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第八話『接続』

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 セッションの開始と同時に、経験したことのない爆音の大渦に身体が包まれた。
 自分の意思で、自分の筋肉を動かさないと、なにも起きない。
 歌とは、いや音楽とは、そういうものなのだと意識させられる。
 心細さと緊張で、また顔が赤くなったり青くなったりした。
 ドラムの打撃音が、部屋全体に空気の波動を叩きつける。
 その奔流に乗っかるように、ベースの低音がまたビリビリと痺れるような振動を混入させる。
 さらにその上に、膝から力が抜けるほどのノイズと、高低音の交じるザクザクと刻むようなギターの刺激がかぶさり、記憶と思考を押し流して、攻撃本能の塊を心にのこす。
 スタジオ内は、まるで音が渦巻く洗濯機の中のようだった。
 緊張も不安も恥ずかしさも霧散し、おりのように心の底を煙く濁らせていた疑問のようななにかが、いつの間にかスカッと晴れる。でもまだ動けない。
 グルーヴの大波にのまれないよう両足を踏ん張り、波の勢いに自分の力をのせるように、ポンと激流へとダイブする。でもまだ動けない。
 私は驚き、楽しんでいる。なのに、いつまでも動けないのは、なぜだ?
 メンバーたちは楽しさを楽器に流し込み、頭を振って演奏していた。
 私の手には、マイクが握られている。
 サブがなにやらスイッチのたくさんついた機械にコードを繋げて二本のマイクを用意し、そのうちの一本を渡してくれたのだ。
 マイクってよく見る物ではあるけど、こんな場面で持つのはもちろん初めてで、思ったより軽いなというのが第一印象だった。
 全部の楽器の中で最も使い方が簡単なはずなのに、いざそれを自分の担当楽器として握ると、どうしていいのかがわからず、頭が真っ白になった。
 どうしても、口に寄せられない。
 そうするしかないのはわかってるのに、それができない。
 一歩、二歩と、無意識に後退る。
 モニターにマイクが近づき、ハウリングを起こす。
 腰が抜けそうなほどの高音が響き、意識が遠のく。
 鼓膜が奥に押し込まれ、心臓がキュッと締め付けられる。
 慌ててモニターからマイクを離し、(ごめんね)と心中で謝りながら見回すと、メンバーたちはまるで気にした様子もなかった。
 サブと目が合う。
 顎をしゃくるようなしぐさ。
 オイ、それは、なんのサインだ?
「なにか歌え」と言われたのだと気付き、また緊張でガチガチに固まる。
 石化したように、どうしても身体が動かない。
 サブがグルーヴにひょいと乗り、「ヨウ!」と叫んだ。
 自由に繰り返されていたリズムが、ぐいっと引き締まる。
 研ぎ澄まされたように正確さと迫力が増し、グルーヴのパワーが強くなる。
 サブが私を指差し、跳ねるように身体を動かす。
 その手がパッと開かれ、頭上にあげられる。
 ドラムとベースのテンポが落ち着き、「せーの!」と言っているかのようなものへと変化する。
 ギターのノイズが、私を挑発するかのように、鳴っては沈黙する。
 ガガガガッ、ガガガガッ、ガガガガッ。
 囲まれたような気分になり、追い込まれていく。
 三人の楽器隊が、私を逃さないように挑発し続ける。
 サブを見ると、彼は満面の笑みで頷いた。
 そうか、と自分の誤解に気付く。これは挑発ではなく、誘いなのだ。
 サブがドンッと、足の裏で床を強く鳴らす。
 そのまま軽やかにステップを踏み、ラップのようなリズムのスキャットを歌う。
 一定のリズムに味付けがされ、生命が吹き込まれる。
 爆音の渦が、カラフルに楽しく色付けされていく。
 なるほど。
 彼らが私に求めていたのは、という理不尽な無理難題などではなかったのだ。
 それでは頭のなかの引き出しをいくら開けても、答えなど見つかるわけがない。
 私が手に持ったマイクを使えなかったのは、そのあるはずのない記憶を探そうとしていたからだった。
 そうじゃないと、サブが教えてくれた。
 彼のように自由に、感じたままの音で、このグルーヴの波に乗ればいいんだ。
 右手が持ち上がり、マイクを自分の口に寄せる。
 ムニャムニャと、メロディなのかなんなのかわからない声を、少しだけマイクに送ってみる。
 まだ、マイクは冷たい機械のままだった。
 皆の顔を見る。
 私に向けられる八つの瞳は、「やってみろホラ、できんのかよ」なんて感じの、偉そうなメッセージを発してはいない。
「一緒に遊ぼう、こっちへおいで」と言ってくれていた。
 私はただ、さしのべられたその手を、素直に掴めばよかったのだ。
 みゃーみゃーと、歌っぽいなにかが口から躍り出る。
 メンバーたちがコクコクと何度も頷いて、さらに入りやすいようなリズムへと、音の隙間をひろげて迎えてくれた。
 マイクに体温が伝わり、温かくなっていく。
 機械に私の血管が繋がり、血流がコードの先へとのびていく。
 私は目を閉じて、太鼓のリズムとベースラインが混ざり合うようなメロディを、編み込むように歌った。
 ギターの音が大きいので、ついそっちを聴いてしまい、ギターの上にのるようなメロディを歌おうとしていた。
 違う。
 聴くべきは、のせるべきは、リズム隊の創る流れだ。
 ギターの音は、それに乗っている。
 私はその上にさらに重ねるのではなく、ギターと一緒に同じリズムに流されればよかったのだ。
 そうすると、ギターが合わせてくれた。
 私の創るメロディが一回りすると、それにノイズで飾り付けをしてくれるようになった。
 私はそのメロディをさらに発展させ、さっきと同じベースラインにのりながら、違う工夫を加えて歌ってみた。
 ギターが、またそれに合わせてくれる。
 ドラムが楽しそうにオカズを入れる。
 ドラムのこの、リズムの合間に遊びを入れるようなのを「オカズ」と呼ぶのだと私が教わったのはセッションの後のことだけど、私はその意味を、味わった瞬間に身体で受け止めた。
 歌ううちに、もうひとつ勘違いをしていたことに気付く。
 セッションは「感じるままに、頭でなく心で歌う」のだと、勝手に思っていた。
 これがそもそも、ムリのあることだった。難しく考えすぎていた。
 耳や肌で感じたリズムや音に合うメロディは、脳ミソを絞るようにして生み出すものだった。
 考える、というのとも違う。
 メロディを、脳ミソが口に伝えて排泄させるのだ。
 肌や耳から摂取した感覚を、脳で消化する感じ。
 その変換器のような役割は、感じたままでは機能しないのだ。
 セッションを続けると、頭がすごく疲れる。脳をつかうからだ。
 もちろん、心や経験した記憶などのフィルターを通すという要素もあるだろう。
 でも、生み出すのはやはり、自分の脳ミソなのだ。
 私を含めた四人は、一つの機械のように機能した。
 演奏の熱が、次々とポップコーンのように音を破裂させる。
 熱を発するには、エネルギーがいる。
 私は自分のなかの燃料を燃やして、どんどん口から排気した。
 サブ以外のメンバーとは今日、初めて会ったのに、魂が繋がるような、不思議な感覚が全身に充満していた。
 魂と魂が侵食するように混ざり、互いに影響を与えあって、心のどこかにある、自分でも知らなかった扉を強引に、次々とこじ開けていく。
 それは乱暴だけど、不快ではなく、怖くもなかった。
 私がすっかり慣れたのを見て、サブが参加した。
 男と女、二色の声音が絡み合う。
 ボーカルセッションだ。なんと気持ちいい。
 サブはコーラスのように脇役に回ってくれたので、歌い手が二人いても、主役は私のままだった。
 サブが跳ね回ると、私も一緒に跳ねた。
 楽器隊も、思うままに暴れている。
 すごい、すごいすごい! なにこれ!
 体力の、というか、脳ミソの燃料がなくなるまで、思う存分、セッションは続けられた。
 誰かの演奏がふと止まり、自然と他の皆も止まる。
 でもまだ心は波にのったままで、躍り続けていた。
 大量の汗で、全身がビショビショだった。
 でもその汗は、驚くほどにスッとひいた。
 ふだんの汗を老廃物だとしたら、ここでかく汗は宝石のようだと思った。
 なにかキラキラとした、価値のあるものが肌から溢れ出るような感じ。
 マイクを握っていた掌も汗で濡れていた。
 唇と掌からは、鉄の匂いがした。
 皆が笑い、セッションの喜びのままにヒャーヒャーと叫んだ。
 私たちは演奏の後もスタジオの床に座り、ずっとお喋りをした。
 初対面の気まずさなんて、もうなかった。
 サブは、メンバーたちをフルネームでは紹介してくれなかった。
 面倒だからとか、私が仲間じゃないからとか、そんな冷たい理由からじゃなく、バンドの世界では本名なんてどうでもいいからというのが理由だった。
 名前なんて、ただの記号。
 目の前にあなたがいて、一緒に演奏し、笑っていることがなにより大事。
 それがバンドマンの考えかたらしい。
 ドラムはノン。
 ギターはノビ。
 ベースはケイ。
 なるほど、たしかに覚えやすい。
 顔と二文字を繋げるだけ。
 それだけで、親しい仲間のように呼びあえる。
 でも私は、本名を知らないのもなんとなく寂しくて、後で自分で調べた。
 ノンは、ノッポ・マエニス・ワルトジャマー。
 ノビは、ノビタ・マーエグ・アミウ・ゼーナ。
 ケイは、イエデーダ・ケイマ・マトヨンデル。
 と、いう名前らしいのだが、ふーむ、たしかに。
 全員をいきなりフルネームで紹介されたら、今頃は忘れていたかも。
 やっぱりサブの言うとおり、ニックネームで呼ぶのがよさそうだ。
 ノン、ノビ、ケイ。ね、ふむ、簡単。
 サブはバンド仲間にも、サブと呼ばれていた。
 私は今後、教室で彼を呼ぶとき、変な名前だったら面倒だなと思っていたので、それを聞いて安心した。
 部室を出るとき、私は皆に、「また来る」と約束した。
 その場の空気に流されて、じゃない。
 こんなに充実した楽しい時間は、初めてだったからだ。
 まだ喉が痛くて声が掠れているし、マイクに擦れた唇はヒリヒリしている。
 頭はまだ、疲れて痺れたままだ。
 そういえば、セッションのあとでそれをサブに伝えたら、そのうち上唇にタコができるよと言われた。
 汗と一緒に体内の毒が流れ出てしまった私は大笑いし、サブの腕を軽く叩いた。
 サブは「本当だって」と言ってたけど、どーでもいい。
 それより、私につられて笑っていた彼の笑顔が魅力的だと感じたことのほうが、記憶に強くのこっている。


 ──つづく。
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