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第十六話『イツシカの話』
しおりを挟む下の名前で呼び捨てで呼ぶ。できれば、呼び合う。
もし彼女ができたら、こうしてみたいなと憧れていたことはたくさんあるけれど、どれも実は曖昧で、具体的にすぐ言えるのはこれだけだった。
「つきあう」って、なんなのだろう?
彼女と付き合うようになった後、ずっとそれを考えていた。
どうしていいのかがわからなくて、ただ毎日、漫然と一緒に下校した。
すぐにお別れの時間は来るし、そこから先は一人で下校していたときよりもずっと寂しくなるのだけれど、そのぶん、次にまた彼女に会えたときや、その日の帰りにまた一緒に下校するときの幸せな気分が、大きく、大きく盛り上がる。
今、僕らの間にはただ、〈付き合っているという事実〉があるだけで、していることと言えば下校時、一緒に途中まで歩くだけだ。なのに、これほど幸せな気分で僕が毎日を過ごせているのは、彼女が僕を特別な人として、ちゃんと扱ってくれているからだと思う。
一緒にいられる時間をすごく楽しんでくれて、お別れの時間をすごく寂しがってくれる。
これが、なによりも大きかった。
毎日毎日ただ同じ時間を繰り返しても、彼女は飽きた様子もなく新鮮に、ずっと同じように反応してくれる。
していることは、二人で並んで歩き、手を振って「またね」と別れるだけ。
そうそう、この「またね」も重要なんだ。
ただ寂しいと思うだけでなく、次があると安心して寂しがることができるのは、彼女のこの別れ際の言葉や表情のおかげだ。
僕はどうしてもこの気持ちを、いつも感じている喜びや感謝の念を伝えたくて、ある日、ドキドキしながら言葉にしてみた。
「嬉しい」
彼女は恥ずかしそうに、耳を桃色に染めて俯いた。
たまらなかった。
こっちこそ、こんなに嬉しい反応はないよと思った。
僕が彼女と一緒にいたいと感じ、別れるのを寂しいと思っていることを知って、こんなに顔を真っ赤にして喜んでくれるなんて。
またひとつ、宝物みたいな記憶が増えた。
「沢村くんは、自分の彼女としたいことって、ある?」
俯いたままの彼女が投げたその質問に、僕は面食らった。
ある。あるよ。
ずっと、「彼女ができたらこうしてみたいな」と思っていたこと。
どう伝えたら、気持ち悪いと思われずに、それを言えるだろうか?
そんな風に誰かを簡単に蔑んだりしない人だとわかってはいても、やっぱり少しでもよく思われたくて、言葉を選ぼうとしてしまう。
全く頭が回らず、伝わりやすそうな言葉が浮かばない。これかなと思い付いても良し悪しの判断ができなくて、「えっと」「あうう」と何度も言い淀んでしまう。
時間切れだ。もう、考えずに憧れをそのまま、口にすることにした。
「名前で、呼び合いたい、かな。苗字じゃなく」
「うん、いいよ。呼んで?」
恥ずかしそうに微笑みながらそう返され、胸が甘酸っぱさで一杯になる。
「真織」
「なあに?」
目標とか夢とか憧れとか、なんと呼んでいいのかわからない色々が、今、突然、するっと達成された。
コメカミが、じゅんじゅんと血流の音をたてている。
目の前にいる彼女が現実の存在とは思えず、卒倒しそうになる。
でもまだ、達成してはいないと気付き、少し調子にのってみる。
「僕のことも、呼んでほしいな」
「うん、いいよ。ジュンくん」
「あ、その、呼び捨てで、呼んでくれたほうが、その、いい、かも」
「わかった。ジュン」
彼女の唇が自分の名前の形に動く映像を、スローモーションで脳内に録画する。
今夜、自分は死んでしまうのではないかと怖くなるくらい、幸せな瞬間だった。
今が、人生の最高潮だ。
これより幸せな時間なんか、もうたぶん来ない。
この時間を大切にしようと、そうしないとバチがあたるぞと、自分を戒める。
これは、あたりまえのことなんかじゃない。
彼女は、奇跡だ。
この時間を大切にするとは、彼女を大切にするということだ。
実は、それも僕の悩みのひとつだった。
彼女を大切に想うことはできるし、事実、ずっと大切に想い続けている。
でもそれは自分のなかだけのことで、実際にはなにも表現できていない。
具体的にどうすれば、彼女を大切にしていることになるのか。
僕は富豪の息子じゃない。
一般的な家庭の子で、お小遣いは月に千五百円。
ちょっと電車で都心に行けば、帰ってこられなくなるくらいしか持っていない。
『どれだけお金をつかうかが、どれだけ男性が、相手の女性を大切にしているかの尺度になる』
テレビやネットで、大人の女のひとがそんなことを言っていた。
それが本当だとしたら、じゃあ僕は、どうすればいいのか。
月に千五百円しかない僕は、月に二千円お小遣いをもらっている男より、彼女を大切にできないってことなのだろうか?
わからない。
恋のしかたが、全くわからない。
心のなかで想っているだけなら、片想いのときと同じじゃないか。
僕は彼女に、どうしてあげたらいいのかな。
その悩みにも、彼女はまたするっと簡単に、ヒントをくれた。
「私にも、訊いてくれないの?」
「え、あ、ごめん、なにを?」
「彼氏と、なにをしたいかって」
心臓がバクンと跳ねて破裂しそうになる。「彼氏」と呼ばれた。自分の顔が熱くなっていくのがわかる。
「ま、真織は、なにがしたいの?」
自信のない、震えた小声になってしまう。
もっと堂々としたいのに、悔しい。
彼女は俯いたままで、そっと僕の手を握った。
恥ずかしそうに僕を見上げ、「えへへ」と甘えたように笑う。
抱きしめたい衝動に駆られたけど、とてもできなくて、僕は彼女の華奢な手を、しっかりと握り返した。
──つづく。
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