し令嬢教育を真面目に受けたらいいのに。先ほどから言葉遣いも中途半端だし、口を開けて笑うなど。受験を頑張って合格したのは立派だけれど、やっぱりこの子は市井しせいの育ちでしかないのねと、オフィーリアは内心でため息をついた。

(正式に公爵位を継いだら、この子には父と義母と一緒に領都の別邸に引っ込んでもらいましょう。これ以上自由にさせてはカストリア公爵家の名をおとしめるだけだし、生活の保証だけ確約して、それで呑んでもらうしかないわね)

 オフィーリアはそう考えて、テルマの高笑いには返事をせず、控えていた執事に「それでは、行ってくるわね」と告げて玄関ホールを出た。
 すぐ正面の馬車停まりにはすでに専属のぎょしゃが公爵家の馬車を用意していて、彼女はそれに乗り込んだ。
 ちなみにテルマにも専属の馬車とぎょしゃを与えてある。登院するのに彼女と同乗するなど、オフィーリアの心身が耐えられそうにないからだ。
 ぎょしゃだけでなく侍女数名と執事補をひとり、テルマとその母にそれぞれ付けている。そうしないと人事権のない父がうるさいというのもあるし、テルマを不当にしいたげているという噂を真実にするわけにいかなかったからでもある。
 背後でテルマが何やら金切り声を発していたけれど、オフィーリアはもう反応しなかった。



    3.婚約破棄


 マケダニア王国の誇るミエザ学習院は、王都サロニカの郊外に広大な敷地を持つ。建屋は中央棟を囲んで三方に教室棟、残る一方に大講堂、それに中央棟と各教室棟を繋ぐ回廊とで成り立っている。そのほか敷地内には、騎士科の使う教練広場や魔術科の所有する魔術演習場などがある。
 教室棟は三階建て、中央棟は四階建てで、遠目からは五つの建物が寄り添っているように見える。中央棟には教職員室のほか事務室、院長室、学生会室、演奏室、医務室、カフェテリアテイオポリオと食堂、ダンスの講義や夜会にも対応した多目的ホールや応接室などがある。
 教室棟はそれぞれ棟ごとに各学年の専用で、各棟とも一階は一般教室タクスィ、二階は上等教室、三階は優等教室と成績で分けられ、それぞれに所属する学生たちの教室と各種専用室がそなわっている。
 オフィーリアは三回生、最終学年で優等教室の学生だ。彼女は入試を首席で突破して優等学生となり、それ以降どの学年でも優等から落ちたことがない。
 そしてそれは、婚約者であるボアネルジェスも同じであったのだが――

「殿下は本日もまたお休みになられてますの?」
「いや、どうだろう。登院しておられるとは思うのだが」
「……殿下は確か、一回生でも二回生でもかいきんであられた……よな?」

 級友たちのヒソヒソとした話し声が聞こえる。正確には、オフィーリアが強化の魔術で聴力を上げて聞き取っているのだが。

(……よろしくありませんわね)

 オフィーリアは内心でため息をつくほかはない。
 表向きには彼女と首席争いをしているはずのボアネルジェスは、実のところ、気が向いた時にしか授業に出席しようとしないのだ。
 それを指摘する度に彼は「なに、成績など前後期の試験の結果で決まるのだから、試験さえ対処しておれば良い!」などと言って笑い飛ばす。授業にも出ないのに試験の結果だけが優れている彼を、他の学生たちがどう思うのか考えたことがあるのだろうか。
 そう。ボアネルジェスが自らの成績をかいざんしているのではないかという噂が今、密かに流れている。それが事実であれば大問題だし、事実でなくともそんな風評を立てられるだけで経歴に傷がつきかねない。
 だが実際には、ボアネルジェスは成績かいざんのような不正はしていない。
 彼はただ、試験の度に自身に代わって完璧に試験対策をしたオフィーリアの解答を、魔術を用いてそのままなぞっているだけである。ただし、たまに自分で分かると思ったところを勝手に書き足すせいで、彼の成績はオフィーリアと同等になることはあっても上回ることはない。
 そして授業には気が向かなければ出てこない彼だが、実はミエザ学習院には毎日登院している。行かずに王宮にいれば父王に報告されるというのも理由のひとつだが、それとは別の理由もある。
 そのことも、オフィーリアは知っていた。
 ふうぼうも体格も雄々おおしい彼は、彼に憧れる数多あまたの女子学生たちを院内で常にはべらせているのだ。それは他の学生たちの噂を耳にするまでもなく、オフィーリア自身が何度も目撃している事実だ。

(今頃、何処どこでどなたと何をやっておいでなのかしらね、殿下は)

 内心でため息をつきつつ、オフィーリアは窓の外を見る。
 教師が入室してきて、授業の開始を告げた。


 ボアネルジェスはその頃、ミエザ学習院の中央棟と大講堂の間にある中庭の、ガゼボのひとつに陣取っていた。

「相変わらず騒々しい女だったな」

 もう授業が始まるからと慌ただしく教室に戻っていった少女の去った方向を見やりつつ、彼は不快感を隠そうともしない。
 相変わらず、異母姉の風評をおとしめることにばかり熱心な娘だ。確かに見目はまあまあ良いが、血筋が良くない。本人はカストリア公爵の娘だと言うが、カストリア公爵位が現在空位であることはボアネルジェスも当然知っていることだ。それが三年後に、うとましい婚約者のものになるということも。
 去った少女、とはつまりテルマのことだ。
 彼女は登院するなりボアネルジェスのもとにやってきて、今朝もひとしきり異母姉の陰口を叩いて行った。立太子が有力視される第二王子に向かって、その婚約者をしざまにののしればどうなるか。そんなことにも気付かないあたりがこつというほかはない。
 そもそも名を呼ぶ許可を出したおぼえもないというのに会えば必ず名を呼ぼうとするあたり、まともな教育も受けていない証左だ。いい加減うっとうしくなりたしなめた後は控えているので、不興を恐れる程度の分別はあるようだが。

「もう少し血筋が良ければ、相手をしてやってもいいのだがな」

 だが、そんなこつで貴族子女としてはなっていないテルマの瞳は、いつだってボアネルジェスへの恋慕を隠そうともしていなかった。だから、彼も表向き彼女を邪険には扱わない。
 恋慕されること自体は悪い気がしないし、彼女の見目も悪くはない。自分が即位したあかつきには後宮へ加えてやっても良いか、くらいには考えている。

「まあ。堂々と浮気の宣言ですか、ジェスさま?」

 そんなボアネルジェスの背後から、若い女の声がした。

「後ろから近付くなど、王族への暗殺をたくらんだと言われても言い逃れができんぞ、マリッサ」
「うふふ。お優しいジェスさまは笑って許してくださるって、わたし知ってますもの」

 振り返りもせずに口先だけでとがめるボアネルジェスに答えながら、ガゼボを回り込んで入り口から入ってきたのは、蜂蜜色の柔らかな髪をふわりと風になびかせたひとりの美少女だった。ボアネルジェスの一学年下の二回生で、一般教室に属する男爵家の庶子マリッサは、ここ最近、ボアネルジェスが特に気に入ってはべらせている女子学生である。
 マリッサは当然のように、ボアネルジェスの左隣に腰を下ろす。
 彼女は十歳の頃まで、男爵家の血を引いているとは知らずに市井しせいで暮らしていたという。そのせいか、貴族特有の内心を隠し通す社交の技術をほとんど身につけていない。いつでもよく笑いよく食べよく動き、愛らしい仕草と容姿であいきょうを振りまく少女だ。

われだから許してやっておるのだぞ。本来ならば手打ちにされても文句は言えんのだからな」
「はぁい。気を付けまぁす」

 気のなさそうな返事をしつつ、マリッサはボアネルジェスのたくましい肩にしなだれかかる。それだけでそれ以上とがめなくなったあたり、彼は彼女に甘い。

「ねえ、ジェスさまぁ」
「なんだ」
「わたし、ちょっと欲しいものがあってぇ」

 授業の始まる時間だというのに、それに出ないボアネルジェスにしなだれかかり、何を言い出すかと思えばおねだりだ。またか、と思いながらボアネルジェスは彼女が語るに任せた。
 彼女は具体的に思い浮かべているものがあるようで、取り留めもなくだらだらと話し続ける。途中で聞いていられなくなり、ボアネルジェスは通信鏡を取り出して政務局へ繋いだ。


「うむ、そうだ。そのように計らえば当面の問題は先送りできると思うが。――おお、そうか。ではよきに計らえ」

 通信鏡とは、通信の魔術を利用した遠隔通話の魔道具だ。ボアネルジェスは手鏡サイズのものを日頃から持ち歩いており、授業中のはずの時間でも宮廷の各部署にこうして連絡を入れ、頻繁に指示を飛ばしている。
 学生の身である以上、授業をおろそかにしていいはずがないのだが、彼がこうして授業中にもかかわらず積極的に公務に取り組むことで、官僚や文官たちからは『政務に熱心な王子』だと評判が上がっているのだから始末に負えない。

「待たせたな。――で、なんの話だったか?」

 通信鏡の接続ボタンを押して術式通話を終了した後、ボアネルジェスはおもむろに隣に座るマリッサに顔を向けた。

「もう、嫌ですわ、王太子殿下。またわたしに全部言わせるつもりですか?」
「ははは、そう怒るでない。それにわれはまだ王太子ではないぞ。――〝青海の真珠〟のネックレスコリェが欲しいのか。ならば御用商に見立てさせ、最高級のものをそなたに贈ってつかわそう」
「本当ですか? 約束ですよ」
われがそなたに嘘なぞついたことがあったか?」
「ふふっ、ちょっと言ってみただけです。最近読んだ小説にあった台詞せりふをわたしも一度言ってみたいと思っていたんです!」
「ははは、なんだ、そういうことか。相変わらずいのう、そなたは」

 ボアネルジェスとて、男爵家の庶子ごときに本気で入れあげているわけではない。だが、けんぼうじゅっすう渦巻く貴族社会にあっては得難い自然体な雰囲気のマリッサと一緒にいると、気が休まるのは事実だった。
 それに彼女は、自分のすることをなんでもおおに褒めて持ち上げてくれる。だから彼女と過ごす時間はとにかく心地よかったし、即位すれば側妃のひとりとして召し上げても良いかと考える程度には、離れがたくなっていた。

「それにしても、殿下はお可哀想です」
「どうした? そなたはわれの何が可哀想だというのだ?」
「だって、立太子なさるために愛のない婚姻をいられてるんでしょう?」

 いられている、というほどでもない。
 オフィーリアは社交界のどの貴婦人にも見劣りしないぼうと知性を持っているし、有能で従順で常にボアネルジェスの不利にならぬよう立ち回ってくれるため、不満はそう多くない。
 もっとも、体型が貧相なのだけはどうにも頂けなかったが。天は人に二物を与えぬというが、知性なぞ半分に削ってでも構わないから、もう少し魅力的な体型をそなえられぬものか。あのそうしんを抱かねばならぬと考えるだけでもえるというものだ。
 それに比べてマリッサは、商会を持ち財政に余裕のある男爵家で四年も養育されていて、体型も容姿も、はだつやかみつやもなかなかのものだ。さすがに未婚の男女のしきたりとして婚前交渉に及ぶ気などないが、この肢体をいつか抱いてみたいと思わずにはいられない。特に胸が素晴らしい。

「まあ、否定はせぬが、オフィーリア以上にわれ相応ふさわしき令嬢などおらんのでな」
「わたしじゃ……ダメですか?」

 かんはつれずにそう返されて、一瞬、ボアネルジェスは返答に詰まった。
 確かに、彼女には隣にいてほしいと思ってはいるが。

「オフィーリア様が殿下に相応ふさわしいというのは、公女様だから……でしょう?」

 そう言われた瞬間、中途半端に知恵の回るボアネルジェスは気付いてしまった。
 オフィーリアは筆頭公爵家であるカストリア公爵家の公女だ。カストリア家には他に子女がおらず、いり婿むこの愛人が産んだ庶子とも言えぬ娘がいるものの、爵位の継承権があるのはオフィーリアのみである。
 だが、他にも公爵家自体はあるのだ。特にカストリア家と対抗する派閥を率いるサロニカ公爵は日頃から、『わが家に娘がおれば、とも殿下の婚約者候補に名乗りを上げさせたところなのですが』と残念がっている。
 オフィーリアはカストリア公爵家を継がねばならない立場だ。そしてカストリア家はすでにヘーラクレイオス王家と幾度も縁を繋いでいて、今さら血縁を求めているわけでもない。仮に彼女がボアネルジェスの婚約者を外れたところでさしたる問題もないだろう。むしろ現状のほうが、王家がカストリア家を取り込もうとしているのではないかとねんされているほどである。
 一方で、サロニカ公爵は王家との縁を欲している。そうしてマケダニア王国内での地位を高め、最終的にカストリア公爵家を追い落として筆頭公爵家となるのが彼の悲願なのだ。
 マリッサをそのサロニカ公爵の養女とし、その上で妃に迎えてはどうだろうか? 養女とはいえ王家との縁も繋がるし、ボアネルジェスが王位を継いだ後にマリッサとの間に生まれた姫でもサロニカ家の後継者にとつがせれば、血縁も万全となる。いやマリッサの子でなくとも、他の側妃に産ませた姫でも文句はないだろう。

「……殿下?」

 急に考え込んだボアネルジェスに、マリッサがげんそうに声をかける。

「そう、だな。そのとおりだ。そなた、なかなか頭も切れるではないか!」
「えっ、そ、そうですかぁ?」

 急に褒められて相好を崩す彼女の手を、ボアネルジェスは慣れた手つきですくい上げる。

「そう、そなたの言うとおり、他にも公女がおれば良いのだ! 任せておけ、そなたをわれの隣にずっとはべれるようにしてやろう」
「えっ、ほ、本当ですか!?」
われがそなたに嘘をついたことなどないと、先程も言ったであろう!」
「う、嬉しい……! マリッサをずっと、殿下だけのものに――お嫁さんにしてください!」
い奴め。よい、全て任せておけ!」
「はい!」

 目に涙を浮かべて感激するマリッサがいとおしくなり、思わずボアネルジェスは彼女のきゃしゃな身体を抱きしめた。細い腰を抱き寄せ両腕でその身を閉じ込めると、彼女も抱きしめ返してくる。
 ふにゅりと胸板に押し付けられた柔らかい感触がなんなのかに気が付いて、その感覚を一度だけで終わらせてなるものかと、ボアネルジェスは強く心に誓った。
 ――いや胸だけでなく、腰つきもなかなか良いな。


   ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 それからおよそ一ヶ月後。
 ねんのはじめの、社交シーズンの始まりを告げる王宮主催の大夜会。その会場となる王宮の〝栄光の間〟には、国内主要貴族の大半が揃っていた。当主たちだけでなく夫人も、子女たちもだ。
 しょのはじめに開かれる社交シーズンを締めくくる大夜会の後、要職に就く一部を除く貴族たちの多くは長期休暇に入る。自領に戻ったり旅行ディアコペスに出かけたりと、様々に余暇を過ごした貴族たちはこのねんの大夜会から、再び華やかな社交を繰り広げつつ暖かな王都でかんを越すのだ。
 建前として大夜会は国内の全貴族が招かれて、実際にそのほとんどが参加する。もちろん、オフィーリアもカストリア公爵の名代として参加しなくてはならない。特に今年は成人してお披露目デブートも済ませたため、今シーズンから正式に次期カストリア女公爵として参加することになっている。
 まあそれでなくとも、彼女は第二王子ボアネルジェスの婚約者であるから参加が必須だ。
 ちなみに、カストリア代理公爵ことアノエートスは大夜会には毎年招かれない。本来なら招待されてしかるべきなのだが、先代の女公爵アレサが亡くなった翌年に、招待されていない愛人のヴァシリキを公爵夫人、娘のテルマを公女と主張して制止も聞かずに会場入りしようとし、それ以後は出入り禁止が取られている。

(殿下は、やはりいらっしゃらなかったわね)

 それはそれとして、オフィーリアは今日も内心でため息をつくしかない。婚約者であるはずのボアネルジェスの迎えがなかったのだ。迎えどころか、今回はドレスや宝飾品のプレゼントも、着用するドレスの指定も、招待状に添えられるべき自筆のメッセージすらなかった。
 さすがに一言物申したくなり、公務の合間を縫ってボアネルジェスにただしてみたのだが――

「ああ、うむ、もうそんな時期か。忘れておった」

 じんも悪びれずにそう言われて、オフィーリアは絶句した。それだけでなく、「まあ忘れたついでだ、たまにはそなたの感性で自由に着飾ってみるが良い。楽しみにしておるぞ」などと言われてしまっては、開いた口がふさがらぬというものだ。
 一体何処どこに、婚約者のドレスを自由にさせる貴公子がいるというのか。そもそも自由にと言われても、婚約者の色をまとう以外にないというのに。もしもそれ以外の色のドレスで参加すれば、たちまち不仲の噂が席巻するに決まっているのに。
 それにしても、エスコートすら多忙を理由に断られるとは思わなかった。会場警備の責任者を拝命したからなどと言っていたが、第二王子といえば主賓のひとりであり、そんな者が会場警備責任者になど任命されるわけがない。
 さすがに文句の一つも言いたかったが、これまでもボアネルジェスは苦しまぎれの言い逃れやその場しのぎの嘘を重ねて、オフィーリアが折れるまで頑として譲らなかった。だから今回も無理だと彼女は諦めた。逆らった不敬罪で罰を与えるなどと言われてはたまらない。

「次期カストリア女公爵、ボアネルジェス第二王子殿下のご婚約者様、オフィーリア・ル・ギュナイコス・カストリア公女のご入場でございます!」

 入場コールが高らかに告げられる。オフィーリアは表情をつくろって背筋を伸ばし、開かれた大扉から会場内へ、努めて優雅に一歩を踏み出す。
 内心でどれほど滅入っていようとも、日々の激務でいかにこんぱいしていようとも、婚約者のエスコートがないことに消沈していても、これは公務で、この場はおおやけの場である。人目のある場においては次期女公爵、そして第二王子の婚約者として振る舞わなければならない。
 そう自分に言い聞かせつつ、彼女は単身で会場入りを果たした。


 だが、そうして始まった大夜会で、オフィーリアは壁の花と化していた。
 さすがにこんなことは初めての経験であり、正直どうしていいか分からない。


 第二王子ボアネルジェスは、オフィーリアのすぐ後にコールされ、王族用入り口である中央階段を堂々と降りてきた。
 その彼を見て会場からどよめきが起こったのは、彼がひとりの令嬢をエスコートしていたからである。もちろんそれはオフィーリアではなく、男爵家の庶子マリッサだ。
 マリッサは明るいいろのドレスに身を包み、頭に薄絹の黒い総レースのヴェールをまとって胸元に大ぶりの黒真珠を光らせていた。ヴェールやドレスの襟元を飾るレースは東方産の最高級絹糸、裾や腰回りをいろどる刺繍は見事な銀刺繍。そのドレスコードは王太子妃に準じている。
 そんなドレスコードはこの場の誰も、そうオフィーリアでさえ許されないというのに。
 一方でオフィーリアのまとうドレスは黒を基調に胸元に向かって白くなるグラデーション、肩に柔らかないろの総レース仕立てのショールを羽織っていた。黒いドレスは見た目が重くなりすぎないように、まだ暑い季節の夜会でも着られるように、レースを幾重にも重ねてたっぷりとドレープを取り、主張しすぎない程度に緩く膨らませたクリノリンも仕込んである。


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