チャーム×チャーム=ブラッド

夢=無王吽

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第二十四話『喪失者』

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 彼女の姿が学校の入口や、周りのビルの陰から現れるのを想像しているうちに、ぼんやりと一日は過ぎ、誰も出てこなくなった納豆藁型の建物は夕日に陰影を濃くして、機能停止の表情へと変質した。
 喫茶店を後にした僕は、失望からなのか歩幅が自然と短くなるのを感じながら、肩を落として駅へと向かう。
 時間がスキップしたかのように、ふと気づくと僕は揺れる車内で車窓へぼんやりした視線を向けていた。
 気を張って、慣れない都会へ出て、目的も達せず、彼女を心配したままの気分も回復せず、疲れてしまったのかもしれない。
 彼女の学校のある駅から数駅戻った停車でドアが開き、人の粒をバラバラと吐き出しては、また吸い込む電車を鳥瞰するようなイメージが脳裏に描かれる。
 ぼんやりが止まらない。
 と、発車の警告音楽が鳴り出した途端、僕の意識が急に覚醒した。
 吃驚。横隔膜が引き攣るほどの。
 僕の視線の先、車窓の向こうの駅のホームを、脳内に描かれた記憶そのまんまの彼女の姿が横切るのが見えた。
 決して人混みに紛れない、輝くようなその全身の輪郭。
「真織」
 しゃっくりのように口から名前が飛び出て、バタバタと人を押しのける。
 閉まりかけのドアをこじ開けるようにしてホームへと飛び出す。
 体内から意識が霊魂のように抜け出て、鳥瞰していたほどの脱力感ぼんやりが消えた。
 灰色に見えていた風景が、色鮮やかな南国の花々のように生気を取り戻す。
 彼女の去った方角へ顔を向ける。
 夕風に靡く彼女の黒髪が、スローモーションに見えた。
 二人のロマンチックな再会が、安っぽいラブシーンのように靄々もやもやと浮かぶ。
 つんのめり、足を絡ませ、呼吸を忘れて駆ける。
 レンズフレアのように光って見える彼女の細い背を目がけて手を伸ばす。
 人が多い。
「すみません」「ごめんなさい」
 何度も謝りながら、人波を泳いでまた手を伸ばす。
 完璧なカタチへと届くまで、追っては手を伸ばす。
 駅を出て、繁華街まで行っても追いつかない。
 彼女は急いでいる風でもないのに、必死な僕との距離が縮まない。
「待って!」
 僕の裏返る声に怪訝そうな顔がいくつも向けられる。
 かまうものか。何度でも呼びかけ、また手を伸ばす。
 その僕の手の指先が、不意に眼前に現れたなにかに触れた。
 彼女以外がぼやけて、ピントが合わない。
 指先が触れたなにかが、ぬっと顔を僕に近づける。
 髪の毛を茶色く染めた男の、大きくていかつい顔が怒りで歪んでいた。
 慌てて「スミマセン」と手を引っ込める。
 男の魚みたいな黒目が、僕と近距離で視線を合わせる。
「……ってぇなぁ……んのヤロゥ」
 舌打ちが、耳元で大きく弾ける。
 横から誰かに腕を掴まれる。後ろのまた違う誰かに肩を掴まれる。
 握り潰されそうな握力と、男臭い息や体臭。
 茶髪男の連れが何人も、僕を囲んでいた。
 正面の茶髪男が僕の胸ぐらを掴み、ぐいと首まで持ち上げる。
 三方向から押さえられ、ピクリとも動けない。
 こんな恐ろしげなトラブルは、生まれて初めてだった。
 男の茶色い頭越しに、それでも僕の眼はまだ、彼女の背を追ってしまう。
 僕の視線と彼女の後ろ姿との間に通行人たちの背中や後頭部がどんどん重なり、見えなくなった。
 離れていく完璧なカタチ。ぼんやりと光る、僕の、僕だけの……。
 耐えられなかった。
 やっと会えたのに。いや、会えそうだったのに。
 なんでみんな、邪魔をするんだ。
 僕を掴む骨ばった硬い大きな拳から逃れ、彼女を追おうと僕はジタバタした。
 見えなくなったあの背は僕のだ。僕のなのだから追ってなにが悪い。
 また離れてしまうなんて嫌だ、嫌だ嘘だ。嫌だ。
 走ろうと足は地を蹴るのに、身体は前へ進まない。
 機械みたいな剛力がいくつも、僕を固定しているからだ。
「おいおいコラ、暴れんな」
 男たちの一人、筋肉質で丸っこく、首の太いのが叱るように言った。
 僕が指先で顔を突いてしまった茶髪男が周囲をチラリと見渡して、目配せする。
 なにかの意思疎通が、男たちの間でおこなわれたのが伝わる。
「ちょっとそっちのほう、いこうか」
 商店街の隅にある店と店との間、細い、通り抜けられるのかも不明な裏路地。
 室外機とダンボールしかない、洞窟みたいな場所に引きずっていかれる。
 路地の入口に背の高い男が立つと、蓋のように道が塞がれて密室になった。
 もう外の通りからこっちは、誰にも見えない。
 一人がいきなり、僕の尻を蹴飛ばした。
 バシンと、空気が破裂したようなすごい打撃音が壁に響く。
 壁には落書きと黴が付着していた。
 湿っぽい、臭い場所だった。
 尻を蹴られてよろけた僕を支えるようにして両肩を掴んだ男が、僕の股間に膝を突き刺した。
 ごうんと、鉄球を飲み込んだような苦しさが胃まで突き抜ける。
「おえっ」僕がえずいてよろけると、掴まれた肩を引かれ、足払いがかけられた。
 湿った臭い地面に転がされ、僕は股間を押さえて丸くなった。
 蟋蟀こおろぎかゴキブリかわからない、茶色い翅の虫の死骸が潰れて、湿った地面に擦り付けられていた。
 目線の高さがその死骸と同じになり、僕は今、こいつと同じなのだと実感する。
 束の間ゆっくりになった時間が急に戻ったかのように、或いは無重力の乗り物が重力圏内に戻った瞬間のように、男たちが一斉に素早く動き出す。
 爪先で、内臓や肋骨を突き刺すように全方位から蹴り上げられる。
 頭蓋骨や耳や脇腹を踏み潰すような踵が、雨のように降ってくる。
 アスファルトはいくつもの靴底の擦過音を合奏し、僕は呻き、悲鳴を打撃で呑み込まされた。
「ひっ、い、いっい、イッひッ、いっ!」
 腹を蹴られるたびに呼吸が引っ込み、痙攣のように不自然になった。
 喫茶店で飲んだコーヒーと胃液の混じった酸っぱいものが喉の奥からドボドボと流れ出てきた。
 涙と鼻水が路面のじゃりや虫の死骸と混ざり、一口ゲロを撒いたばかりの口中に侵入した。
 それを吐き出そうとして顔を突き出すと、鼻柱を蹴り飛ばされた。
 鼻がへし曲がるときの、頭蓋骨がバキリと鳴る感覚。
 首が後頭部のほうへ吹き飛ばされ、チラチラと涙で光る地面の景色が、ぐるんと回る感覚。
 どれもが心底不安で、幼児期に迷子になったときの気持ちに似ていた。
 現実ではないと否定したいのに、自分がいる場所は厳然と変わらない。
 泣き声が、破裂したように喉から放出した。
 迷子になったあのときと同じように、僕は泣き喚いた。
 それを止めようとしたのか、唇を爪先で蹴り込まれた。
 こんなに容赦なく、人は人の顔を蹴ることができるものなのかと感心するほどの威力。
 複数人が同じように僕の顔面をガツガツと蹴り、目が見えなくなった。
 ぼんやりとした視界と頭。ハッキリと言語でものが考えられなくなった頃、気づけば茶髪の男が僕の顔の前にしゃがんでいた。
「ひとの顔叩いちゃだめだろうが、え? おい。違うか?」
 叱られている。
 スミマセンと謝ろうとしたが、口と鼻が腫れて、胃が痙攣して呼吸ができない。「あ、あ、あ」と意味不明の声が漏れた。
 血と他のいろいろが混じった個体みたいな液体が気管にスポンと入る。
 肺に酸素がほぼない状態で、僕は癲癇てんかんのように震えながらせた。
 咳をすると、鼻の奥が割れたように痛かった。
「謝罪したいよな? 悪いことしたんだから。な? おい」
 なにかヒントを与えようとしている。
 僕は回らない頭でその優しげな声に答えようと、腫れた顎の骨を動かす。
 侍を前に土下座で平たくなる農民のような気分だった。
「おふぁえ、うぇうあ?」
 ちゃんと言えてないのだろうけど、僕の顎はもうこうしか動かない。
 歯が折れているのか、喋ろうとすると空気がもれる。
 言い終わらないうちに、耳をバシンと平手で叩かれた。
 鼓膜が音を失い、酷い耳鳴りが脳味噌を焼いた。
 男が「ぺっ」とツバをはき、それが僕の右目に入った。
「ですか? ってなに? てめぇで考えるのが誠意じゃねぇの?」
 ゴツンゴツンと、ドアをノックするように僕の鼻を叩きながら、男が言った。
 腫れた顔の真ん中が鈍痛を延髄までひび割れみたいに伝える。
 叩かれるたびに、僕の頭はグラングラン揺れて、酔った。
 吐きそうだ。
 僕は「あい、ういあふぇん」と泣きながら額を地面に擦り付けた。
 電光のような素早さで、横から耳が殴られた。
 アスファルトとオデコが高速で擦れて、皮がずる剥ける。
 悲鳴も出ない。
 横方向にぐるんと動いた光の渦を俯せのまま見て、少し視力が戻って来たのだと実感した。
 ヤスリのような地面に擦れた額に痛みはない。熱と振動だけを感じた。
 表面的な痛みよりも、頭痛と目眩が辛かった。
 手もとに落ちている肩掛け鞄から、震える手で財布を取り出す。
 それはすぐに、乱暴に、茶髪男に取り上げられた。
 大きな手だった。
 骨が太くて、握力が強かった。
「ちゃんと歩けよ、な? 次は殺しちゃうよ?」
 僕の財布で、僕の顔面がリズムよく叩かれる。
 ぽいと、財布が顔の上にのせられた。
 しゃがんでいた茶髪男が立ち上がり、地面を擦るような靴底の音とともに去っていく。重そうな靴音が重なって聴こえ、男たち全員が続いたのだとわかった。
 ずりずりというだらしない音が裏路地を出て、遠くなっていく。
 僕は寝転がったまま、重い腕で両目をおおって泣いた。
 怖かった。
 悔しくて、恥ずかしくて、悲しかった。
 こんなに暴力を振るわれたのは、生まれて初めてだった。
 人間はこんなに簡単に、ボロボロになるんだなと思った。
 数分前まで人間だったのに、もう僕は、暗がりに落ちているゴミと変わらない。
 圧倒的な不公平。
 これほど反論を受け付けてもらえない場面があることを、初めて知った。
 なんて不平等なんだろう。なんて理不尽なんだろう。
 人間が、じゃない。
 世界が、でもない。
 うまく言えないけど、運命が、というのが一番近いかもしれない。
 顔にのった財布が、いつの間にか地面に落ちていた。
 それを見るために回らない首をギシギシいわせて顔を右横に向ける。と、眉間に溜まっていた涙が右目に入り、眼球を汚してから右耳へと流れ、耳たぶから地面にぽとりと滴った。
 自分の目から出た液体なのに、異物が混入したのか、右目が酷く痛かった。
 首と同時に傾けた背骨や、捻れた腹筋やあばらが、攣るように痛んだ。


 ──つづく。
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