鳥籠の花嫁~夫の留守を待つ私は、愛される日を信じていました

吉乃

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未来のために

前を向くカタリーナ

退職届を手にしたカタリーナは、静かに職場の廊下を歩いていた。
子どもたちと向き合い、心の底から溶けるような安心と決意を得た朝だった。もう迷わない。感謝とともに終わりを告げる時が来たのだ。

「今まで、本当にお世話になりました」

上司に深く頭を下げたあと、カタリーナは会社の出入り口へと足を向けた。胸の奥にわずかな寂しさが残るが、それ以上に、新しい一歩への清々しさがあった。

その時だった。

ふと前方から歩いてくる数名の人影の中に、見慣れた姿があった。

(……ダリオ)

瞬間、心臓が跳ねたように鼓動を打つ。だが彼の隣には同僚らしき人物。仕事中だろうか、真剣な面持ちで何かを語っている。

声をかけては、いけない──。

そう思いながらも、彼女はほんの少し足を緩めた。視線だけが、彼を求めていた。

その視線に気づいたのか、ダリオもまた立ち止まり、驚いたように目を見開いた。

(……カタリーナ?)

なぜこの時間に? どこへ行くのか? どうしてここに?

矢継ぎ早に疑問が頭を駆け巡る。だが声が出ない。同僚がいる。任務中だ。今は──動けない。

悔しさが込み上げた。ただ目で、彼女の姿を焼きつけるしかなかった。

カタリーナは小さく会釈をして、静かにその場を去った。

……そしてその夕刻。

ダリオは上官に願い出た。「本日、早めに上がらせていただけませんか」と。
誠実に職務を果たしてきた彼の願いは珍しく通り、夕暮れが街を金色に染める頃、彼はリベルタ家の門前に立っていた。

受け入れてくれるだろうか──

心臓が少しだけ早く脈を打つのを感じながら、門兵に声をかけた。

「突然の訪問で失礼します。ダリオ・ヴァレンテと申します。フェルナンド様に……ご挨拶を」

先触れもなく訪れた自分に、門前払いされるかもしれないという不安が頭をよぎった。
だが、後悔はしたくなかった。

やがて、門の奥から姿を現したのは、かつてと変わらぬ静かな威厳をたたえた男――カタリーナの兄、フェルナンドだった。

「久しぶりだな、ダリオ」

その低く落ち着いた声に、ダリオは直立し、礼を取った。

「……お時間をいただき、ありがとうございます」

「話の途中でいい。中で聞こう」

フェルナンドに導かれ、応接室へと通された。
整然とした室内には、リベルタ家らしい品格が静かに息づいていた。

席に着くよう促されたが、ダリオは背筋を正したまま、簡潔に用件を伝える。

「本日、偶然カタリーナさんの姿を見かけました。職場を後にされるところでした。……気になって、どうしてもお話を伺いたくて」

フェルナンドは黙ってダリオを見つめる。その視線は、穏やかさの裏に確かな警戒を宿していた。

「退職届を出してきたそうだ。ようやく、少し吹っ切れたのかもしれない」

「……そうですか」

「だが、今は……ここにカタリーナはいない」

フェルナンドの言葉に、ダリオは一瞬驚き、思わず問い返した。

「……なぜですか?」

フェルナンドはわずかに視線を逸らし、そしてゆっくりと椅子の背にもたれながら答えた。

「彼女にとって、今は静養すべき時だ。少し前まで子どもたちのことで相続の揉め事があり、職場では執拗な嫌がらせも受けていた。……だから、退職という形を選んだ」

静かな語調ながら、その中に妹を思う兄としての深い憂いが滲んでいた。

「私は、お前が彼女にとって必要な存在であることも分かっている。だが、それでも――勝手に居場所を教えるわけにはいかない」

その言葉に、ダリオは唇を結んだまま、静かに頷いた。フェルナンドがただの兄ではなく、一人の家の当主として、誇りを持って妹を守っていることがよく分かったからだ。

「会うかどうかは……彼女自身に決めさせる。私の方から、今日お前が来たことを伝えよう。そして、もし彼女が望むなら――手紙を書いてもらうよう勧める」

フェルナンドは立ち上がり、執事を呼び寄せると、一枚の紙と筆記具をダリオの前に差し出した。

「連絡の取れる場所を、ここに書いてくれ。……彼女から手紙が届くかどうかは、あくまで彼女の意志によるが」

「……ありがとうございます」

深く頭を下げるダリオに、フェルナンドは視線を落としたまま、静かに告げた。

「……待っていてくれ。それが、今できる最善の誠意だと私は思う」

そう言ったあと、フェルナンドはふと目を伏せたまま、わずかに声の調子を緩めた。

「……カタリーナは、昔から頑張りすぎる。誰にも頼らず、全部自分で背負おうとする娘なんだ。だからこそ……今は、誰かが無理に扉を開けるのではなく、彼女自身が開こうとするその瞬間を、尊重してやりたい」

そして、まっすぐにダリオを見つめる。

「その時、傍にお前がいてくれるなら、私はそれを拒む理由はない」


***

翌日。
昼過ぎの柔らかな陽光が街を照らす中、フェルナンドは仕事の合間を縫って、妹のもとを訪れていた。扉を開けたカタリーナの顔を見た瞬間、彼は言葉少なに懐から一枚の紙を取り出す。

「昨日の夕方、ダリオが家に来た」

その名を聞いた瞬間、カタリーナの瞳がわずかに揺れた。

「突然だったが、礼儀を尽くしていた。……これは、彼の連絡先だ。預かってきた」

紙を受け取ったカタリーナは、そっと胸に抱くようにして見つめ、そして微笑む。

「……ありがとう、お兄様」

それは、言葉では言い尽くせぬほどの感謝だった。
ダリオという名を思い浮かべるだけで、心がふんわりと温かくなる――その感覚が、彼女自身にも驚きだった。

「……先日、ティモシオたちにダリオさんのことを話したの。そしたら、ティモシオが言ったの。ママが笑ってくれるなら、僕は嬉しいって」

その言葉を聞いて、フェルナンドは静かに頷いた。

「……子供は、親の気持ちに敏感だからな。無理をしている時ほど、よく見ている」

「だから私……もう逃げずに、自分の気持ちをちゃんと見つめてみたいの。今度こそ、誰かに寄りかかってもいいって、そう思えるようになったの。……ダリオさんのこと、前向きに考えていきたい」

その言葉には、恐れも未練もなかった。ただ、穏やかな決意と、未来を見据える瞳だけがあった。

フェルナンドは短く息を吐き、小さくうなずいた。

「……分かった。私から異論はない。ただし、お前が無理をしていないか、そこは見させてもらう。……それで構わないな?」

「ええ、もちろん」

そのやりとりに言葉は少なかったが、そこには兄妹の強い絆と、互いを思いやる信頼があった。

カタリーナはすぐに手紙を書いた。
「会いたいです。直接、お話がしたい」と。

そして、ダリオの休日に合わせて、小さなカフェで会う約束を交わした。
かつての職場の人々とは顔を合わせることのない、落ち着いた通りにある静かなカフェ。新たな一歩にふさわしい、柔らかな場所だった。
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