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第三十七話『印象世界』
しおりを挟む私が最前列で観ているのは、このモッシュピットを避けるためだった。
モッシュには輪を囲う男衆が、女性や子供や障害者を護るという暗黙のルールがあるにはあるらしいのだけど、念の為に。
メンバーは口を揃えて、出演者である私がケガをしないよう、安全な位置にいることをすすめた。
たしかに男たちには、ただ暴れているだけでなく、倒れた人を助け起こしたり、弱者を庇ったりしている様子も見て取れる。
なるほど。暴力的な混乱状態に見えて、意外と冷静なんだなと感心する。
酸欠になり、顔が土色になった人が、会場の隅へと移動してへたりこんでいる。
フロアの前半分の約二百人ほどが、大喧嘩祭りをしているようだった。
いかつい彼氏に肩車をされた彼女が、上半身裸でブラを振り回している。
ええ? なにあれ? なにをしているの?
肩車カップルはあちこちにいるが、彼女が胸をさらしているのは数組だった。
そのうちの一組の彼女が後ろからおっぱいを揉まれ、ブチギレている。
彼氏は気付いていないようだが、彼女は後ろの男を鞄でぶん殴っていた。
フロアの後ろ半分の観客たちも、飛んだり踊ったりと、身体を動かしてライブに参加していた。
ただの混乱状態のようにも見えるが、サブが要所で煽ると、従順な子羊のように皆が応える。
サブが暴れるから、観客も暴れているのだ。
人山のうねりは、蠢く大きな影の塊のようだった。
すごい。
ライブとコンサートって、なにが違うのかな? いつか頭を掠めた疑問が不意にパチンと解ける。
ステージの上だけがライブじゃないんだ。
フロアでも、参加している人は皆が、なにかを表現している。
これが、ライブなんだ。
きっと、そうに違いない。
「ここで、ゲストボーカルを紹介させてくれ」
用意してきた曲目を演り終え、息をきらしながらサブがフロアに語りかける。
言葉の意味が脳に届くとともに、血管が二、三本切れたかと思うほどの、強力な目眩におそわれる。
床にへたり込みそうになり、両足を踏ん張って耐える。
忘れていたわけじゃない。
ただ、今のこの瞬間まで、現実のことだと思えなかっただけだ。
私が、このステージに上がる?
ムリだ。絶対にムリだ。
あんな場所で、私になにができる?
なにもできるわけがないじゃないか。
「マッキー! ほら、あがってこいよ!」
サブが私に手を差しのべる。
遠近感がおかしい。
はるか遠くにいるサブから、大蛇の鎌首のように手がうねうねと迫ってくる。
自分の意志ではない。でも私は、彼の手を握った。
ぐいと、力強く引きあげられる。
ふわりと浮かび、次元を超える。
フロアとステージは地続きだが、その中間には見えない壁がある。
景色の見えかたも、音の聴こえかたも違う、別世界への侵入。
頭の中には、さんざ練習したはずの歌詞が、一文字も見当たらなかった。
どこかにのこらず吹っ飛んだ、練習のときの時間の全てを探す。
ない、ない、ないよ!
頭のどこにも、言葉の一欠片も落ちてない!
どうしよう、どうしよう!
「最後の曲です。みんな今日はありがとう! 心から感謝するよ」
手をあげるサブに、会場がドウと声援を送る。
サブは胸に掌をあてて会釈し、声援に応える。
始まっちゃう。
たすけて!
バラードのように静かに、その曲は始まった。
私に観客の好奇の視線が集まる。
太陽の光を集める虫眼鏡のように、広い平面から点へと。
その光熱に焼かれて、炭化して、崩れ落ちる。
全身が、着ぶくれて濡れたように重い。
体重が倍、いや、三倍くらいに感じる。
とてもじゃないが、動けるような重さじゃない。
視線は大口を開け、ムシャムシャと私を食い尽くす。
骨ものこらない食欲の海へと沈んでいき、私は深海に船体を横たえる。
ふわり。
なにかが、身体の横から浮かび上がる。
右手だ。
いや、いつの間にか右手に握らされていた、マイクだ。
マイクは急浮上し、私の唇に着船する。
歌うようなギターの、前奏が通り過ぎる。
深海にいるはずの私が、穴ぼこのような唇から大気を吸い込む。
大量の、個体のような酸素。懐かしい、鉄のニオイ。
唇にあたる、ザラザラとした丸い硬い網目。
私の記憶は、ここで一度、途切れている。
今になっても、あのときの自分がなにをどうしたのか、思い出せない。
でも気付いたときには、全身を太くて尖ったまばゆい照明に刺し貫かれたまま、人の胸辺りまで高さのある板の上で、サブと一緒に歌っていた。
さっきより身体が軽い。なぜだ?
下方から自分に向けられる無数の視線に、浮力を感じた。
これは、なんだ?
サビを歌い終え、暗い会場へと視線を向ける。
天使を見上げる敬虔な信者たちの熱心に惚けた陶酔の顔が、闇に溶けて見えなくなる遠くまで広がっていた。
敷きつめられた顔模様の絨毯のように、同じ顔が並ぶ。
暴れて、暴れて、興奮して踊り狂い、汗まみれで満足した顔と、顔と、顔。
熱々の火鍋の後に提供された、コラボ曲という冷たいデザート。
目で、耳で、肌で、全身で味わい、甘い喉ごしをたのしむ。
それはTVでよく観るような、ラッパーの男ボーカルとクラブ系の女ボーカルの共演ではなく、また、ミュージカルで観るような、ハモリだらけの自己陶酔曲でもなかった。
美しく奇妙に始まり、ポンポンと丸く、ポップで楽しくなり、キャッチーなまま激しさを増し、楽器も歌も渾然として感情を爆発させ、楽器だけが引き剥がされるように暴風を巻き起こし、私はそこで舞い踊り、精霊のように歌い、邪悪な語りをサブが地霊のように揺らして、鼓動のようなラップにグラデーションしてゆくと、私は感情を暗黒に染め、サブは詩人のように滔々と語り、二人の明闇がくるくると入れかわって演劇のようにサブが照明の下で嘆くと、私が大サビを全身全霊で歌い上げる。
顔の絨毯の模様が変わり、たくさんの口がポカンと開いていく。
催眠術にでもかけられているかのように、夢中な顔が点から線になり、そのまま膨らんで大きな面になる。
大きく一つになった大勢の顔は私を風船のように吹き上げ、身軽に躍らせた。
これは、自信。
これは、プライド。
これは、多くの時間と汗の結晶。
これは、自分自身。
遺伝子に、なにかがガリガリと上書きされていく。
あれほど重かった身体が、空気のように体重を失う。
人に必要なのは、呼吸ではなかった。
楽器隊がメチャメチャに音を鳴らし、バンッ! と突然、世界が終わった。
暗転。
影法師となった私とサブとノビとケイが、深々と頭を下げる。
挨拶のかわりに、ノンがシンバルを鳴らし、タムとバスで着地する。
フロアの遠くから、ザワザワと波が高くなっていく。
それは歓声であり、悲鳴であり、指笛であり、感動の笑顔だった。
──つづく。
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