鳥籠の花嫁~夫の留守を待つ私は、愛される日を信じていました

吉乃

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新しい命

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夏の光がやわらかく差し込むある朝、カタリーナは眉をひそめて身を起こした。
下腹部に走る鋭い痛み――思わず息を止めて、シーツを強く握る。

「……っ、いた……っ……!」

鈍い痛みが、波のように押し寄せてくる。
胸元で手を押さえながら、カタリーナは小さくうめいた。

「誰か…………!」

寝台の隣に控えていた侍女がすぐに駆け寄り、助産師と医師を呼びに走った。

医師と助産師が慌ただしく準備に入る中、カタリーナは深く息を吸った。
緊張、不安、期待‥すべてが胸の中で渦巻いていた。

 レオナルドは、報告を受けてすぐに駆けつけてくれた。
 いつもは冷静な彼の顔に、わずかな動揺の色が見えたのが、逆に心強かった。

「大丈夫、きっとすぐ終わる。……医師もついてる。怖がらなくていい」

 カタリーナはかすかに笑った。
 あの人の声を聞けて、安心できるなんて。

「ありがとう……傍にいてくれて」

 陣痛は強まったかと思えば、次の瞬間には遠のき、時間の感覚が曖昧になっていった。
 医師が脈を計り、顔をしかめながら言った。

「まだ……もう少しかかりそうです。初産ですから、焦らず備えましょう」

彼女の額に滲む汗を レオナルドは、苦しそうに額を押さえるカタリーナの手を握ったまま、医師と短く会話を交わす。
 彼女の額に滲む汗をそっと拭い、少しだけ眉を寄せて言った。

「……少しだけ、外します。すぐ戻ってきますから」

「……ええ、大丈夫。気をつけて」

 そう微笑んではみたものの、カタリーナはどこか胸の奥がすうっと冷えた気がした。

 部屋を出たレオナルドの元へ、側近が足早に駆け寄る。

「急ぎの報告でございます。先日の件で──」
「……今か?」

 レオナルドは逡巡したが、医師の「まだ時間がかかる」との言葉が頭に残っていた。

 ほんの少しだけなら。
 そう判断し、屋敷を後にして仕事へと出向いてしまった。

 だが、陣痛は思いがけず急激に進み始めた。

 「もうすぐです! 準備を!」

 助産師たちの声が飛び交い、カタリーナは痛みに喘ぎながら枕元を握りしめた。
 胸の奥では、ただひとつの思いがよぎっていた。

  ──レオナルド……。

 さっきまであれほど傍にいてくれたのに、あの優しい声が、手が、今は届かない。
呼吸を整えながら、カタリーナはひとり、産声を迎える覚悟を決めた。

 そして――
 夕暮れが近づく頃、産声が屋敷に響き渡った。

「おめでとうございます、男の子です!」

 産着に包まれた赤ん坊が腕の中にそっと抱かれた瞬間、カタリーナの視界が涙で滲んだ。
赤い顔、小さな指、か細い声。
 それは想像していた以上に、尊くて、儚くて美しい命だった。

カタリーナは、痛みと疲労の果てに、小さな命をこの腕に抱いた。
 赤く小さな顔、か細い声、けれど確か その瞬間、自然と涙がこぼれた。
 
「……ありがとう、元気に生まれてきてくれて……」
赤ん坊の頬にそっと指先を添えながら、彼女は優しく微笑んだ。
レオナルドも、すぐに来てくれる‥‥‥
そう信じていた。
この子の顔を、今すぐ見せたい。
きっと、あの人も喜んでくれる。……そう、信じていた。

 けれど──時が過ぎても、扉が開くことはなかった。

 「……来ない?」

 カタリーナが侍女に尋ねると、彼女は困ったように首を横に振った。

「申し訳ありません奥様……旦那様は、まだお戻りでないようです」
その瞬間、カタリーナの胸にすっと冷たいものが流れた。
そう……期待していた分、その静けさが心に刺さった。

 侍女の申し訳なさそうな声に、カタリーナは静かに目を伏せた。
 そして、しばらくしてから、しんどそうに呼吸を整えながらも、やさしい声で言った。

「……謝らないで。あなたのせいじゃないわ。……仕事だから、仕方ないもの」

 微笑もうとした唇はかすかに震えていたけれど、
 その言葉には、侍女を気遣う誠実な思いが込められていた。
侍女は胸を詰まらせながら、深く頭を下げた。

「……ありがとうございます、奥様。お身体、お大事に……」

 「奥様、いまはお身体のほうが大切です」
 助産師がそっと言い添える。
 「ご出産の疲労もありますし、赤子もこれから授乳が始まります。お身体をお休めくださいませ」

 医師もまた、穏やかに言葉を添えた。

「ご主人様には、あとでご報告しておきます。
 ご安心ください。あなたはとてもよく頑張られましたよ」

 侍女たちが部屋を整え、乳母が赤ん坊を優しく抱き上げる。
その様子を見つめながら、カタリーナは微かに笑みを浮かべた。

 こんなにも幸せなはずなのに。
 どこかに小さな空洞ができてしまったのは、なぜだろう。そう思うのは私のわがままかもしれない。。

 その問いは胸の奥にそっとしまったまま、
 彼女は、初めて母として眠りに落ちていった。

 ◇ ◇ ◇ 

 夜も更けた頃、レオナルドが屋敷に戻った。

「カタリーナ……!」

 玄関をくぐるなり、駆け寄ってきた侍女の顔色で、すぐにすべてを悟った。

「……生まれたのか」

「はい。無事に……とても元気な男の子です」

 レオナルドは何も言わず、すぐに寝室へ向かった。
 カタリーナはすでにまどろみに入っていたが、侍女が赤ん坊を抱いてそっと差し出した。

 その小さな存在を腕に受け取った瞬間、レオナルドは言葉を失った。

 あまりに小さく、あたたかく──そして、かけがえのない命だった。

 「……遅くなって、すまない」
寝台のカタリーナが、薄く目を開けた。
 その瞳に、ほんの一瞬、悲しみが揺れたように見えた。

「……あなたが戻ってきてくれてよかった」

 彼女は微笑んだ。けれど、その笑顔の奥にあるものを、レオナルドは読み取れなかった。

 ──たった一度の、大切な瞬間だったのに。

 それを伝えるには、カタリーナはもう疲れすぎていた。

 赤ん坊の寝息だけが、静かに響く寝室の中で、
 彼女はそっと目を閉じた。

レオナルドは、ただ赤ん坊を見つめていた。
 黙ったまま、まるで言葉を失ったように、ひたすらその小さな存在を見つめていた。

 「……ありがとう」

 ふと漏れたその声が、震えていた。
 彼がどれほどこの瞬間を待っていたのかが、伝わってきた。

「名前……もう、考えていたんです。もし、男の子だったらって」
彼がそっと口にした名前は、ふたりで過ごした静かな旅の中で、ふと話題にしたものだった。
──ようやく、わたしたちは「家族」になれた気がした。
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