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第二十六話『脱皮する少女』

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「彼女が君になにか、プライベートな用件があるそうだ。思い当たることは?」
 コーチの問いに、「いえ、ありません」とトランが即答する。眉間のシワが少し深くなり、表情に険しさが増す。
「彼女の口ぶりだと、ご家族のことかもしれん、話を聴いてやりたまえ」
 トランの表情が、怪訝なものから驚きへと変わる。
 ものっすごく、混乱しているのが伝わってくる。
 そりゃそうだ、ムリもない。
 私は彼の家族でも親戚でもなく、彼の家族や親戚に、知り合いもいない。
 私が交渉だと思っていた方便は、ただの嘘っぱちだったのかもしれない。
 いや、『かも』じゃないな。完全に嘘だ。
 卑怯なやりかたで、私は彼らを騙した。
「はあ、わかりました」
 汗まみれの顔を迷子のように不安げにして、トランが私のほうへ寄ってくる。
「プライベートな用って、なに?」
「ここじゃ話せない」
 私が言下に返すと、トランは視線を大人たちのほうへ向けた。
 オジサン二人が、表情と手振りで「いけ」と彼に許可を与える。
 トランは目礼で応え、私の横に並ぶ。
 私たちは、コーチたちが小さくなるくらいまで離れた。
 私が彼に正面を向けると、彼もそれに倣う。
 疑問だけがグルグルと回っているのであろう顔が、私を見る。
 私はここまでこられたことに満足して目をつむり、深呼吸をした。
 気持ちは、落ち着いている。
 嘘を並べて、強引につくった状況だからだろうか。
 全く現実味を感じない、夢のなかの出来事のようだった。
 トランがその間に耐えられなくなったのか、先に口を開いた。
「キミさ、ウチの親か姉から、なにか伝言でも頼まれてるの?」
 私はフフと笑い、首を横に振る。
 彼と目が合う。
 ここまでしておいてなにも言わない私に、不安を覚えているのが伝わってくる。
 そうだよね、これじゃまるでドッキリみたいだ。
「お姉さん、いるんだ?」
 私の答えになっていない答えに、彼は「え?」と戸惑う。
「いや、うん、いるけど」
 伝言があるんじゃないのかよと、イラついているのが伝わってくる。
 ほんとゴメン。でも、自分の気持ちを確認するには順番があるんだ。
 重要なのは、そう、彼を支配しているであろう夢や、日々の喜びだ。
「トランは毎日、楽しい?」
「は? なに言ってんの?」
「ハングリーボールをやってるのは、プロになるため?」
「ちょっと、マッカ=ニナール。いい加減にしてくれよ」
「トランにとって一番大切なのはナニ? 誰?」
 私の質問攻めになにかを諦めたような顔になり、トランが肩を落とす。
「悪いけどさ、練習あるから、もういくよ」
 迷いなく背を向けて、足早に歩き去る大きな背中。
 防具だらけの記号のようなルールのなかに、また紛れようとしている。
 聞く価値なしと、私の疑問を切り捨てて。
「好き!」
 自分が出せる一番大きな声を、まだ届くうちにその背にぶつけた。
 耳から脳に情報が届くまで、二、三本進んでから彼が立ち止まる。
「……て言おうかどうしようかって迷ってね、とにかく話してみようと思ったの」
 肩越しのため息に、「なんだよそれ」という声が混じる。
「ずっと前から、あなたのことが好きだったんだけど、それが本当にあなた自身を好きなのか、それとも、人気者のあなたは目立つから、私の女性としての本能が、皆がいいと噂する相手を好きにならせたのかを知りたかった。でも、どうやったら自分の気持ちが本物なのか、それとも偽物なのかがわかるんだろうって、考えても考えてもわからなくて。だからそのままの気持ちを、伝えてみることにしたんだ。ゴメンね。こんなの失礼で、勝手な話だよね」
 トランは立ち止まったまま、横顔だけをこちらに向けている。
 訝しげな表情から驚きの表情へ、そして呆れ顔で去りかけた途端に私の一方的な告白を聴かされた彼は、疑問だらけの、少し怯えたような顔になっていた。
 果たして自分は今、なにを言われているのだろうか? という顔。
 それは、未知の言語で話しかけられている者の表情そのものだった。
「勝手ついでにもう少し言わせてね。やっぱり私は、本当のあなたを見ようとしていなかったのだと思う。好きだって気持ちも、思い込みだったみたい。モテる人を好きになるのって、有名人や人気者を好きになるのって、本当に簡単なんだよね。練習の邪魔をして、ずっと勝手なことばかり言って、本当にゴメンナサイ!」
 口が動くまま自由に言葉を発して、最後は姿勢を正して深々と頭を下げた。
 下げた頭を勢いよく上げると、もうそこには、今までの私はいなかった。
 誰かのルールや流行や噂に踊らされて、右往左往する私は消えた。
 便秘から開放されたような、スッキリした気分だった。
「じゃあね、トラン。もう運動場ここにはたぶん来ないと思うけど、応援してるよ!」
 ハキハキとした声に似合った笑顔の私は、もう一度きちんとお辞儀をしてから、トランにくるりと背を向けた。
 顔を上げた瞬間にちらりと見えた彼の顔は、ハニワのようなポカン顔だった。
 私は大股で、ぐんぐんと彼から離れていく。
 一歩ごとに、自由を感じた。
 自分の足で歩いているのがわかる。
 なぜだろう? 嬉しくて嬉しくてしかたがなかった。
 頭のおかしい変人が来たと、トランもオジサンたちも思ったことだろう。
 そのとおりだ。ゼンゼン間違っていない。
 あなたたちの感覚のほうが正しい。
 たぶん私は今日、すごい恥をかいたし、好きだった人にも恥をかかせた。
 トランがこれで傷ついたとは考えにくいけど、そうじゃないといいなと思う。
 トランには本当に感謝している。
 私が生まれ変われたのは、彼が(強引にとはいえ)協力してくれたからだ。
「ああ空が青くて風が気持ちいい」と、グラウンドを闊歩しながら、船出のような気分で私は顔を仰向けた。



 ──つづく。
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