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第十九話『うろ』
しおりを挟む高校生活最後の終礼の後、いつもと違う日に、いつものようにならないかなと、蜘蛛の糸より細い希望に縋り付いた。
生徒用昇降口を出て校舎を回り込む、駐車場前の小さな鉄扉。
来客応対用の事務室と職員用昇降口のある裏門前が、僕らのいつもの待ち合わせ場所だった。
ここを生徒が通ることは滅多にない。
一時間が経っても、二時間が経っても、彼女は来なかった。
あと十分したら帰ろう。待ちすぎても、彼女に気を遣わせてしまうし。
あ、もう十分経ったのか、あと、んー、十分かな。
うん、十分経った。でもまあ、あと十分くらいは。
何度もそんな風に引きのばし、「忙しくて会えない日もあるさ」と鷹揚なふりで自分をごまかそうとしてみたりもしたけど、やっぱりどうしても、出口に向けての最初の一歩が踏み出せなかった。
昇降口へと戻ることはできても、彼女と一緒に出るための門扉を独りで通過する勇気が出ない。
このままだと彼女が来るまでに精神的に疲れてしまい、責めても怒ってもいないのに、なんとなく不機嫌で無口な気まずい空気になってしまいそうだ。かと言って一人でプイと帰ってしまうのも、そんなことをすればもう、二度と彼女に会えなくなるような気がして、それもできないのだけれど。
受験の時期に付き合いだした僕らは、一緒に下校するとき以外に二人きりになる時間はほぼ、というか全然なく、ずっと判で押したような日々を送ってきた。
恋人っぽいことは、手を繋ぐくらいしかしていない。
それでも僕は、じゅうぶんに幸せだった。
彼女と待ち合わせをするのも、一緒にいる時間、彼女が彼氏として接してくれるのも、好きな人が自分の彼女になってくれたんだと実感するための、僕にとってはなによりも大切な、孤独や絶望を消すための頓服みたいなものだった。
彼女は神聖で、それ以上を望むのは許されないことだと思っていた。
汚らしくて醜く生まれた僕がこの世で唯一、信仰のように縋れる存在。
生きていたいと思える理由。
今日を境に失うかもしれないのは、それほど大切な人であり、時間だった。
好きな人と離れたくないというのは、そんなに贅沢な願いなのかな?
誰もがもつ、ささやかな願いじゃないのかな。
いやまぁ、「ささやか」だなんて、彼女に片想いしていた当時の僕が聞いたら、「調子にのるな」と呆れ返るかもしれないけども。
願い、そう、願いと言えば、本当はもっと心の底には、ちゃんとした願いだってあったんだ。
僕の脳内の宝箱にしまわれているたくさんの映像はどれも同じで、もし一つでも経年劣化してしまえば、いっぺんに色褪せてしまいそうなものばかり。
どの日の記憶なのかも判別できないほどに似通った正味一個の思い出を抱えて、もう彼女に会えないなんてことになってしまったら、数十年後にのこっているのは幸せな日々の〈映像記憶〉じゃなく、今日から先の日々で僕を苛み続けるだろう、寂しさと痛みの〈感覚記憶〉だけになってしまうかもしれない。
醜くてモテない僕だって、望むことはモテる人らと一緒なんだ。
人並み以上に頭がいいわけでもないけど、会話をしながら歩くという行為だけを何度繰り返したところで、思い出が増えていかないことくらいはわかってる。
それだけが恋愛の喜びの全てじゃないことくらい知っているし、もっと言えば、ここから先が醍醐味だということだって、ちゃんと知っている。
心の広い偉い人なら、「お互い愛を与えあっているなら、それでじゅうぶんではないのか? 他になにが必要だ? 君はもう、尊いものは心のなかに持っているのだろう? それとも君には、物質として彼女を所有したいという、差別的で傲慢な欲でもあるのかね?」と訊いてくるかもしれない。
そう言われてしまうと、僕にはなにも言えなくなってしまう。
独占欲や性欲を身勝手で乱暴なものとしてとらえるのが正しいのであれば、僕はもう満足するべきなのだろう。きっと。
たまに早く帰れる日は公園に寄ってベンチに座り、少し話をしてから帰ることもあった。
その日はいつも、嬉しくて、興奮して眠れなかった。
それが今日までの僕にとっての恋愛の最終段階、最高到達点だった。
もちろんベンチにいる間も、ずっと手は繋いでいる。
たいしたことを話してなくても、幸せな時間は短い。
太陽がぽとんと落っこちたのかと思うくらい一瞬で辺りが暗くなり、暗くなれば公園を出て家に帰るしかない。
それはボーナスみたいな、他の多くの日と比べれば特別な記憶ではあるけれど、やっぱりスタート地点から先へどうやって進めばいいのかを知らない憐れな僕の、同じ記憶の繰り返しの一つでは、あー、ある。うん。ある。
それが贅沢でも傲慢でも、やっぱりなによりも嬉しい、一番素晴らしい記憶は、くっついているときの温もりなんだ。
彼女の体温の記憶は、どの会話の記憶よりも強く、心の深いところにしまわれている。
僕に触れる掌の温かさや、手を繋いだときのしっとりと汗ばんだ感じ、全身から漂う柔らかさと、さらさらと綺麗な髪の毛から届く澄んだ甘い香り。
そして文化祭のときの、背中にのった彼女のやわらかさ。
夜になると、一番深いところからその宝箱が浮上してきて、勝手に蓋を開ける。
僕は今でも、付き合う前の幸せなあの記憶を繰り返し、味わい続けている。
あの素晴らしい感触の記憶、彼女が僕に預けてくれた体重と体温の記憶は、あれから一度も更新されていない。
毎日必ず一緒に帰れていた日々には「充たされた」と錯覚していた自分の心を、卒業式当日を迎えた今、隣に彼女がいない状態で、もう明日から昨日までのように一緒の時間を過ごせなくなった状態でもう一度覗き込んでみると、満腹だと思っていた心は空腹なままで、ほんの一欠片の味見だけがこの恋の全てだったのだと思い知らされる。
たとえば、鰻屋さんの前を通ると、蒲焼きのタレの香りで美味しそうだなと思うことはできる。
その匂いを吸い込むことも幸せな体験ではあるけれど、それで空腹がどのくらい充たされるかというと、満腹度は0%だ。
僕は幸せな気分で毎夜、自分を慰めていた。
あれは蒲焼きのタレの匂いを思い出しながら、蒲焼を食べる自分を思い描いて、ただ白米だけを掻き込んでいたのと同じなのかもしれない。
僕には確かに彼女がいた。それは実感している。
なぜなら彼女が、優しく丁寧に、ぐずぐずといつまでも自分を卑下し続ける僕が実感を得られるよう、根気強く励まし続けてくれたからだ。
だから彼女に対しては、これっぽっちの不満もなく、感謝しかない。
でも僕は今、事実、生まれてから一番寂しい。
たくさんもっていたはずなのに、なぜか空っぽなんだ。
十分ごとに校庭のほうへと戻っては、昇降口の上方にある大時計を見上げているうちに、気付けば二時間半が経っていた。
もう校内はしんとしており、人の気配がしない。
先生や用務員さんはいるのだろうけど、生徒の声はほぼ消えていた。
僕はもう校舎裏の待ち合わせ場所へは戻らず、校門へと向かい、そこから校外に出た。
独りで下校するのは、何ヶ月ぶりだろうか?
彼女が塞いでいた右側の見通しがよすぎて落ち着かない。
いつも繋いでいた右手をどんなに強く握っても、指が空振りをする。
この町は、なんて殺風景なんだ。
彼女の匂いの混じらない空気は、栄養が足りず味気ない。
無色の空はこの世の終わりのようで、晴れていても曇って見える。
足を進めるたび、鈍色の家々が無音で後方へと過ぎていく。
僕は日本語を忘れ、自分の家も忘れた。
どこに向かえばいいのかわからない。
押し潰すように迫ってくる世界から逃げるように、どこまでも歩く。
豆粒のように小さくなった無価値な僕がプチンと弾けると、芋虫の中身のようなグジュグジュの汁が噴き出すだろう。
僕は垂れ流れ、濁った油のようなシミをつくる。
世界の片隅で、白い服についたシミのように恥ずかしい存在となったまま、僕は俯いて生きていくのだろう。
それを生きていると判定していいのなら、だけど。
──つづく。
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