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第四十二話『凋落のマッチョ』
しおりを挟む「待って、ゴメンね、トラン」
私は、その、翼のように広げられたトランの両腕を押さえ、身を引いた。
生まれて初めて受ける拒絶だったのか、トランは驚きや羞恥でなく、疑問を顔に浮かべた。
「あのとき言ったよね。私はね、あなたを好きだと勘違いしていただけなの」
迷い込んだ異世界。そこで遭遇した未知の存在に謎の言語で挨拶された人の顔。わかりやすく首を傾げるトラン。
うーん、そっか、伝わらんかぁー……。
この先を言わせる彼に対し、怒りと同情の綯い交ぜになったような複雑な感情が沸き起こる。
ああ、私は今度こそ、彼に恥をかかせ、傷付けてしまう。
サブだったらこんなとき、どう答えるのだろう?
きっと、まっすぐ、謙虚に、素直に相手の気持ちを受け止めて、誠実に、正直に対応するはずだ。
私だって、そうしたい。
トランの真剣な想いに対して、いい加減に返事をしたくない。
「ふっ」と短く息を吐いて、気合いを入れる。
下腹の筋肉が硬くなり、言葉を喉へと押し上げる。
「私は、あなたを好きじゃない」
自分にこんな、マリア様のような声が出せるのかと、マリア様の声なんか聴いたことないくせに思った。
慈母の与える躾の如く、愛をもってする残酷な仕打ち。
どれほど自分に自信のある男が、なにを言われてもプラスに受け取ってしまう、ポジティブという名の耳糞の詰まった耳で聴いたとしても、他の意味に取りようのない、完全なる拒絶。
トランの顔が、一時停止のように固まる。
怒っても泣いてもいない、その中間のような歪んだ笑みが震えている。
視線は私に据えられたままで、立ち去ろうともしない。
フラれるという未来を信じないとか、認めないとかじゃなく、知らない人の顔。
私の口が「でも」と動いて、吐いた言葉を反転させるのを期待している。
残念だけど、どんなに待っても答えは変わらない。
私はハッキリと、彼の目を見て伝えた。
「私には今、大切なことや大切な仲間がいるの。そして、誰より大切に想っている人もね」
ゆっくりと、トランに私の言葉の意味が浸透するのを待つ。
じわり、と、トランの表情がまた変化した。
なにかを受け入れたという潔い表情を期待したが、納得がいかないという拗ねたガキのような、それは、できればあまり見たくなかった顔への変化だった。
胸の奥がチクリと痛む。
罪悪感と、ガッカリした気持ちが競り合う。
一方的に相手を傷付けているという自覚と、彼を好きだった過去を美しいままにしておいてほしいという、ワガママな願いが拮抗する。
硬くなった下腹が熱をもち、そこから次の言葉がせり上がってくる。
それは、自分でも確信を持てずにいた、心の奥深くで大切に育てていた気持ち。
「好きな人がいるの。でもそれは、あなたじゃない」
少し、残酷な言いかただったかもしれない。
でもたぶん、トランにはこのくらい言わないと伝わらない。
まるで朝顔の成長を見守る定点カメラの倍速映像のように、トランの表情が醜く崩れていく。
玩具が欲しいと親にねだったのに、買ってもらえなかった幼児の顔。
その甘やかされたクソガキのような顔から、喚くような反撃が放たれる。
「なんでだよオマエ、俺を好きな女が何人いると思ってんだよ。バカじゃねぇの? オマエなんかが俺と付き合えるチャンスは、もう今後一生ないぞ? そこんとこをよーく考えて、もう一度ちゃんと返事をしろよ、マッカ=ニナール・テレクサ!」
イケメンのモテ男の人気者の王子様も、マッチョなのは外見だけで、一皮むけば挫折を知らないただの駄々っ子だった。
私はこんな風に、ずっと好きだった人に言いたくなかった。
「そうやって言い張れば、なんでも思い通りになると思わないでよ。私はあんたのママじゃないんだから」
ガツンと、鼻柱をぶん殴られたような顔になるトラン。
青ざめた顔色が、真っ赤に熱をもっていく。
あれは、怒りか羞恥か。
いや、違う。
プライドを傷付けられた者特有の、敵意の色だ。
キラキラとしたモテ男のメッキが、ボロボロと剥がれ落ちていく。
トランは私を蔑むように睥睨し、地面にツバを吐き捨てた。
チンピラのような態度。
これが本当にあのトランか? と、目を疑いたくなる。
「後悔するなよ、この糞オンナ」
およそ世界のどの国の王子様も吐かないであろう捨て台詞。
半泣きで逃げ去る、ヘロヘロの後ろ姿の筋肉造形が美しいのが悲しい。
ああもう、なんてことだ。
たしかに、キツイ言葉でフッた私が悪い。
悪いのを認めたうえでも、もう少しこう、なんというか、ここまでザコ臭を放つ負けかた以外はできなかったものだろうか?
私の体内は、完全に無風だった。
選んだ道が、間違っていないとわかってはいた。
今それが、ちゃんと証明されただけのこと。なの、だが、やはり心は痛い。
──つづく。
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