鳥籠の花嫁~夫の留守を待つ私は、愛される日を信じていました

吉乃

文字の大きさ
22 / 91

家族らしさ

しおりを挟む
石造りの門が開かれ、セレスタ家の屋敷が見えたとき、ティモシオが馬車の窓から身を乗り出した。

「おかあさま、見て! おうち、ただいまーっ!」

カタリーナはふっと笑って、その小さな体を抱き寄せる。

「そうね、ただいま。我が家へ帰ってきたわ」

その隣で、レオナルドも微笑んでいた。
言葉はなかったが、どこか満ち足りたような空気が、確かに彼の隣にあった。

 屋敷の扉が開かれると、使用人たちが出迎えた。侍女のひとりがティモシオに手を振ると、彼は誇らしげに胸を張って応えた。

「ぼく、おとーさまとおかあさまと、たびにいってたの!」

 その言葉に、カタリーナの胸がきゅっと締めつけられる。“おとうさま”──その響きを、こんなに自然に口にする日が来るなんて。

 屋敷に戻ってからの数日間、時がゆるやかに流れていった。

 朝食の席にレオナルドが顔を出すようになった。使用人たちは驚きながらも、その変化を歓迎するように朝の準備を整える。

「ママ、今日もぶどう、ある?」

 ティモシオの問いかけに、カタリーナは笑顔で答える。

「もちろんよ。厨房に頼んでおいたもの、一番甘いやつよ」

「やったぁー!」

その声に、レオナルドが小さく吹き出した。

「……そんなに好きだったのか、ぶどう」

「うん! おとうちゃまも食べる?」

その言葉を口にしたあとで、ティモシオの顔がわずかにこわばった。

「あっ……」

自分で気づいたのだ。おとうさまと言うつもりだったのに、つい、口から出てしまった柔らかな呼び方。

カタリーナがふっと微笑みながらも、息子の様子にそっと視線を寄せる。
ティモシオの目がレオナルドを見上げた。その小さな瞳の奥に、「まずいかな……」という不安がよぎる。

けれど、次に返ってきたのは、想像と違う、父の声だった。

「……どんな呼び方でも、おまえが私を見てくれるだけで十分だ。……ティモシオ、ありがとう」

その声は静かで、けれど不思議と、胸の奥に深くしみこんでいくようだった。
レオナルドのまなざしが、初めて“父親の目”をしていた。

ティモシオはぱっと笑顔を取り戻し、「じゃあ、一緒に食べよう!」と、まるで何事もなかったように元気よく言った。

カタリーナはそのやりとりを見守りながら、胸の奥に温かいものが灯っていくのを感じていた。
「ありがとう」その一言が、父と子を結んだ瞬間だった。

彼の中にはまだ、自分が「父親」であるという実感がうまく根づいていなかった。
形としての家長ではなく、感情としての親になるには、彼はあまりにも長い時間、言葉を閉ざし、距離を置きすぎてきた。

そしてその間ずっとカタリーナが、どれほど気を配り、
この子が父親という存在に自然に親しめるようにと、静かに努力を続けていたのか。
レオナルドは、まだそのすべてを知らない。

もしかしたら、このひとことを言えるようになるまでに、何度も不安を抱え、
「怖がらせないように」「嫌われないように」と、母として必死に寄り添ってきたのかもしれない。

その影にあった涙や願いに気づかないまま、彼はただ、黙って背を向けてきたのだ。

(……それが、妻としての務めだと、どこかで決めつけていた)

料理を整え、子を育て、静かに屋敷を守ること。
それが女の役目であり、夫に口出しせず耐えるのが美徳だと
自分が見てきた家庭は、ずっとそうだった。

だからこそ、自分もそうしてきた。
ただ働き、金を与え、家を維持すればそれで充分だと。

(……見ていたつもりだった。わかっていたつもりだった)

けれど本当は、何も見ようとしていなかった。
カタリーナの小さな悲鳴も、子どもの無邪気な期待も、
ただ生活の音として流していたにすぎない

それが、こんなにも取り返しのつかない距離を生むのだと、気づいたのは……ようやく、今になってだった。

自分は、ようやく今、入り口に立ったばかり。
それでも、この小さな声が向けられたことが、彼の胸に確かに火を灯した。

午後には、三人で中庭を散歩した。
ティモシオがふらふらと先を歩くたび、レオナルドがさりげなく手を伸ばして支える。
その姿を見て、カタリーナの心に小さな灯がともる。

(こんな日々が、最初からあったなら)

けれど、今あることに意味がある。
この“いま”を丁寧に積み重ねていけばいいのだと、彼女は思い始めていた。

夜、ティモシオを寝かしつけたあとのひととき。
カタリーナが寝室の灯を落とそうとすると、レオナルドがそっと言った。

「……もう少し、話せるか?」

その声に、カタリーナは戸惑いながらも頷いた。

「ええ。まだ、眠くないから」

ふたりの間に、静かな時間が流れる。
けれど、その静けさは、かつての何も語られない空白ではなく、言葉が生まれるまでの余白になりつつあった。

何気ない日常の中に、灯る温もり。
それは、“家族らしさ”という名の、かけがえのない灯火だった。

しおりを挟む
感想 86

あなたにおすすめの小説

離婚した彼女は死ぬことにした

はるかわ 美穂
恋愛
事故で命を落とす瞬間、政略結婚で結ばれた夫のアルバートを愛していたことに気づいたエレノア。 もう一度彼との結婚生活をやり直したいと願うと、四年前に巻き戻っていた。 今度こそ彼に相応しい妻になりたいと、これまでの臆病な自分を脱ぎ捨て奮闘するエレノア。しかし、 「前にも言ったけど、君は妻としての役目を果たさなくていいんだよ」 返ってくるのは拒絶を含んだ鉄壁の笑みと、表面的で義務的な優しさ。 それでも夫に想いを捧げ続けていたある日のこと、アルバートの大事にしている弟妹が原因不明の体調不良に襲われた。 神官から、二人の体調不良はエレノアの体内に宿る瘴気が原因だと告げられる。 大切な人を守るために離婚して彼らから離れることをエレノアは決意するが──。

【完結】旦那は堂々と不倫行為をするようになったのですが離婚もさせてくれないので、王子とお父様を味方につけました

よどら文鳥
恋愛
 ルーンブレイス国の国家予算に匹敵するほどの資産を持つハイマーネ家のソフィア令嬢は、サーヴィン=アウトロ男爵と恋愛結婚をした。  ソフィアは幸せな人生を送っていけると思っていたのだが、とある日サーヴィンの不倫行為が発覚した。それも一度や二度ではなかった。  ソフィアの気持ちは既に冷めていたため離婚を切り出すも、サーヴィンは立場を理由に認めようとしない。  更にサーヴィンは第二夫妻候補としてラランカという愛人を連れてくる。  再度離婚を申し立てようとするが、ソフィアの財閥と金だけを理由にして一向に離婚を認めようとしなかった。  ソフィアは家から飛び出しピンチになるが、救世主が現れる。  後に全ての成り行きを話し、ロミオ=ルーンブレイス第一王子を味方につけ、更にソフィアの父をも味方につけた。  ソフィアが想定していなかったほどの制裁が始まる。

年に一度の旦那様

五十嵐
恋愛
愛人が二人もいるノアへ嫁いだレイチェルは、領地の外れにある小さな邸に追いやられるも幸せな毎日を過ごしていた。ところが、それがそろそろ夫であるノアの思惑で潰えようとして… しかし、ぞんざいな扱いをしてきたノアと夫婦になることを避けたいレイチェルは執事であるロイの力を借りてそれを回避しようと…

もう二度と、あなたの妻にはなりたくありません~死に戻った嫌われ令嬢は幸せになりたい~

桜百合
恋愛
旧題:もう二度と、あなたの妻にはなりたくありません〜死に戻りの人生は別の誰かと〜 ★第18回恋愛小説大賞で大賞を受賞しました。応援・投票してくださり、本当にありがとうございました! 10/24にレジーナブックス様より書籍が発売されました。 現在コミカライズも進行中です。 「もしも人生をやり直せるのなら……もう二度と、あなたの妻にはなりたくありません」 コルドー公爵夫妻であるフローラとエドガーは、大恋愛の末に結ばれた相思相愛の二人であった。 しかしナターシャという子爵令嬢が現れた途端にエドガーは彼女を愛人として迎え、フローラの方には見向きもしなくなってしまう。 愛を失った人生を悲観したフローラは、ナターシャに毒を飲ませようとするが、逆に自分が毒を盛られて命を落とすことに。 だが死んだはずのフローラが目を覚ますとそこは実家の侯爵家。 どうやらエドガーと知り合う前に死に戻ったらしい。 もう二度とあのような辛い思いはしたくないフローラは、一度目の人生の失敗を生かしてエドガーとの結婚を避けようとする。 ※完結したので感想欄を開けてます(お返事はゆっくりになるかもです…!) 独自の世界観ですので、設定など大目に見ていただけると助かります。 ※誤字脱字報告もありがとうございます! こちらでまとめてのお礼とさせていただきます。

私たちの離婚幸福論

桔梗
恋愛
ヴェルディア帝国の皇后として、順風満帆な人生を歩んでいたルシェル。 しかし、彼女の平穏な日々は、ノアの突然の記憶喪失によって崩れ去る。 彼はルシェルとの記憶だけを失い、代わりに”愛する女性”としてイザベルを迎え入れたのだった。 信じていた愛が消え、冷たく突き放されるルシェル。 だがそこに、隣国アンダルシア王国の皇太子ゼノンが現れ、驚くべき提案を持ちかける。 それは救済か、あるいは—— 真実を覆う闇の中、ルシェルの新たな運命が幕を開ける。

🥕おしどり夫婦として12年間の結婚生活を過ごしてきたが一波乱あり、妻は夫を誰かに譲りたくなるのだった。

設楽理沙
ライト文芸
2026.1.4 73話見直した際、瑛士の台詞《本音/懺悔》を加筆しました。😇 ☘ 累計ポイント/ 200万pt 超えました。ありがとうございます。 ―― 備忘録 ――    第8回ライト文芸大賞では大賞2位ではじまり2位で終了。  最高 57,392 pt      〃     24h/pt-1位ではじまり2位で終了。  最高 89,034 pt                    ◇ ◇ ◇ ◇ 紳士的でいつだって私や私の両親にやさしくしてくれる 素敵な旦那さま・・だと思ってきたのに。 隠された夫の一面を知った日から、眞奈の苦悩が 始まる。 苦しくて、悲しくてもののすごく惨めで・・ 消えてしまいたいと思う眞奈は小さな子供のように 大きな声で泣いた。 泣きながらも、よろけながらも、気がつけば 大地をしっかりと踏みしめていた。 そう、立ち止まってなんていられない。 ☆-★-☆-★+☆-★-☆-★+☆-★-☆-★ 2025.4.19☑~

【完結】この胸が痛むのは

Mimi
恋愛
「アグネス嬢なら」 彼がそう言ったので。 私は縁組をお受けすることにしました。 そのひとは、亡くなった姉の恋人だった方でした。 亡き姉クラリスと婚約間近だった第三王子アシュフォード殿下。 殿下と出会ったのは私が先でしたのに。 幼い私をきっかけに、顔を合わせた姉に殿下は恋をしたのです…… 姉が亡くなって7年。 政略婚を拒否したい王弟アシュフォードが 『彼女なら結婚してもいい』と、指名したのが最愛のひとクラリスの妹アグネスだった。 亡くなった恋人と同い年になり、彼女の面影をまとうアグネスに、アシュフォードは……  ***** サイドストーリー 『この胸に抱えたものは』全13話も公開しています。 こちらの結末ネタバレを含んだ内容です。 読了後にお立ち寄りいただけましたら、幸いです * 他サイトで公開しています。 どうぞよろしくお願い致します。

遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花
恋愛
私は、夫にも子供にも選ばれなかった。 その事実だけを抱え、離縁を突きつけ、家を出た。 そこで待っていたのは、最悪の出来事―― けれど同時に、人生の扉がひらく瞬間でもあった。 夫は愛人と共に好きに生きればいい。 今さら「本当に愛していたのは君だ」と言われても、裏切ったあなたを許すことはできない。 でも、子供たちの心だけは、必ず取り戻す。 妻にも母にもなれなかった伯爵夫人イネス。 過去を悔いながらも、愛を手に入れることを決めた彼女が辿り着いた先には――

処理中です...